練習室を出て、構内を歩いていると、どこからか落ち着いた声が聞こえてきた。
「少なくとも二つ返事ではなかったかなぁ」
「そっか……断られちゃったらまた探さないと……」
「まあ私も他を当たってはみるけど……でもこの五曲目、遥希が弾くとかっこいいと思うんだよなぁ」
五曲目。そもそも楽譜を開いてすらいないから、何曲あるのかも把握していない。トートバッグにしまった楽譜を取り出して表紙を見ると、「寺山修司の詩による6つのうた『思い出すために』」と書かれている。普通に考えれば六曲あるということだ。
「ちょっとジャズっぽくてかっこいいよね、この曲」
「そう。ジャズワルツ風なのかな。こういうの上手いんだよ、あの子」
私が聞いていることには気付いていないのだろう。樹里が素直に褒めてくるせいで、少し気恥ずかしい。そもそもその相手を私は知らないのだ。
「それは是非その子にやってほしいんだけどなぁ」
それにしても、綺麗な声の持ち主だ。歌に向いている。けれど合唱ではこの声は生かしきれないのではないか。彼女の声が突出してしまう演奏はとてもいい演奏とは言えない。でもこの声が埋もれるのはもったいない。私は物陰に身を隠しながら樹里と話している人物の姿を盗み見る。
後頭部で一つにまとめた黒髪が動きに合わせてわずかに揺れている。その髪を結えているのは鮮やかな赤色の幅広のリボンだ。オーガンジー生地のリボンは少し透けていて、束ねた髪と一緒に揺れる度に、私の頭の中で夏祭りの金魚がちらつく。
私が昔飼っていた金魚は二匹だけやけに長生きした。その金魚の尾鰭が赤と黒だった。幼い頃に毎日見ていた赤と黒の揺らめきを思い出して、私は少女の後頭部をじっと見つめていた。
「でも、合唱嫌いなんだってさ」
「そうなの? どうしてだろ……」
樹里の言葉に、その人は腕組みをして首を傾げた。少なくとも好きで合唱をしているような人には理解できない理由だろう。でもどうしても思ってしまう。大勢で歌ったら個々の声は埋もれてしまう。これが合唱でなく歌曲で、歌うのが彼女ひとりなら迷わず引き受けるのに。
「
「小中高大、全部合唱部だからね」
「筋金入りだよね。でも長くやってるから、大学はもっとコンクールとか出てる団に入るのかと思ってたよ」
その人――純恋と樹里はどうやら昔からの知り合いのようだ。昔から合唱が好きな純恋には、きっと私の気持ちはわからないだろう。楽譜を持つ手に少し力が入る。
「そっちも良かったんだけどね。でもみんなで音楽を作っていくのもやってみたいなって」
「確かに楽しかったなぁ、昨年。でも遥希はそういうのには向いてないかもなぁ」
「そうなんだ」
「一人で突き詰めていくのが得意なんだよ。私はもう考えるのすら苦手だから、反対のタイプだね」
樹里はいわゆる天才肌で、「考えるな、感じろ」を地でいくタイプだ。私はとにかく考える。才能のない私は、頭を使うことでしか他人より上にはいけないからだ。
「まあ、いずれにしても明日になって正式に返事もらうまでは何ともだね」
「やってもらえるといいんだけど……」
合唱に関わるつもりはない。でも純恋の声は、ここで関わることをやめてしまうのはもったいないほどのものだった。天使の声と称されるような澄んだ声とは少し違う。不思議と心の奥底に響く声だ。
「うーん……でも望み薄ではあるね。合唱嫌いとは思わなかったからさ」
「やってみたら意外に楽しいかもよ、なんて言うのは楽観的過ぎるか……」
「そうだね。それは最初から好きだった人の言葉だわ」
「――あ、この曲」
不意に聞こえて来たサックスの音色に、純恋が声を上げた。練習室が取れなかった人たちが外で吹いているのだろう。それまでの話を切って、純恋はそのサックスの奏でる旋律に合わせて歌い始めた。
なみだを遠い草原に
ヒスイをきみのてのひらに
やはり美しい声だ。歌声は喋り声よりも力強く、天鵞絨を思わせる深さがある。目を閉じてその声に耳を澄ますと、草原を渡る風が見えるような気がした。
歌い終わると、樹里が拍手をする。純恋は照れたように頭を掻きながら笑った。
「知ってる曲だったからつい」
「合唱の曲だったんだ」
「そうだよ。ちなみに作詩も作曲も今度やる曲と同じ人」
純恋の歌が聴けるのなら、我慢して伴奏をやるのもいいかもしれない――そう思ってしまった自分自身に蓋をして、私は溜息を吐いた。どれだけ純恋の歌が素晴らしくても、合唱の中の一人になってしまったら、その声は他と混じり合って判別がつかなくなる。それでは意味がないのだ。
勿体ない。ひとりでもあれだけ歌えるのなら、わざわざ合唱なんてしなくてもいいのに。でも伴奏を引き受けたら、再び純恋の歌を聞く機会が得られるかもしれない。逆に断ってしまえばここで終わる縁だ。
(どうして、よりによって合唱なのか――)
自分が伴奏をする光景を想像するだけで、息が詰まるような気がする。純恋の歌は魅力的だ。けれど私が合唱に向き合えるとは思えない。断るのが賢明だとわかっている。しかし、純恋の声はいつまでも耳から離れなかった。