私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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15.溢れた水(なみなみ)

「姉……瑞希は、私なんて比べ物にならないほどの才能の持ち主だった」

 その差を突きつけられて、幼いながらに絶望してしまうくらいだった。純恋は真剣な顔で私を見る。瑞希が持っている才能と、純恋が持っている才能は同種のものだ。何故か人を惹き付けてしまう音色。どれだけ努力を重ねても手に入れられない、たった一滴の雫。

 なみなみに水が入ったコップに一滴でも水が追加されたら溢れてしまうように、そのあるかないかもわからないような量のものが重要な意味を持ってしまうことがある。それはあらゆることに言える。

「でも、瑞希はその才能をあっさり捨ててしまった」

 憧れと、羨望と、絶望を持って瑞希のことを見つめていた。

 けれどあの日、瑞希が急に姿を消したことで、その感情は歪んでいった。話し始めると、堰を切ったように感情が溢れ出してしまう。純恋にそんなことを話しても意味がないのに。

「コンクールで一位を取って、その結果を聞いたあとで……そのままいなくなってしまった。両親はもちろん血眼になって探したんだけど、実は瑞希が家出を仄めかす手紙を残していたこともあって、警察は熱心には協力してくれなかった」

 もっと他の、事件性がある失踪者に人を割かなければならなかったのだ。瑞希はその段階で成人していたし、書き置きは状況からコンクールの日の朝に書かれたものだとわかった。自ら出ていった人をわざわざ探してくれるほど警察は暇ではなかった。母はそのことに対して怒り狂っていたけれど、私は違うことを思っていた。

「あんなに才能があったのにそれを全部ドブに捨てた瑞希が――私は許せなかった」

 だから瑞希を超えたかった。あんな人に負けを認めたくはなかった。たとえ誰にも期待されていなかったとしても、瑞希が捨てた栄光を、称賛を、注がれるはずだった愛を全て私のものにしたかった。

「必死で努力した。腱鞘炎になりそうなくらい努力した。――いや、腱鞘炎になるなんて自己管理が出来てない証拠だから、必死でケアしながら、無傷でここまで来た」

 私達がいくら努力したところで、百メートルを九秒で走れるようにはならない。純恋の言葉を思い出す。どうしても届かないとわかっている。それなのに悔しくて、怒りが溢れて、自分自身を止められない。

「ここまで、自分の気持ちをコントロールしながらやってきた。それなのに、今になって急に戻ってくるなんて」

 まだ直接会ったわけではない。けれどあの動画で見た瑞希の演奏は、私を打ちのめすには十分だった。あの場所にいた人たちも同じだっただろう。何故か目を逸らせなくなる。梶井基次郎の書いた物語のように、瑞希が舞台上でそのまま人を殺したとしても、誰も沈黙を破ろうとはしないだろう。

 一通り話し終わると、純恋はスプーンでコーヒーをかき混ぜる。正直、どんな反応が返ってくるかはわからなかった。瑞希と同種の才能持っていながら、他人と音楽を奏でることを選んだ純恋は、この話に何を思うのだろうか。

「才能だとか、実は考えたことがなくて。合唱は個々の力と言うよりは全体の力で勝負するものだから」

 私は頷く。飛び抜けてうまい人が一人いても合唱では意味がない。もちろん個々のレベルアップは必要だが、純恋の言うように全体の力がなければいい演奏とは言えない。

「でも……遥希さんの音が何で出来ているかはわかった気がします」

「私の音?」

「この前の伴奏合わせ、遥希さんはどう思った?」

「少なくとも、このまま続けていても演奏は破綻する」

 純恋が微笑する。どうやら正解らしい。私と合唱の間に生じていた熱量の差。けれど純恋は食らいつこうとしていたことを思い出す。

「遥希さんの音が持ってるエネルギーは、怒りからくるものなのかも」

「怒りから?」

「怒りってすごいエネルギーなんですよ。それが無意識に演奏に出てしまってるんじゃないかなって。でも歌い手はそこまでのエネルギーを持ってないからついていけなくなってしまう」

「だとしたら――」

 純恋の言葉が真実だとしたら、なぜ、純恋は私の演奏についてきたのだろう。その差を埋めたのは才能なのか、それとも。

「副指揮者の忍は、ああ見えて心の中で思いが煮えたぎってる人なんですよ。彼は高校のときに、最後の大会でステージの上で歌えなかった。実力が足りなかったって本人は言ってるけど……多分それがすごく悔しかったんだろうなって。それを抱えたままであそこに立ってるんです」

「……それなら純恋さんは、どんな気持ちで歌ってるの?」

 純恋は少しだけ遠くを見つめた。悔しさが作り出すエネルギーがそこまで強いものなら、やはり純恋は同じものを持っているのではないか。純恋はコーヒーを飲み干して、白いカップをゆっくりとソーサーの上に置いた。

「私は……あのときは、遥希さんに怒ってました」

 目を見開く私に、純恋は少し悪戯っぽく笑う。私に怒っていた。どうしてだろうか。

「だって、遥希さんがこっちの音を一切聞いてくれなかったから」

「それは――」

「合唱嫌いなのは知ってます。その理由も何となくわかってきた。だからこそ、すごく悔しかった。振り向いてほしいと思った。でも、私の声だけでは届かないのもわかっていた」

 私は俯く。冷めたココアの表面に私の影が映った。純恋の指摘はあたっていた。指揮を無視さえしなければ演奏として大きく崩れることはない。合唱に耳を傾ける必要はないのだ。だから私は自分の音だけを追求した。

「遥希さんは、自分の音を認めてほしいんでしょ? お姉さんとは違う音を誰にも、自分自身にも認めてもらえないのが悔しい。だから……自分の音が埋もれるのが怖い」

 純恋の声で聞くと、痛い言葉が更に突き刺さる。私はカップの取っ手を強く握りしめた。堪えていなければ泣いてしまいそうだった。泣きたいわけではない。けれど表面張力で耐えていた感情という名の水が、純恋の一滴によって均衡を失っていたのだ。

「――図星だよ。私は、だから合唱なんて嫌い」

「でも、遥希さんは誤解してる。合唱では確かに自分の声は埋もれるけど……音に込めた思いは増幅される」

 その言葉は俄には信じがたかった。音が届かなければ誰にも何も届かないのではないか。届いたと思っていてもそれは自己満足なのではないか。

「きっと次の練習でそれがわかると思います。遥希さんには騙されたと思って歌を聞いて欲しい」

 次の練習は合宿の直前になっている。やけに自信有りげな純恋に気圧されて、私は思わず頷いてしまった。

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