入道雲と蝉時雨、太陽と夕立、向日葵畑と喉を潤す麦茶。
日本人が思い浮かべる夏そのものの光景が目の前にあった。夏といえば誰もがこの風景を思い出すのに、実際には焼け死にそうなくらいの熱波やゲリラ豪雨ばかりで、風情も何もない。もう失われてしまったかと思われていた景色だが、流石に高原ともなれば比較的涼しく、かろうじて多くの人が思い浮かべる夏が残っている。
貸し切りのバスを降りて、合宿所の前に集合する。結局母を説得できずに、黙って合宿に来ることになってしまった。けれどそれよりも、あの日――瑞希と再会した日以来一切連絡を取っていない純恋のことが気になった。
いや、悪いのは私だ。瑞希の挑発に乗ってピアノを弾いてしまって、そのまま何も言わずに帰ってしまった。純恋は何も悪いことをしていないのに、私達姉妹の事情に巻き込んでしまったのだ。本当はあんなところで意地を張らずに、瑞希が言う通りに順番を譲ればよかった。私は自分自身の衝動をどうにもできなかっただけだ。
「五日間、お世話になります」
合唱団の団長が、合宿所の所長に挨拶をしている。そのあと簡単に施設利用の注意を聞いて、割り当てられた部屋に行き、荷物を置いてから練習を始めるらしい。
「遥希さん!」
純恋が私のところへ駆け寄ってくる。気まずさを感じているのはもしかして私だけだろうか。純恋の明るい表情に少し安心しながら、私は軽く口角を上げた。
「遥希さん、みんなと一緒に和室なんですよね?」
「うん」
女声は広い和室で全員が同じ部屋だという。事前に、普通のホテルのような一人用の洋室もあるからそっちの方がいいかと聞かれたが、私は他の人たちと同じ部屋でいいと言った。一人で落ち着いた時間を過ごしたいという気持ちも確かにあったが、純恋と同じ部屋で過ごしたかったのだ。
「練習は、全部出るわけじゃないんだよね?」
「第二ステージと第三ステージの練習のときは別の部屋で自分の練習する予定だよ」
強引に合宿に来たものの、自分のコンクールを疎かにするわけにもいかない。けれど瑞希との一件以来、一人でピアノを弾くことにあまり乗り気にもなれなかった。
「あんまり根詰めすぎないでね。毎年合宿頑張り過ぎちゃう人が出るらしいから」
「そうなんだ」
「今の正指揮者の先輩は、昨年頑張りすぎて最終日には楽譜の幻覚が見えてたから」
「それは大変だ……」
それだけ一日中楽譜を見ていたのだろう。私は苦笑しながら、純恋に続いて和室の中に入っていった。みんな思い思いに荷物を広げ、練習の準備を始めている。初日は第三ステージの練習が中心になるらしく、私の出番はない。
「せっかく来てもらったのに、初日は1ステ練習しないのってどうなんだろ」
「でもその方が、移動の疲れは取れるからいいかも」
「それもそっか」
けれど、別室で一人で練習する気分でもなかった。楽譜を取り出したままぼんやりしていると、純恋が大きめのスポーツバッグから楽譜の入ったファイルを引っ張り出して言う。
「練習まで少し時間あるから、ちょっとこのへん散歩しない? といっても自然しかないですけど」
「いいよ」
自然が多いところで過ごしたことはあまりない。折角だし見て回るのも悪くないだろう。私は準備を終えて、携帯電話と財布だけを持って純恋と外に出た。
*
「こう……夏! って感じだよね」
「夏らしい夏だよね。そういうところ、今の日本じゃほとんどないだろうけど」
「名古屋なんて暑すぎだよ……息するだけで死にそうだもん」
他愛もない話をしながら、坂道を昇っていく。目的地があるわけではない。周囲の景色を眺め、時折吹いてくる風を感じるだけだ。
「……そうだ、遥希さん」
半歩前を歩く純恋が、振り返りながら言う。
「この前のこと……もしかして気にしてるかなって」
「気にしてるというか……勝手に帰ったのは私だし」
「でもあんなこと言われたら誰だって怒るよ。しかも家族にさ」
純恋は瑞希に対して怒ってくれた。それだけで私は十分だった。けれど純恋はまだ腹を立てていたらしい。わかりやすく唇を尖らせる姿を見て、私は笑みを浮かべた。かわいい。自分のことなんてどうでも良くなってしまうくらいに。
「瑞希は自分に才能があるってこともわかってるから。私のピアノが瑞希には及ばないっていうのも事実」
「でも、悔しいんでしょ?」
「まあそれはね……」
悔しくなかったら、あのとき何もかもを無視して弾いたりしないだろう。超えられないことも、無駄な抵抗なことも理解している。でも悔しいという気持ちをどうにも消化できない。
「もう、何とかしてあの人のことギャフンと言わせたくなっちゃった」
「ギャフンって……」
「といっても、応援することしか出来ないけど……」
「そう思ってくれてるだけで十分だよ。ありがとう」
そういえばあのあと純恋はどうしたのだろうか。聞いてみようとした途端に、純恋が話し出す。
「――でも、悔しいけど、すごく上手かった」
「聞いていったんだ」
「本当は遥希さんを追いかけるつもりだったんだけど、マリアさんに『聴いていきなよ』って言われてしまって――」
瑞希の隣にいた女性はマリアというらしい。そういえば、瑞希の都庁での演奏を上げていたアカウント名もMaria1228だった。おそらく彼女のアカウントなのだろう。
「瑞希のピアノは聞けば聞くほど気になってしまって離れられない。すごく引力がある。演奏家向きなんだよ、本当に」
純恋は瑞希と同種の才能の持ち主だ。けれど本人に全くと言っていいほど自覚がない。それは純恋が合唱という、己の声を隠してしまう音楽しかやってこなかったからなのか、純恋の性格によるものなのかはわからない。純恋のことは好きだ。けれど、その才能を妬ましく思う気持ちは消せなかった。
「でも、私は遥希さんのピアノも好きだよ。思わず体が動いてしまう感じというか……聴いていたら歌いたいな、とか踊りたいな、って感じるんです」
面と向かって褒められることがあまりなかったから、正直照れてしまう。しかも瑞希のピアノも知った上でこんな言葉をかけてくれる人は今までいなかった。私はそれを誤魔化すために、少し視線を上げた。空の低いところに、眩しい白色の入道雲がある。月並みな言葉で言えば、ソフトクリームのような雲だ。空の明るさにつられて少しだけ心にも光が差す。
「いいところだね」
呟いた言葉に純恋は首を傾げるが、すぐに合点がいったように手を叩く。
「昨年もここだったんだよ。自然いっぱいで気持ちいいし、空気は美味しいし、なおかつ大浴場は温泉だし」
「温泉なんだ。それは知らなかった」
「源泉かけ流しだよ。練習時間と食事の時間以外は自由時間だから、その間は温泉入り放題。外を散歩するのもいいし。あ、でも大浴場は深夜は清掃が入るから閉まっちゃうけど」
練習合宿と言っても、夏休みの行事も兼ねているのだろう。練習漬けとはいえ、自由時間もそれなりに確保されていた。二日目の夜はバーベキューで、四日目の夜は花火、最終日は近くの夏祭りを見てから帰るという。充実した日程だが、体力勝負でもある。
「何か、夏らしい夏って感じだな。小さい頃から夏休みはどこにも行かずにずっと練習してたから」
「どこにも? 一日くらい日帰りで……とかもなく?」
「記憶に残ってるほどはないかな。演奏会に行ったりはしたけど」
「それほとんど練習だよね……。そのくらい練習しないといけないものなの?」
音楽で生きるためにはそれだけ練習して、成果を残さなければならない。私も瑞希も一心不乱に練習してきた。夏休みなどというものは物語の中にしかなかった。
「すごいね……つらくはなかったの?」
「練習は好きだから。でも、羨ましいと思う気持ちはあったよ。私が二人いたら両方できるのになって」
「今年は両方できるんじゃない? ここでいっぱい練習するんだし」
「でも、端から見れば無駄なことしてるって思われる気もする」
少なくとも母はそういう意見だ。私は、無駄になるかどうかはまだわからない。これまでのやり方を続けていても何も変わらないと思った。永遠に瑞希との差は埋まらないと思った。だからいつもと違うことをしようと決めただけなのだ。それが功を奏するかどうかは、あとになってみなければわからない。
「私はずっと合唱をやってきたから……みんなで色々なことをやってみるっていうのは無駄にはならないって思ってる」
「うん。私もそうなればいいなって思うよ」
そろそろ戻らなくてはならない時間だ。私達は蝉時雨を聞きながら、今度はゆっくりと坂道を下っていった。