寝転がれる芝生とちょうどいい木陰。誰かは知らないけれど、この大学を作るときにそんな空間を作ろうと思った人に感謝しながら、私は特等席に横たわった。今日はまだ風があるから涼しい方だ。それでも長居すれば熱中症になってしまうくらい、名古屋の夏は暑い。既にうっすらと汗をかき始めていた。
大学は車通りの多い道沿いにあり、車の音がひっきりなしに聞こえる。音楽大学らしく楽器の音も入り乱れている。目を閉じると耳元で音の渦ができて、瞼の裏に波が浮かぶ。夏はそれに蝉の声まで混ざってくる。言ってしまえばかなりうるさい。
雑音ばかりの場所にいると、いつも自分だけが別の部屋にいるかのような気持ちになる。周囲と私を隔てる透明な壁。全ての音が平等に遠くなって、聞きたい音すら届かない。それはこうやってぼんやりしているときだけでなく、日常生活を送っていてもそうなってしまう。音が鳴っているのはわかる。誰かが話している声も聞こえる。なのに、聞こえてくる音の音名を言い当てられても、相手が何を言ってるのかは聞こえない。
何度も聞き返す私を見て、母は私の耳を心配した。けれど検査しても異常はない。音楽をやっていく上で耳は大切なのに、私の耳はそんな欠陥品で、それを悟られたくなくて、いつしか聞き取れなくても誤魔化すようになった。後になって何を言っていたのか文脈で理解できることもあるし、生きていく上でさほど不都合はなかった。――けれど、音楽家にとって耳は命とも言うべきものだ。
瑞希は耳の良さをよく褒められていた。本当に小さな音でも聞こえるし、音の違いを聞き分けるのも得意だ。私とは違う。瑞希はありとあらゆる点で私を上回っていた。
だから、昨日母に言われたことも理解できる。簡単に言えば、合唱の伴奏をするのを反対されたのだ。そんな余計なことをしている時間なんてないでしょう、と。数日前までの私なら、母と同じように考えていただろう。でも何かが気になって仕方なくて、そのせいで演奏もうまくいかない現状を打破するには、回り道にも思える行動をするのも必要なことだ。
梢越しの空を見て、私は溜息を吐いた。そんな余計なことをしている暇はない、の裏には、まだ瑞希に追いつけてもいないのに、という言葉が隠れている。でも普通に練習しているだけでは超えられないことは、今までで理解してしまっている。瑞希もいなくなる前は、一心不乱に練習だけをしていた。同じようにやっても全く歯が立たないなら、少なくともそのやり方は意味がないのだ。
「遥希さん?」
不意に降ってきた声に、私は驚いた。何故こんなところにいるのだろうか。今日の純恋は緑色のシュシュで髪を纏めていた。純恋は前に樹里と話すためにここに来ていたこともあるが、純恋の大学からここまではそれなりに距離があるのだ。何故こんなところまで来ているのだろう。
「ここ涼しいけど、ずっといると熱中症になりそう」
「木陰でもどうしようもないくらい気温と湿度が高いからね」
「合宿やるところは、朝なんかはむしろ寒いくらいなんだけどね」
合宿――伴奏を引き受けたからには行くつもりだったが、母に反対されてしまったから、それは難しいかもしれない。何せ四泊五日もあるのだ。自分の練習はどうするの、と詰め寄ってきた声が蘇る。
「……実は、親に伴奏やること自体反対されちゃって。まあ反対されても関係ないからやるんだけど。でも合宿は参加できないかも」
「合宿は、部員でも名目上は任意だから、無理に参加して欲しいってわけではないんだけど……遥希さんの親って厳しいの?」
「どこもそんなもんかなって程度だよ。音大なんて、特殊な事情がない限りは親の支援がなければ通えない。だからどうしても干渉気味になる。普通の範囲内だよ」
「普通の範囲内でも、厳しいのは厳しいし、それに対して嫌だって思うのは間違ってないと思うよ」
言葉の裏側に隠した本心を見抜かれてしまった。伴奏を引き受けると決めて勢い付いていた私は、出鼻をくじかれる形になってしまって、少しばかり意気消沈していたのだ。
「でも、私が一番をとれてないのは事実。なのに遊んでるように見えるのは仕方がないのかもって思ってはいるけど」
「でもさ、ずっと練習だけしてたって、私たちは百メートルを九秒で走れるようにはならないよ。九秒で走れなきゃ遊んでるなんて、そんな理不尽な話はないと思わない?」
純恋の言葉は正しい。全てを犠牲にして努力したところで、私が世界最速のスピードで走れるようにはならない。それはピアノだって同じだ。無理なものは無理なのだ。
「……私は別に歌で食べていこうとかは思ってないから、甘い意見なのかもしれないけど」
「そんなことないよ。それに、これは陸上の選手が水泳で体鍛えるみたいなものだと思ってるし」
私は立ち上がった。このままここで話をしていたら、それこそ熱中症になりそうだ。
「そういえば、純恋さんはどうしてここに?」
「あ、そうだった。今日樹里とご飯食べに行こうって約束してて……でも樹里の講義が終わるまで少し時間があるからどこかで時間潰そうと思ってて」
「向こうに食堂があるよ。セルフサービスだけどコーヒーとかも飲める。あそこなら冷房効いてるし……案内するよ」
不意に会ったからなのか、それとも伴奏を引き受けると決めたからなのか、今日は純恋に苛立ちを感じることはなかった。私は地面に投げ出していた荷物を手に取り、純恋を食堂まで案内することにした。