瑞希からの葉書に、私は少なからず動揺していた。その存在を意識しない日はなかったけれど、いないものとしていたところも確かにあった。少なくともここに戻ってくることはないと思っていた。しかし瑞希は戻ってきた。
私は自室に戻り、特に目的もなくピアノの椅子に腰掛けた。瑞希がすぐ傍にいる。あの日、並み居るピアニストの卵たちの頂点に立ちながら、それを捨てて姿を消してしまった瑞希。今でもなぜそんなことをしたのか、そしてなぜ今になって戻ってきたのか、私には何もわからなかった。
樹里にはこのことを伝えておいたほうがいいだろうか。そう思って携帯を拾い上げると同時に、樹里からLINEのメッセージが届いた。
『ちょっとこの動画見てほしいんだけど』
その言葉とともに動画サイトへのリンクが貼られている。首を傾げながらそのリンクを開くと、それは都庁に置いてあるピアノで誰かが演奏している動画のようだった。モーツァルト「きらきら星変奏曲」。派手なピアノで楽しそうに弾いているのは紛れもなく瑞希だった。動画を上げているのは外国人のようで、説明は英語で書かれている。
『瑞希さん、東京にいるのかな?』
この動画がいつ撮られたものかはわからないが、動画が投稿されたのは三日前になっている。その日から名古屋に移動したと考えても、辻褄は合う。私は今しがた見つけた葉書のことを樹里に伝えた。
『でも、何のために戻ってきたんだろう?』
私にもそれはわからない。そもそも居場所は教えてもらえなかったにしろ、連絡を取ることが出来た樹里がわからないのに、私にわかるわけがないだろう。私が欲しくても手に入れられなかったものを手にしながら、その全てを捨てた人の考えていることなどわかりたくもない。
私は溜息を吐いて、ピアノの鍵盤に指を置いた。考えてもわからないものを考え続けるほど無駄なことはない。昂ぶった気持ちを落ち着けるためには無心になってピアノを弾くのが一番だ。ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第14番「月光」第一楽章。月光という愛称は作曲家本人がつけたものではないが、その名にふさわしい静かな始まりだ。大きな音を出すよりも小さな音を出す方が難しい。集中力が少しでも切れてしまうと、音楽を破綻させる音が出てしまう。浮かび上がってくる旋律は歌うように。神経を使う曲を弾いていると、心がそれだけに染まるからいい。余計な音は耳に入らなくなる。
「――」
闇に沈んでいくような最後の音。その余韻が消える前に、慌てた様子の母が私の名前を呼んでいた。
「帰ってたの?」
「さっきから呼んでたし、普通鍵開ける音で気付くでしょう?」
「ごめん、聞こえなかった」
母が溜息を吐く。言ってから、もっとうまい言い訳をするんだったと気が付いたが、時既に遅しだった。
「あの音が聞こえないって、やっぱりおかしいんじゃない?」
幼い頃から何度も言われてきたその言葉。それを聞く度に頭の中が熱くなってしまう。言われなくたってもうわかっているのだ。私の耳は欠陥品。耳が良くなければいくら努力したところで瑞希の水準には届かない。
「……集中してたから」
弾いていたのが第三楽章なら聞こえなくても仕方ないと思ってもらえただろうか。でも後の祭りだ。母はそれ以上この話には踏み込まず、スマホの画面を私に突きつけた。
それは先程樹里が送ってきたのと同じ動画だった。
「たまたま見つけたんだけど、これって――」
母に、瑞希が名古屋にいることを教えたらどうなるのだろうか。曲が進むにつれてギャラリーが増えていく様子もしっかり映っている。それを見て母が思うことはだいたい予想がついている。
「間違いない、瑞希だわ。瑞希のピアノは人を惹き付ける力がある」
瑞希だったら猫踏んじゃったでも観客を集められる、とでも言いそうな雰囲気だ。いや、かつて本当に言っていた。そして人を惹き付けるその才能自体には疑うところがない。
「瑞希を探しに行くわ」
「東京に?」
そこに行ってももう瑞希はいないけれど。母は今すぐにでも出ていきそうな様子だった。瑞希は自分の意思で出ていった。それは母もわかっているはずなのに。
「何してるの? 遥希も行くわよ」
「え、私も? でも」
コンクールの本選も近い。だいいちそれを理由に合唱の伴奏を引き受けることを反対していたのは母自身ではないか。
(私じゃ一位は獲れないって、思ってるんだろうな)
私は所詮、瑞希よりも一段劣る代用品でしかないのだ。私は苛立ちに任せて立ち上がった。
「ちょっと、遥希?」
「自分で勝手に出てった人のことなんてどうでもいい」
探しに行くなら勝手に行けばいい。そこに瑞希はいないけれど、それを教えるつもりもない。私は携帯電話と、最低限の貴重品だけが詰まった鞄を持って外に出た。
*
重い煤色の雲が空を覆っていた。空気が肌にまとわりつく。もしかしたらそろそろ雨が降るかもしれない。けれど家に戻って傘を取りに行けるはずもない。私はあてもなく歩き、できるだけ家から遠ざかろうとしていた。馬鹿なことをしていると自分でも思う。こんなことをしても何も解決しないのだ。どうせ行く場所もない。来たバスに乗り込んでみるものの、終点が栄という始末だ。私は突飛なところに行くことも出来ないのだ。
バスターミナルに到着した頃には、大粒の雨が地面を打っていた。傘を差して急いで移動する他の人たちに対し、私は何も出来ずにぼんやりと立ち尽くしていた。夕方なのに、夜のように暗い。けれど雲の下には太陽が隠れているのだろう。完全な暗闇ではない。中途半端な色は、まるで今の私のようだった。
こんな土砂降りの中で傘を差していない私はとても目立つだろう。私は顔を隠すようにしながら、それでもどこかの建物に入ることも出来ずに歩き回っていた。
「あっ!」
前を見ずに歩いていたせいで、店から出てきた人とぶつかってしまった。謝ろうと思って顔を上げると同時に、それが誰なのかに気が付いて私は目を瞠った。一つに結い上げた髪。光を湛えた大きな瞳。驚いた顔をした純恋がそこにはいた。
「遥希さん!?」
「……どうしてここに?」
「買い物に来たんだけど、雨降ってきちゃったから帰ろうと思って」
純恋が出てきた方を見ると、そこは楽器店だった。手にはそこで買ったらしき楽譜が入った袋を抱えている。
「とりあえず、どっか入ろう? 雨やばいし、私も傘ないし」
誰とも話したくない気分だったはずなのに、その言葉には素直に従ってしまった。すぐ近くの入り口から地下街に入り、適当な喫茶店に入る。純恋は注文したコーヒーを一口飲んでから、溜息を吐いた。
「前も雨の中傘差さないで走ってましたよね」
「ああ……そういえば」
あのときとは状況は違うが、傘がなかったのは同じだ。純恋は買ったばかりの楽譜が濡れていないか確認してから、コーヒーをもう一口飲んだ。
「買い込んでますね、楽譜」
「ああ……久しぶりに行ったら欲しい楽譜いっぱいあって。一部は団の本棚に寄付すんだけど。選曲会議のときとかに役に立つから」
演奏する予定が特にないものも買い込んでいるらしい。混声合唱だけでなく女声合唱の曲や、純恋が絶対に歌うことのない男声合唱の楽譜まで買っていることには驚きを隠せない。
「この曲は今度市内の一般団が混声版の委嘱初演をやるらしいので、予習を兼ねて。遥希さんは楽譜買い込んだりしないんですか?」
「うちは、有名どころは家にもうあるし……あそこの店も入ったことない」
「ピアノの人はやっぱり伏見の方?」
「あっちもあんまりだけど……」
他愛のない話をしているうちに気持ちも少し落ち着いてくる。ココアを半分ほど飲んでから、私は椅子の背もたれにゆっくりと背中を預けた。
「――遥希さん、何かあったんですか?」
「え?」
「会ったばかりの私に話せとは言わないけど……」
瑞希のことを誰かに話すつもりはなかった。けれど、純恋なら何を思うのかを聞いてみたいとは思った。純恋が答えを出せると思ったわけではない。ただ一人で抱えているのはもう限界で、感情が決壊しそうなこの瞬間に、目の前にいるのが純恋だった。
「――姉がいるんです、私」