私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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26.かつての天才(標本)

「もう日本はいいの?」

「なぁに、マリア。日本気に入った?」

 空港で搭乗手続きを終えたマリアに尋ねられ、私は少しだけはぐらかした。マリアが何を気にしているかはわかっている。この前偶然にも再会してしまったものの、そのあとですぐに帰ってしまった遥希のことだ。

「ミズキは、日本が嫌い?」

「嫌いっていうかさ……色々嫌になって出ていったもんだから、色々と気まずいわけよ」

「そういえば、ミズキが何で日本を出たのか、聞いたことない」

 マリアとは日本を出て二つ目の国で出会った。彼女は世界中を放浪しながら、様々なところで楽器を演奏して生計を立てていた。マリアは何でも演奏できる。現地の民族楽器に飽き足らず、近くにある食器でも何でも楽器にしてしまう。その自由な姿が私は気に入って、三カ国ほど追いかけ回して恋人になったのだ。

「日本にいたときは、寝ても覚めてもピアノの練習して、コンクールに出て、このまま演奏家になるってみんなが思ってて……そんな感じだった」

「レールの上の人生が嫌になった?」

「難しい日本語知ってるね。でもちょっと違う」

 世界中を放浪しているからか、マリアは日常会話くらいなら何カ国後も話すことができる。私も放浪を続けるうちに、学校で習っていた英語が実践で使える程度にはなったが、マリアにはまだ遠く及ばない。

「私さぁ、天才だったのよ」

「自分で言うところがすごいよね。いつも思うけど」

「私がピアノを弾けば、みんながそれに惹き付けられた。発表会の出番がどこであろうと、私は沢山の拍手をもらえた。コンクールでたまたまいちばんだったときなんて、みんな私のあとだったから本当に大変だったよ」

 それで恨まれたことも沢山あった。けれどその度に結果で黙らせた。天才だったけれど、努力は人一倍していた。寝る間も惜しんでピアノを弾いていた。そして日本で一番まで登り詰めたのだ。

「でもさ、あの一位を獲ったコンクールの前に出たコンクールでびっくりするくらいのミスしちゃってね。まあたまたまなんだけど、その部分に関しては確かに練習不足だったなってところで」

「まあそういうこともあるよね」

「でも、結果には響かなかった。私よりもミスなく弾いた人だって沢山いたのに、表現力だの何だのって言われて、結局私が一位。それは私だから高得点をつけてるんじゃないかって不安になるくらいだった」

 天才だともてはやされるのも、最初は気分が良かった。けれど段々居心地が悪くなった。聴衆は本当に私のピアノを聞いているのか、私が表現しようとしたものを本当に見ているのか、わからなくなった。見世物にされている気分だった。人の視線というピンで翅を固定されて、羽ばたくことができなくなった標本の蝶のように。

「あとは母親にもムカついてて」

 母は私に全てを期待をかけていた。けれど同時に遥希には冷淡だった。

「遥希さぁ、いつも考え過ぎなんだよね。常になんか考えてるから、人が話しかけてるのにその言葉が自分の中の思考の言葉に塗りつぶされて聞こえないことがある。それ自体は遥希の特性で、耳がおかしいわけじゃないんだけど……そのことをこと更に指摘して。しかもそれが遥希のコンプレックスを刺激するような言い方なもんだから、遥希も頑なになっちゃってさ」

 もっと遥希と話をしていれば、そんなことには簡単に気づけたかもしれないのに。あんなに遥希の演奏が硬くなる前になんとか出来たかもしれないのに。

「私がいない方が、実はこの世界は正常化するんじゃないかと思ったの。コンクールでの公正な採点とか、母親がもっと遥希のことも見てくれるとか。まあ前者は別として、後者は全然そんなことなかったけどね」

「そんなこと考えてるなら、あんな冷たくしなきゃいいのに……あのスミレって子にも多分嫌われたよ、あれは」

「純恋ちゃんね……目が離せない子よね」

 彼女には私と同種の才能があるのだろう。舞台に立てば人の目をどうしても引いてしまう、私にとっては忌々しい才能。でもその力を持ちながらも、彼女は合唱の中に自らを埋没させることを選んだ変わり者だ。おそらくは自分の才能については何も知らないのだろう。

「遥希があの子を選んだのは何の因果なのか……って思うけど、樹里の知り合いらしいから、樹里が仕組んだ可能性もあるわね。樹里は何故か遥希のことをすごく買ってるみたいだから」

 樹里は最初、私のファンだと言ってきた。当時はそんな人は多くいた。私の才能を知り、私と仲良くなることで得をしようとする人があまりに多かった。樹里もその手合いだと最初は思ったけれど、すぐに彼女の抜け目なさに気が付いた。ファンだというのは本当だ。けれど樹里は私の技術を盗む気満々で近付いていたのだ。

「樹里は定演本番の冬って言ってたけど、結果が出るなら秋かもしれないわね」

「秋って……コンクールの方ね」

「悔しいから嘘言っちゃったけど、最初に弾いてた『月の光』は悪くなかった。もしかしたらもしかするかもしれないわよ」

「よかったなら素直にそう言ってあげればよかったじゃない。大人気ない」

 私は曖昧に笑った。大人気なかったと自分でも思う。けれど羨ましかったのだ。天才ではない遥希が瑞希に迫る勢いで実力を伸ばしてきたことが。私が一旦はピアノを捨てなければ得られなかったものを、ピアノを続けたまま手に入れたことが。

「ま、いずれにしろ私にできることはもうないわよ。自由に生きるわ」

 根無し草のように世界中を旅して、音楽を楽しむ。マリアは決して標本の中には収まらない美しい蝶だ。私はその生き方を真似しようと思った。かつての天才は綺麗な箱の中に閉じ込められていた。けれど何もかもを捨てて今、私は自由になったのだから。

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