半透明のクラゲがゆらゆらと泳いでいる水槽は、鮮やかで妖しいライトに照らされている。水槽の前で自撮りをしているカップルをよそに、私はクラゲが漂っている姿をぼんやりと眺めていた。
クラゲは海にいると刺されるかもしれないから危険だ。そんなものでも、水槽に入れて光で演出すればデートスポットにすらなるのだから不思議だ。
(クラゲはこんなところで人間に見られる生活をどう思っているんだろう)
餌には困らないだろうが、自由はない。でも守られた場所でただ漂っていられる。頼るものは何もない海に放り出されるのとだったら、どちらが幸福なのだろう。つい考えてしまうけれど、そもそもそんなことを思う心がクラゲにあるのかもわからない。変なことをつらつらと考えてしまうのは、最近思うようにピアノが弾けないからだ。
スランプと言ってしまえば簡単だが、解決にはならない。七夕の日、コンクールの予選が終わって七夕コンサートに行ったあとから、自分が思うような演奏ができなくなってしまっている。
スランプのときは気晴らしをした方がいいと皇先生に言われ、誘う相手がいなかったので樹里を誘って水族館に来たものの、樹里はシロイルカに夢中になりすぎて全く動こうとしなかったので、仕方なく一人で回ることにしたのだ。気晴らしとは何だったのだろう。ただ練習室で悶々としているよりはましかもしれないが、クラゲを眺めていても心は躍らない。
何がそんなに引っかかっているのだろうか。七夕コンサートでの純恋との会話が原因になっていることはわかっていた。一人でも十分歌える彼女は、けれど大勢の人間と音楽を作ることを選んだ。その理由がどうしても自分には理解できない。確かに人間は複数の声を同時に発することは出来ないから、彼女にはともに音楽を奏でる人が必要なのかもしれない。けれど他人が混ざれば混ざるほど、個としては濁っていくものだろう。
どうせわかりあえないのだと割り切ればいいのだ。自分が嫌いだからといって、この世から消えてほしいとまでは思わない。私が伴奏を引き受けない。ただそれだけでいいはずなのだ。それなのにどうして、こんなに腹立たしいのだろう。
理由は薄々わかっている。純恋からしてみれば理不尽すぎる八つ当たりだ。音楽に対してまっすぐで、天真爛漫な笑顔がよく似合っていて、己の才能にまるで気がついていない。純恋は瑞希に似ているのだ。
瑞希のことも純恋のことも知っている樹里は、二人をどう思っているのだろう。それを聞きたくて樹里を誘い出したのだが、聞く前に樹里はシロイルカの虜になってしまった。私はクラゲの水槽の前で溜息を吐き、暗いそのエリアを抜け出した。
「あ、遥希。もしかしてもうクラゲ見終わっちゃった?」
「見終わったよ……。シロイルカはもういいの?」
「うん。堪能した」
肩より上で切り揃えた髪に、白のメッシュ。今日は背中がざっくりあいた黒いシャツを着ている。水族館に来るにはいささか派手な格好をした樹里は、スマホをちらりと見てから言った。
「私クラゲ見たいな。遥希はどうする?」
「付き合いますよ。待ってても暇だし」
もう一度中に入り、私と樹里は大きなクラゲの水槽を眺めた。色が変わる照明が、私達を不思議な色に照らしている。
「――遥希さあ、もしかして純恋のことが気になってるんじゃない?」
クラゲを見ながら、樹里が私に尋ねてきた。
「こういうとき、遥希が私を誘うとは思えないしさ。何か私に話があるんだろうなって思って」
「気になるっていうか……理解できなくて。でも妙に……何か見ててイライラするっていうか」
「正直だね。一応私から見ると二人とも後輩兼友人なんだけど」
「あ……そうだった」
「まあごまかされるよりはいいけどね。遥希の気持ちもわかる」
「え?」
たった今、後輩兼友人と自分でも言っていたのに。樹里は大きい水槽を離れて、次の水槽の前に立った。瓜のような形をしたクラゲが漂っている。
「瑞希さんもそうだったけど……才能ある人に限って、自分の才能に気付かないんだよね。こっちはそれが欲しくて仕方ないっていうのに。ミスチルだってそう歌うくらいには」
「なんで急にミスチル……」
「昨日たまたま聞いたから。私からすれば桜井さんも才能の塊だけど」
邦楽には明るくないから、樹里の話はあまりわからない。けれど、音楽を生業にして長く続けられているというだけで才能があることに疑いはない。
「音大に行ってたって音楽を生業にできるのは一握り。それができる力があるのに全く気付いていない人を見ると、凡人は当然腹が立つよ」
「でも、樹里は姉さんのこと――」
「好きだけどね。純恋の歌も大好き。でも……自分にそれが出来ないのが腹立たしい。どれだけ頑張っても、あの二人みたいに人を惹き付ける演奏が出来ないのに、自分でも二人の音楽を素晴らしいと思ってしまうから尚更悔しい」
自由に生きていると思っていた樹里の思わぬ本音に、私は何も言えなくなっていた。考えていることは私と似ている。違うところがあるとするならば――。
「でも私は、音楽を仕事にすることは諦めたから。今は何も考えずに楽しく弾いてる。遥希は違うでしょ?」
「私は――」
私は演奏家を目指している。そのための道を拓くため、コンクールにも挑戦している。樹里は笑みを浮かべて私を見た。
「それについて何かを言うつもりはないけどね。でも、もし今の状況が苦しいなら、思い切って違うことをやってみてもいいと思うの」
「違うことって、伴奏とか?」
「手っ取り早いのを選ぶならそれだね。嫌いだろうが楽譜通り弾けばなんとかなるわけだしさ。それに私は昨年やってみて、自分の中の音楽を見つめ直す機会にもなったから」
「そういえば、就活するって決めたのって、昨年の冬だっけ」
どうしてその道に決めたかを聞いたことはなかったが、樹里の口ぶりでは伴奏をやったことがきっかけとなっているようだ。今の樹里は随分と気楽そうだ。先生は一気に不真面目になった樹里に手を焼いているようだが、それでもどこか楽しそうにしている。
「樹里は今、ピアノ弾いてて楽しいの?」
「うん。すごく楽しい」
私は――最後に楽しいと思えたのはいつだったのだろうか。
食べられるクラゲがいるらしいよ、と全く関係のない話を始めた樹里を見ながら、私は長く息を吐いた。
「樹里」
「何?」
「……弾いてみれば何かが変わるかな」
「サンプルが一しかないから、保証はしかねるけど。まあ何も考えずに飛び込んで見ればいいと思うよ」
そこに答えがあるのかはわからない。合唱を嫌いなまま終わる可能性もある。けれど瑞希や純恋に対する苛立ちをそのままにしていても、ここで立ち止まったままになってしまう。それなら今まで知らなかった世界に飛び込んでみるのもいいかもしれない。
それに、私は。
「このままもやもやしてるのも嫌だし。だから――やってみようと思う」
どうしても純恋のことが気になる。今の中途半端な状態を維持していたら、この気持ちは悪化の一途を辿ってしまうかもしれない。それは何となく腹立たしいのだ。
*
「最近は日本にもこういうのがあるのね」
「ミズキが日本にいた頃からあったと思うけど」
「そうなの? まあその頃あんまり外にも出かけてなかったし……」
駅などに誰でも弾けるピアノが置いてある風景は、これまで旅をしてきた欧州ではわりと頻繁に見かけた。日本でも同じようにピアノが置いてあり、それは美術品として扱われてもいるのか、奇抜な塗装がされていた。
私はその派手なピアノに近付き、鍵盤に指を乗せた。『きらきら星変奏曲』――誰もが知っているその旋律に釣られて、徐々に人が集まってくる。一緒に日本に来たマリアがスマホのカメラを私に向けている。録画なんかしなくても、いつでも弾いてあげるのに。
いろいろな場所を散々彷徨って、結局日本に戻ってきた。この後は故郷である名古屋を目指す。家に帰るつもりはない。けれど、置き去りにしてしまったものの様子がどうしても気になるのだ。