「おはよー……」
あのあと慌てて部屋に戻り、短いながらも睡眠を摂った。朝六時に体操のために起こされた純恋は明らかに眠そうな顔をしている。私はといえば、あまり眠れなかった。布団に入ってからも色々考えてしまたのだ。
動きやすい服に着替えて、顔を洗ってから練習場へ向かう。誰もが眠そうな顔をしていた。小学生と違って、大学生の夏休みはラジオ体操などないから、多くの人がゆっくり起きる生活をしていたのだろう。
「遥希さん、朝なのにばっちり起きてるね……」
「いつも朝一番にピアノ弾いてるから。今日はもう弾いてきた」
「え!? いつの間に!? ていうか何で朝一番にピアノ弾くの?」
「朝、頭も体も動いていないときに弾けたら、本番どんな状態になっても弾けるでしょ?」
「あ、なるほど……」
練習場に着いた純恋は、髪の毛を手櫛でひとつにまとめた。墨を流したような長い黒髪は綺麗だけれど、体操中は邪魔なのだろう。
体操を担当する梨恵も、時間は守っていたが眠そうだった。それでも無理矢理体を起こし、朝の空気を吸ってから朝食会場に向かうのだ。今日は私が伴奏する第一ステージの練習が主になる。寝不足ではあるが、体は良く動いた。
*
練習は順調だった。忍が合宿前に練習メニューをかなり練ってきたのだろう。観客に何を伝えたいかを考えて、それを伝えるために楽譜にある音をどう演奏するか。楽譜通りの演奏が出来るのが大前提。けれどその指示の意味を理解して演奏するのと、理解せずにただ演奏するのとでは大違いだと彼は熱弁していた。
「人間の体は『何かがしたい』って気持ちでも動くから」
不思議だけれど、それは事実だ。想いが音を変えるなんて幻想だ。大事なのはテクニックだと言い張っても、想いが込められた音とそうでない音の違いを知った後では、そんなことは言えなくなってしまう。観客に何を届けたいか。この音にはどんな意味があるのか。時間はかかっても一つ一つ考えるのは大切なことだ。
合唱の場合は、歌詞という表現の大きなヒントがある。伝えたいことを読み取るのは比較的容易だ。何のとっかかりもないピアノ曲に比べれば、様々な証拠が散らばる中から真実を見つけるパズルのようだ。団員たちは事前に宿題を出されていたらしく、滞ることなく議論とそれに伴う練習が進み、午後三時頃に第一ステージの練習は終わった。このあとは第二ステージの練習に移り、私は私の練習をすることになる。
狭い練習室に移動して、ピアノの上に楽譜を広げる。コンクール本選の曲だ。一通り弾けるようになってはいるが、合宿の間に仕上げの段階まで持っていかなければならない。私は深呼吸をひとつしてから、鍵盤に指を置いた。
歌には歌詞があるが、ピアノ曲にはない。それどころかタイトルすら番号だったりする。その中で観客に何を伝えたいかと言われると、明かりも何もないまま暗闇に放り出されたような気持ちになってしまう。どんな思いが込められているのかを作曲家に聞く手段もない。順調に進む合唱の練習とは対照的に、私の練習は滞っていた。
この音にはどんな意味があるのか。どんなメッセージが込められているのか。一人で考えるのが私の中では普通だった。それなのに、一人で練習室にいると、今までには感じたことのない寂しさに襲われてしまった。
向こうの練習室では、他のステージの練習をしているのだろうか。和気藹々としていた合唱団の練習を思い出す。今まで知らなかった感情に私は打ちのめされて、ピアノを弾く手を止めてしまった。少し気晴らしに散歩でも行こうか。そう思って立ち上がったとき、練習室の扉が控えめにノックされた。
「あ、練習してたよね?」
「ちょっと休憩しようと思ってたところ。どうしたの?」
顔を覗かせたのは純恋だった。今は練習中ではなかったのか。
「OBの先輩が差し入れにプリン持ってきてくれて。今休憩してみんなで食べてるから、遥希さんもどうかなって」
「じゃあ、ちょっとだけ」
ちょうど気晴らしに行こうと思っていたところだ。私は純恋の後に続いて部屋を出た。
「そっちの練習は捗ってる?」
「それが、あんまり。歌は歌詞があるから伝えたいこともそこから推理できるけど、ピアノ曲はとっかかりがなくて……何を伝えたいのかとか考え始めたら進まなくなっちゃって」
「うちでもよく指揮者の人がそうやって悩んでる。とっかかりがあっても『これが正解です』って書いてるわけじゃないし」
私の数歩前を歩く純恋の髪の毛が揺れる。今日の髪飾りは、初めて会った日と同じ赤いリボンだった。金魚の尾鰭のように赤と黒が舞う。振り返った純恋は、私を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「そういうときは、誰かの力を借りるっていうのもアリだと思います」
「でも弾くのは一人なのに……」
「それでも、一人では気付かなかった秘密に気付くこともあると思う」
真っ直ぐな視線に囚われ、目が逸らせない。純恋の歌に惹きつけられたときように、身動きが取れなくなる。
「私は多分、遥希さんほど音楽には詳しくないし、一緒に考えても足を引っ張るかもしれないけど――でも、私は遥希さんの力になりたい」
「どうして、そんな」
「遥希さんが瑞希さんに色々言われてるとき、私本当に悔しかったんです。遥希さんだっていっぱい悩んでるし、すごく上手いのに、勝手なことばかり言ってって。でもそれに説得力があるくらいには瑞希さんのピアノもすごく上手くて。だから、私――」
それは言ってしまえば、身勝手な思いだった。遥希と瑞希の事情に純恋は無関係だ。それなのにその後に続いた純恋の言葉は、私の背中を強く押すようなものだった。
「私、遥希さんに負けてほしくないんです」