「遥希さん!」
休憩時間に、純恋が私のところに駆け寄ってきた。瞳にはいっぱいの光が湛えられていて、私の言葉を期待しているようだった。犬だったら尻尾でも振っていそうだ。
「ここって、飲み物買えるところあったっけ?」
他の人がいるところでは話がしにくい。私の意図が伝わったかはわからないが、純恋は私を自販機コーナーまで案内してくれた。適当にお茶を買いながら、横に立っている純恋を見ずに話しかける。
「この前言ってた意味……多分、少しだけわかった気がする」
「本当に? 良かったぁ……何にも伝わらなかった、私達の猛練習は何だったんだって話になっちゃうから」
「やっぱり猛練習したんだ」
「そりゃもう。忍が火を点けられたみたいで」
一体どんな練習をしたのだろう。今日の練習での彼は冷静で、熱は奥に秘められていた。私がいないときはどんな雰囲気で練習しているのかは少し気になる。
「練習っていうかイメージっていうか……この音にはどんな意味があるのかとかどう聞かせたいかとかをみんなで詰めていったの。でも時間かかりすぎて、実は一曲目しか出来てないんだけどね」
このあとの練習ボロボロかも、と純恋は笑う。けれどその練習で短期間で大きく伸びたのなら、おそらく他の曲にも波及しているはずだ。技術の未熟さは練習しなければどうしようもないが、純恋が言った練習は他の曲にも応用できる。
「今まで私は一人で音楽を作ってきた。自分以外のものが混ざると、自分が濁るような気がしてた。でも――逆もあり得るんだなってことはわかった」
「うん。だから私は合唱が好き」
晴れやかな笑顔。彼女は確かに誰よりも合唱が好きなのだろう。自分の感情が増幅されて純化していく感覚を何度も味わっているのだろう。それは魅力的なことだったけれど、同時に今まで自分の心がどれだけ鈍っていたかも突きつけられた。それは少し恐ろしいことでもあった。それを素直に口にすると、純恋はスポーツドリンクを買いながら答えた。
「鈍ってたとは思わないよ。最初の練習のときもすごいと思ったし」
「一曲目はいいんだけどね……三曲目以降は私も多分ボロボロだよ」
技術的には問題ない。けれどそこに込められている感情を突き詰められているかと聞かれれば、自信はまだ持てない。
「でも『思い出すために』かっこよかったよ?」
「ジャズダンス風だから、誰かと踊ってるイメージは何となくあるんだけど、まだ自分の中で掴みきれていないというか……」
「じゃあ、一緒に作っていけばいいよ。合宿来れたら沢山時間取れるからいいと思うんだけど」
合宿――その言葉で、姉を探しに行ったきり帰ってこない母のことを思い出した。連絡は取れているが、姉の足取りが掴めるまで名古屋に戻るつもりはないらしい。私は未だに、瑞希が名古屋に来ていたことを母に言えずにいた。
「今、お母さん家にいないから誤魔化せはすると思う」
「個人的にはちゃんと許可もらった方がいいとは思うけど……」
「話してはみるけど、取り付く島もなかったら、強硬手段に出てもいいかなって」
先程の練習の経験もあって、俄然合宿に行きたいという気持ちが強くなっていた。「思い出すために」という曲集は、一曲目の「かなしみ」は孤独感が漂うが、後半は愛の歌だ。それは私がまだ理解できない感情だった。けれど今私の中にある欠片ほどの想いを共鳴させれば、自分一人では届かないところへ行けるかもしれない。
「でも良かった。遥希さん、意外に音楽と感情の結びつきを評価する人なんだなって。樹里なんてそういう面はわりとドライじゃない?」
「樹里が何を考えて弾いてるか、あんまり聞いたことなくて。でも『それで上手くなったら苦労しない』とかは言うかも」
「でしょ? まあ昔『愛も知らないのに愛の曲が表現できるはずもない』って言われたらしくて、それにブチ切れてからなんだけどね」
そんなことがあったとは知らなかったが、よくある話ではある。言ってくる人間は大体が素人だ。それこそそれで上手くなったら苦労はしないのだ。けれど本当に魅力的な演奏は、そこに込められた感情を本物であると信じさせてしまう力がある。たとえば瑞希の演奏がそれだ。瑞希自身が愛を知っているかどうかは関係がない。観客にどう聞こえるかが全てなのだ。
「瑞希のピアノは本当に人の感情を揺さぶる力がある。だから音楽と感情の結びつきを私は信じてる。多分樹里だって本心は……悔しいけど、信じざるを得ないんじゃないかな」
そろそろ戻ろっか、と時計を見ながら純恋が言う。もうすぐ練習再開の時間だ。次は二曲目の「てがみ」を練習すると言っていた。けれど純恋は五曲目のメロディーを口ずさみながら歩いていく。私の頭の中では、それに合わせて自分が弾く伴奏が鳴っていた。
セーヌ川の
手まわしオルガンの老人を
忘れてしまいたい
青麦畑でかわした
はじめてのくちづけを
忘れてしまいたい
四分の三拍子。リズムを感じると体が踊り出したくなる。足が自然に自己流のステップを踏む。ワルツですら踊ったことはないけれど、舞曲を弾くのは昔から好きだった。歌いながら純恋が私に手を伸ばす。感覚を信じてその手を取ると、純恋はそのままくるりと一回転した。ワンピースの裾がふわりと花のように広がって、ゆっくりと落ちる。純恋はしてやったりの笑みを浮かべた。
その瞬間に、私の鼓動が今までにないほどに速くなった。純恋の周囲の空気までもが色を変えているように感じる。
「早く戻らなきゃ、怒られちゃう」
笑いながら言う純恋を慌てて追いかける。この高鳴りはなんだろう。この熱くて、ふわふわしていて、それなのに心臓を掴まれているような、不可解な感情の名前は――。
*
「で、そのエキゾチックな美人を連れて帰ってきた理由は何なんですか?」
「ここ、マリアが一度来てみたいって言ってたんだよね。私は名古屋にいたとき一回も来たことなかったからさ」
「聞けよ人の話」
勝手に姿を消したことで色々な人が迷惑を被ることになった。それだけならまだ良かったが、今度は勝手に戻ってきた。瑞希は憧れの人ではあったが、その自分勝手さには辟易してしまう。
「日本は経由地でしかないのよ。これから私達が結婚できるところに行こうかなって」
「経由してるのに親にも妹にも会う気はないってどういうことですか?」
「そんな眉間に皺寄せないでよ、樹里」
私は溜息を吐いた。赤い革張りの座席や、柔らかな色の照明。昭和レトロな店内には似つかわしくない空気が流れていた。
「遥希には会ってもいいかなって思ったんだけど、どうせめちゃくちゃ怒ってるんだろうなって。真面目過ぎるんだよね。雁字搦めになっちゃってるっていうか」
「誰のせいだよ誰の」
「私が悪いって?」
一触即発の気配を感じて、マリアが慌てている。話では、ハンガリーで捕まえた恋人らしい。
「私は一人で音楽を突き詰めるのが嫌になってやめたの。今は自由に弾けてる。でも、遥希はどうせまだ一人で頑張ってるんでしょ?」
「そうやって油断してるといい。後で寝首かかれて泣いちまえ」
お幸せに、と言葉を添えて、テーブルに千円札を叩きつける。瑞希には遥希が合唱の伴奏をするということは伝えてあった。しかし瑞希はどうもうまく行かないと踏んでいるらしい。私が失敗するとわかっている人を紹介すると思っているのか。遥希ならきっといいものができると信じているから推薦したのだ。
「あ、ちょっと、私今そんなに日本円持ってないんだけど」
「両替してから来いよ……」
テーブルの紙幣を五千円札に変える。これだけあればお釣りが来るだろう。
「瑞希さん。……遥希の音、ちゃんと聞かないと今に後悔しますよ」
今はまだ噛み合わないかもしれない。けれどあの合唱団には純恋がいる。私は純恋のことをよく知っていた。純恋は他人に感情を伝える歌を歌うのがうまい。瑞希と同種の才能だ。それが合唱団に入り、他の人の音を巻き込んで増幅されたときの力を思い知ればいい。けれど素人集団の合唱は技術的には至らないところが多い。遥希のピアノはそれを補ってあまりあるほどの力を持っているはずだ。
「本番は冬なので。その頃になったらまた名古屋に来てください」