「負けてほしくないって……」
戸惑う私の手を、純恋が勢いよく引いた。練習室に行くのではなかったのか。尋ねる間もなく外に連れ出されてしまう。純恋はそのまま走って向日葵畑に分け入り、そこでようやく足を止めた。
胸に手を当てて息を整えてから、純恋は堰を切ったように話し始める。
「本当はあの後、遥希さんに言いたかった。確かに瑞希さんのピアノはすごかったです。でも、あの日、瑞希さんが来る前に弾いていた曲は、瑞希さんのピアノよりずっとよかったんです」
「え……」
「私は素人だから、信じられないかもしれないし、上手くも言えないけど……私の心にはすごく響いた。それなのにあんな――」
純恋の目には大粒の涙が溜まっていた。何故泣くのだろう。弾いていたのは私で、純恋はただの観客だった。純恋まで悔しい思いをすることはないのに。
「ありがとう。でもいいの。瑞希の言うことは間違ってないし」
「遥希さん」
再び強く腕を引かれる。私はそのままバランスを崩して、純恋の方へ倒れ込んでしまった。顔と顔がぶつかるその前に、純恋が私の頭を掴むようにして唇を触れ合わせる。
軟らかな感触。少し甘い味。あまりのことに私は頭が真っ白になった。今、純恋は何をしたのだろうか。事故なのか。いや、
事故にしては明らかに意図的な動きがあった。でも故意ならどうしてこんなことをしたのだろうか。純恋の気持ちが全く読めなくて、私は呆然としたまま純恋の顔を見つめた。夏の光を閉じ込めたような、透明で強い光を湛えた瞳が、私をまっすぐに見ている。
「ぶっちゃけ、瑞希さんのことなんて私はどうでもいいんです」
「どうでもいいって」
散々悔しさを滲ませていたのに。けれど私の頭の中は、それどころではない混乱状態に陥っていた。もう何も考えられない。
「私はあのとき、遥希さんのピアノを素晴らしいと思った。このピアノで歌いたいって心から思った。それなのに、遥希さんは瑞希さんのことしか見てない。それがすごく悔しいんです」
何も言えなかった。何も考えられないからこそ、その言葉が自分の中に入ってきて、胸を突き刺していく。
「瑞希さんじゃなくて、私を見て欲しい。それが出来ないなら、私がどうにかして、遥希さんの頭の中を私でいっぱいにしたい」
情熱的で、烈しい言葉。これではまるで愛の告白のようではないか。いや、そんなことはないはずだ。私が抱いている淡い気持ちよりも濃く、深いものを純恋が持っているなんてことは。
「私は、遥希さんのピアノと、遥希さんのことが好きです」
歌うような告白に、時間が止まったような気がした。
人を惹き付ける純恋の声。だからこそその言葉が心を鷲掴みにしていく。でも信じきることは出来なかった。今までそんなことを言われたことはなかった。少なくとも、瑞希と私のピアノを聴いた上で、私のピアノを選んだ人は誰もいなかった。
「信じられないなら、もう一回キスしますけど」
「いや……も、もういいです」
もう一度味わってしまったら、今度こそ本当に何も考えられなくなってしまうだろう。まだ唇に感触が色濃く残っている。心臓が
「私も……純恋のことが好き……かもしれない」
「知ってる」
沢山の向日葵を背にして、純恋は笑った。自信に満ちた微笑み。けれど嫌ではない。むしろ頼もしさすら感じた。
「あのとき、きっと私のために弾いてくれたんだろうなって思ったから。うまく言葉には出来ないけど……合唱やってて、隣の人とばっちりハーモニーが噛み合ったときみたいな気持ちになれたから。あのときは間違いなく私だけを見ていたから」
「純恋……」
「でも、そのあとで瑞希さんが来てしまって。私じゃ瑞希さんのことを完全には忘れさせることが出来なかったし、遥希は遥希で私より瑞希さんのことを気にしてたし」
悔しいという感情と、もう一つ。拗ねたような純恋の言葉に私は確信する。
純恋は嫉妬していたのだろう。私があのとき、純恋ではなく瑞希に対する苛立ちを乗せてピアノを弾いてしまったから。
「瑞希さんじゃなくて私を見て欲しい。一人で苦しいときは、私を頼って欲しい。私は遥希が――好きだから」
両頬を挟むように触れられて、私は息を呑んだ。けれど同時に、もう一度あの瞬間を味わいたいと思った。
甘くて烈しい、青い匂いのする、私のはじめてのくちづけを。