「樹里先生!」
その声と同時に私の顔面に水がかかる。水鉄砲による攻撃だ。ボランティアで近くの学童保育の手伝いをしているが、子供はいつだって困るくらい自由だ。暑い日が続いているので、庭で水遊びをすることになってから今日で三日。初日でびしょ濡れにされてしまったので、昨日からは最初から水着を着ることにしていた。
「やったなぁ!」
子供と一緒になって水を掛け合う。自分でも就活中とは思えない遊びっぷりだが、一応これも就活の一環だ。大学では保育士の資格を取るための勉強もしていた。それを活かした職業というのも考えている。
というのは建前で、単純に子供と触れ合うのが楽しくてこのボランティアを引き受けているところはある。
けれど、自分にこんな無邪気な子供時代があったかと聞かれると疑問が残る。大学に入る前までは演奏家を目指していた。それは親の夢だったからだが、別にピアノが嫌いなわけではなかったので、素直に一日に何時間も練習していた。演奏家になれるのは音大生の中でも一握り。ピアニストは裾野が広いから尚更激戦になる。その中で勝ち抜くためにはどんな天才であっても、とにかく何もかもを犠牲にして練習しなければならない。瑞希や遥希は、私以上に厳しい練習を続けて今までやってきたのだ。
それでも才能の差は残酷だ。自分に才能が無いと思っている遥希ですら、私よりも輝くものを持っている。わかりやすい天才の瑞希は言わずもがなだ。多くの人をたった一音で惹き付けてしまう演奏。空気まで自分のものにしてしまう力。それに憧れると同時に、どうしてもその技術を盗みたいと思ったし、それが不可能であることも私にはわかっていた。
瑞希が輝かしい活躍をする裏で、何人の人がその才能に絶望して音楽を捨てていったのだろう。その影の部分は顧みられることなど無い。一握りの人間になって名を成さない限り、自分の名前は誰にも認識されないまま、何者にもなれないまま終わってしまうのだ。
けれど――子どもたちを見ながら思う。
彼らは相手の名前すらわからなくても一緒に楽しく遊ぶことができる。自分が何者であるか、相手が何者であるかなんてどうでも良くて、ただ楽しければそれでいい。わかりやすく無邪気な価値基準。ずっと何者かになることを、自分の演奏を突き詰めてきた。けれど一握りの人間になんてなれないと悟った先で思ったのは、だったら楽しいことを追い求めていきたいということだった。子供が遊ぶときのように、音楽で遊んでいたい。おそらくは天才であることを自分から捨てた瑞希も、今は同じ結論に達しているのだろう。
遥希はどうなのだろう。純恋と出会って、合唱を知って、少しずつ何かが変わっている予感はある。
後世まで名前が残る人間は限られている。そしてそんな人たちの人生にはどこか不自由さがつきまとってくる。作曲家たちでも、パトロンの支援により曲を作り続けることが出来たけれど、その分求められた曲を作らなければならなかった者たちが多い。誰かにその才を認められて、誰かに求められることは、それだけ自由を失うことでもある。
それがいいとか悪いとかではない。ただ、誰にも自分の音が聞こえないことは――もう好きにやったって問題ないということでもあるのではないか。名前を知らないまま遊ぶ子どもたちのように、ただその一瞬が楽しいかどうかが全て。そんな道を歩んでいくのも悪くはないのではないか。
凡人の負け惜しみかもしれないが、どうやったって届かないものは届かない。泣いても月を手に入れることはできないのだから、それなら手が届くものの中で幸せになったっていいのではないか。
――ねぇ、遥希はどう思う?
答えは合宿が終わったあと、遥希のピアノに聞くのが一番だ。もしかしたら不自由さと引き換えに名を成すのとも、自由と引き換えに自分の音を誰にも覚えられずにいるとも違う道を見つけてくるかもしれない。それはそれで楽しみだ。遥希と純恋を会わせたのは、何かが起こるのではないかと思ったから。だけど何が起こるかは私も全く予想できていない。その方が楽しいからそうしているのだ。
誰かが大きめの水鉄砲から水を発射する。そこに小さな虹が見えた。虹に気が付いた子供たちが楽しそうに声を上げているのを、私は静かに眺めていた。