ホールは静寂に満ちている。舞台の上で奏でられる音楽以外の音はなるべく排除された空間。ましてやコンクールの場では、万雷の拍手が送られることも稀で、ピアノの音と、審査員が紙に鉛筆を走らせる音だけが支配している。私の音を聞かせるには絶好の場であるはずなのだ。
なのに、ピアノの鍵盤を押しても音は聞こえない。その代わりに聞こえないはずの雑音ばかりが耳に届く。それはどうにかして音を出そうと必死になる私を嘲笑うように、次第に大きな音になっていた。
私の耳は欠陥品だ。聴覚検査をすれば何の異常も見つからないし、むしろ人より耳がいいとさえ言われてしまう。けれど音楽をやっていく上で肝心要の音が聞こえない。雑踏の中で電話をするのが難しいように、私の音は他の音に紛れて消えていってしまう。
とうとう弾くのをやめた私のことを、客席にいる審査員や出番を待つ人たちが見ている。その中に私の心配をしている人は一人もいないだろう。誰かが落ちれば自分が勝ち残る可能性は少し上がる。審査員はもう私の演奏を審査する必要はないのだと、休憩時間くらいに思っているだろう。
私の音を聞いてほしかっただけなのに、私はどうしてこんな状況に陥っているのだろう。他でもない私の音は、いつも雑音にかき消されてしまう。あの人の音は全てを突き抜けて、人の心に直接届くのに。
舞台上に一人で取り残された私は、そのまま舞台を降りることもできずに痛い静寂を味わい続けるしかない。弾いても弾いても私の音が誰にも聞こえないとわかっているのに、それでも弾き続けることが出来るほど私は強くはない。どうすればいいかわからないでいるうちに、あの人の音が響き始める。それは私の音を掻き消す、何よりも美しい雑音だ。
どうせみんな思っているのだろう。
所詮、私はあの人を越えられはしない。どれだけ努力したところで、才能の分の差が縮まらない。才能がある人が努力をしないわけではないのだ。悔しい。けれど私の前に演奏したあの人の音に、何よりも私自身が惹きつけられてしまっていた。私の音は、どうせ雑音に紛れるつまらないもの。私の欠陥品の耳では、一番近くにいても聞こえない。
それでも、一縷の望みを懸けて私は鍵盤に指を置く。誰かに届いてほしいと藻掻き続ける。敵わないとわかっているのに、無駄な抵抗をいつまでも続けてしまうのだ。
この永遠に続く悪夢は、どうやったら終わるのだろう。
私の音は、どうしたら聞こえるようになるのだろう。
叫んでもこの声すら誰にも聞こえない。降り始めた雨の音に紛れて、私の声はどこにあるのかわからなくなる。
何故か無性に腹が立っていた。どうして自分の音が聞こえる人たちに限って、人と一緒に音楽をやろうとするのだろう。樹里もそうだ。そしてあの人も。自分の音が聞こえなくなったことがないから、他人の音に自分の音が混ざるのが怖くないのだろう。
嫌いだ。そう思った。自分の音が聞こえなくなる怖さを知らない人なんて。樹里も、あの人も、そして美しい声を持ちながら、人と歌うことを選び続けてきた純恋も。
それが八つ当たりだということは、嫌というほどわかっていたけれど。