「私も歌ってみたいな」
「え?」
色々なことがあった合宿の四日目。休憩中に突然遥希が言った。前は合唱が嫌いだと言っていたのに。合唱を好きになってくれたのだろうか。私は嬉しくなって遥希に詰め寄った。
「全然いいよ。ちなみに遥希ってパートは」
「大学の授業のときはアルトだけど……」
話している声も確かにあまり高くはない。パートはアルトで問題ないだろう。私は意気揚々と第二ステージと第三ステージの楽譜を取り出した。
「どっちも音取りからやらなきゃいけないから大変かもしれないけど」
「……こっちは多分初見でいける」
遥希の言葉に私は膝から崩れ落ちそうになった。忘れそうになっていたが、遥希は日本トップクラスの実力を持っているのだ。遥希が指した第二ステージの曲は確かに難易度の低いものが多い。遥希はそれをほぼ一瞬で判断したのだ。
「遥希ってやっぱり絶対音感とかあるの?」
「一応あるけど、正直あまり役には立たないね。ピアノは鍵盤押せば音が出るわけだし。合唱だったら相対音感の方が有利でしょ?」
「どっちもそこまでじゃない私に言われましても」
遥希のの言っていることは正しいけれど、どちらもそれほどでもない私にとっては、恩恵を実感できることもあまりない。私は苦笑いをしながら、真剣に楽譜を読んでいる遥希に言った。
「ちょっと歌ってみる?」
「うん」
私は練習用に使っていた小さなキーボードを引き寄せて、最初の音を鳴らした。
私には夢がある
どこまでもどこまでも
世界の続く限り、あなたと二人で探してみたい夢が
まだ見たことのないたくさんの景色
まだ感じたことのない鼓動
世界の扉にノックして
幼い日に知りたかったこと
問いかけてみたい
あなたと寄り添いながら
北川昇作曲、みなづきみのり作詞の「ここからはじまる」。無伴奏の曲で、第荷ステージで歌うことが決まっている。遥希は間違いなく初見のはずだが、全く音がずれていなかった。けれど本当の和音になるためにはまだ足りない。音が合っているだけでは駄目なのだ。
歌いながら遥希に視線を送る。遥希の方が音楽的な素養は上だ。けれど今は私がリードする番なのだ。私の視線に気付いた遥希が私を見て、声を発する。その瞬間に、ビリビリと空気が揺れたような気がした。
木は見ているだろうか?
風は知っているだろうか?
私が微笑んでいることを
夢を見ること、歌を歌うことで
私とあなたが共にいることを
私達の歌を聞いていた他の団員たちが、いつの間にか歌の輪に入ってくる。音に厚みが生まれる。私達の音は他の音に包まれて、それでも私達の心はつながっていると感じた。
遥希も同じ音を感じているだろうか。好きな人と声を揃えて和音を作ることの喜びを。他の音があったとしても、そのとき私達は二人だけの世界にいる。音が揺らした空気にさえ祝福されているようなこの幸福を、遥希も味わっているだろうか。
きっと遥希ならわかるだろう。あの一瞬で私の音に自分の音を合わせることが出来たのだから。どう歌えば一番和音が響くか、遥希はちゃんと知っている。
再び私達の視線がぶつかる。遥希は静かに微笑んで、ゆっくりと頷いた。
聞こえる、昨日の声が
見える、明日の空が
私たちは今ここから歩き始めるのだ
ここから始まる