「あれ、遥希さん?」
ミッドランドで映画を見終わって帰ろうとしたところで、トイレから出てきた純恋と鉢合わせた。隣には合唱団の友人がいる。確か名前は梨恵と言ったはずだ。
「こんなところで会うなんて、びっくりだよ」
「そうだね」
「何の映画見てきたの?」
私は半券を純恋に見せた。そこに書かれたタイトルを見て、純恋は少し驚いたようだった。
「ホラー映画見るんだ……」
「意外?」
「うん。私ホラー全然だめだし」
それは何となく予想がついた。ホラー映画を見るイメージがない、とは前に樹里にも言われたことがある。逆にホラー映画が好きそうな人間とはどんな人なのだろうか。疑問に思ったがそれは口には出さなかった。
「純恋さんは、何を?」
「私は梨恵が好きな俳優さんが出てる映画を」
梨恵は私達をよそに、件の俳優のサイン入りパネルの写真を撮っている。どうやら恋愛映画らしい。
「でも本当に意外。もっと海外の何とか映画祭とかで賞を取りそうなやつとか好きなのかと」
「怖いの結構好きなの。お化け屋敷も好きだし」
「心臓鍛えられそうだね。遥希さん、一人で舞台に立たなきゃいけないし」
「ホラーの怖さとはまた別だけど」
パネル撮影に満足した梨恵が戻ってくる。特に誘われたわけでもないが、三人でエレベーターに乗り込もうとしたとき、梨恵が急に言った。
「ごめんやっぱ私もう一回あの映画見てくる」
「え、今から?」
「うん! 純恋は帰ってていいよ!」
その俳優のことがよほど好きなのだろう。置いていかれる形になってしまった純恋と相手がいない私は顔を見合わせる。
「……どっか喫茶店でも入る?」
成り行きで、ゲートタワーの中にあるカフェまで行く。今日はゆっくりと過ごす予定だったからちょうどいい。静かに運ばれてきたコーヒーを飲みながら、私はぼんやりと宙を見つめた。
「こういうときって映画の話とかするけど、見た映画が違うってあんまりないですよね」
「そうだね。でも人と映画を見に行ったことがあまりないから、そもそも人と映画の話をしたことがないけど」
「梨恵なんて好きな俳優の話ばっかりですよ。もうその人の好きな食べ物まで覚えちゃった」
「それくらい好きっていうのは羨ましくはあるね」
会話が途切れる。そういえば、純恋とは音楽の話以外ろくにしたことがなかった。会話をしようにも何を話せばいいのかが全くわからない。困っていると、同じように話の糸口を探していたらしい純恋が口を開いた。
「遥希さんって、ホラー映画の他に何か好きなものとか、好きな人とかいるんですか? そういえば私、遥希さんのこと全然知らないなって」
「ホラー映画の他……はあんまりないかな。基本はずっと練習してるし、たまの息抜きに映画見るくらいで。好きな人は……日本人のピアニストなら小菅優さんとか」
といっても純恋は知らないだろう。外国人のピアニストなら尚更だ。私に会話の引き出しがなさすぎる。共通項は何かないだろうかと頭の中を必死に掘り起こす。
「じゃあ好きな作曲家は?」
「好き……はそれほどないけど、得意なのはベートーヴェンあたりかな。樹里はバロック時代の曲が得意だけど」
「それは樹里も言ってた。昨年弾いてもらった曲に、日本人の曲なんだけど宗教曲みたいに作ってあって、しかもグレゴリオ聖歌風から近現代に段々時代が進んでいっているみたいに聞こえる曲で」
それは確かに樹里の得意分野だろう。当時使われていた楽器の音色まで研究して、それに近い音をピアノで出すことができる。もちろん調律の変更まではしていないが、弾き方だけで大きな変化をつけているのだ。
「純恋さんは、好きな作曲家とかは」
「合唱って、団によりますけど、今生きてる日本人の曲を歌うことが多いんですよね。もちろん宗教曲とかもやりますけど……私はたまたまあまり触れてこなくて」
「別に私が知ってるかどうかは気にしなくていいよ」
私も純恋がわからない日本人のピアニストの名前を出したりしたのだ。無言で気まずい時間を過ごすよりはずっといい。
「今年の曲の信長貴富先生は他の曲もかっこよくて好きだし、あとは上田真樹先生とか――」
今度機会があったら聞いてみよう、と私は思った。そして自然にそう思った自分に自分で驚いた。合唱なんて嫌いだと、つい先日まで言っていたはずなのに。純恋が好きだというのなら聞いてみようという気持ちになってしまう。
「でも、一番好きなのは中山真理さんの『スマイルアゲイン』って曲なんです。それは私が最初に合唱に興味を持った曲なんですけど。えっと……遥希さん、自分のイヤホンとか持ってます?」
自分の声が嫌いになってしまった純恋は、その曲の歌詞と、合唱に背中を押されて再び歌えるようになったのだという。音楽に救われたと屈託なく言える純恋のことを、私は羨ましいと思った。私は音楽に傷つけられてきた思い出の方が多い。けれど純恋が聞かせてくれたその曲を、素直に良い曲だと思うことが出来た。
「今から思うと単純ですけどね。でも今でもいい曲だなって思います」
純恋はそれから自分の好きな曲を沢山私に聞かせてくれた。それはどれも確かに素敵な曲だった。けれど何より、楽しそうに話す純恋の表情に惹かれた。
この前から、純恋に抱いている不可解な感情がある。それが正解かどうかはわからないけれど、多分私は――純恋のことが好きなのだと思った。
そうやって一時間ほどが過ぎた頃、窓の外を見た純恋が声を上げた。
「すごい雨……」
「本当だ」
「遥希さんと会うとき、よく雨降りますね」
「私は晴れ女のはずなんだけど」
でも、確かに雨の記憶が多い。しかも大抵は土砂降りだ。純恋がスマホで雨雲レーダーを見て言う。
「三十分くらいで雨上がるみたいです」
「じゃああと三十分くらい時間潰そうか」
「……それなら、ちょうど行きたいところがあるんですけど」
私は先を促した。私は特に用事もないから、純恋に全て任せるつもりだ。
「ここの十五階にストリートピアノがあるんですけど、私今はもうピアノろくに弾けないし、行ってみたいけど一人で行く勇気が出なくて」
「それは私に弾けって言ってるよね?」
「あ、遥希さんが嫌なら……」
「別に嫌ではないよ。行こうか」
荷物を持って立ち上がる。嬉しそうな純恋を見て、自分も嬉しくなる青い気持ち。雨に降込められた街も青みを帯びている。豪雨が作り出す色と、好きだという気持ちの色が少しだけ似ているのは何だか不思議な話だ。でも私達が会う日には雨が多い。だからそれも当然のことなのかもしれないと思った。