私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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19.木枯らし(氷)

 純恋に連れられて十五階まで行くと、日本画が描かれた派手なピアノが窓際に置いてあった。窓からは名古屋のビル群を一望できるが、今は雨の中に沈んでしまっている。

「ストリートピアノって派手なやつが多い気がする……」

「ああ、都庁のやつとかすごいよね」

 もちろん普通のピアノがあるのもわかっているのだが、瑞希が弾いていた都庁のピアノを見たあとだと、派手なのばかりなのかと思ってしまう。ほとんどが黒で構成されているピアノを見慣れている身としては微妙に落ち着かない気分にさせられる。

 ピアノの周りには誰もいなかった。観客は純恋ひとり。その方が何も考えずに弾けていいかもしれない。

「何かリクエストがあれば。できる範囲だけど」

「じゃあゆっくりで綺麗な曲とか」

 私は少し考えてから、鍵盤に指を乗せた。ドビュッシー作曲、『ベルガマスク組曲』より「月の光」。この曲はタイトルから月の光が照らす静かな夜をイメージしがちだが、作曲家が着想を得たという詩を見るとまた印象が変わる。華やかな宴のきらびやかな仮面の下に隠された悲しみや儚さ。最初はこの詩に着想を得て歌曲を作り、恋をしていた人にそれを捧げた。その八年後に、今度はピアノのみでその詩の世界を描いたのだ。詩は楽しさや華やかさの影に悲しみや虚しさを隠しているが、旋律はひたすらに美しい。和音が作り出す曖昧で複雑な表情。そのあわいを表現するためには、最新の注意を払わなければならない。けれど難しいことではなかった。聞いている純恋の顔を思い浮かべれば、指が勝手に動いてくれる。

 曲が終わると、純恋が静かに拍手をしながら私に近付いた。

「すごい、聞き入っちゃった。本当に夜が来たみたいだったよ」

「外は土砂降りだけどね」

「まだやみそうにないね。もう一曲いってみる?」

 悪戯っぽく笑う純恋に応えようと思った瞬間、私は純恋の背後に見覚えのある人影を見た。記憶にあるより髪の毛は伸びている。隣に見覚えのない褐色の肌の美女も連れている。けれどそれは間違いなく私の姉――瑞希だった。

「まじか……」

 最初に声を上げたのは瑞希の方だった。ここに私がいるとは思っていなかったようだ。私もここに瑞希が来るとは思わなかった。純恋が固まっている私に気が付いて、後ろを見る。そして瑞希と私を見比べてから、首を傾げた。瑞希と私は顔が似ている。少なくとも姉妹とわかる程度には。

「相変わらず音が硬い」

「……勝手にいなくなって、勝手に戻ってきて、最初に言うことがそれ?」

「思ったことを正直に言っただけだけど」

 私は溜息を吐いた。再会しても仲良く話など出来ないと思っていたけれど、それよりも悪い状況だ。敵意と敵意が空中でぶつかる。瑞希の隣にいる女性と純恋が困ったような顔をして顔を見合わせていた。

「まあ昔よりはだいぶ上手くなったみたいだけど。でも、私には及ばない」

 そんなことはわかっている。誰も、はっきりとは口に出そうとしないだけだ。いや違う。昔から――瑞希だけは私に現実を突きつけていた。

「どうやっても勝てないってわかってるのに、未だに無駄な抵抗を続けてるなんて」

「――あの」

 私が瑞希の言葉を無視していると、先に純恋が声を上げた。

「無駄な抵抗とか、そんなのあんまりじゃないですか」

「辛いだけで見込みがないことをずっと続けさせるよりいいと思うけど? それより、あなた誰?」

飯塚(いいづか)純恋(すみれ)です。さすがに今の言葉はひどすぎると思います」

「いいねぇ、はっきり言える子は好き。遥希とは正反対ね」

 純恋は瑞希を睨むように見るが、瑞希にはまったく通じていない。そういう人なのだ。自分の才能を正しく認識していて、何事もはっきりしているのが好きで、いつも自信に溢れている。その自信が聞く人間の心を強く惹き付けるのだ。

「とりあえず順番だから交代してよ、遥希」

 私はそんな瑞希のことが昔から大嫌いだった。

 始めたばかりの頃は楽しくピアノを弾けていた。けれどそのうちどうしても瑞希のことを意識せざるを得なかった。私にはないものを全て持っている。私がどうやっても追いつけないところにいる。いつしか楽しいという気持ちは小さくなってしまっていた。

 けれど、今ようやく――これまでとは違う気持ちで向き合えるかもしれないと思えてきたのに。

「遥希さん……?」

 鍵盤に指を置いた私を見て、純恋が声を上げる。ショパン作曲、エチュード作品25-11「木枯らし」。苛立ち紛れに鍵盤を叩く。結局どうやったって瑞希には勝てない。そんなことは言われなくてももうわかっているのだから、せめて忘れてしまいたかった。初めての気持ちを踏みにじられたのだ。きっと純恋だって、瑞希のピアノを聞けば、瑞希の方に惹かれるのだろう。私の音は届かない。私の音は、誰にも聞こえないのだ。

 悔しい。他の誰でもない、純恋には私の音だけを聞いていてほしかったのに。心が熱くなるのに対し、音は冷たく冷えていく。私自身の音は、分厚い氷に閉じ込められてどんどん遠くなっていった。

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