1.殻(傘)
結局、夏祭りの日の後で遥希に会えたのは、後期が始まってから最初の練習のときだった。練習はつつがなく進んでいたけれど、遥希は一度も私を見ようとはしなかった。
「純恋さあ、何かあったの?」
休憩中、トイレで溜息を吐いた私に、梨恵が話しかけてくる。何かあったと言えばあるのだが、それを梨恵に言ってもいいものかわからない。遥希はこういうことを人に言われるのを嫌いそうだ。
「最初は喧嘩でもしたのかなぁと思ってたけど、なんかそんな感じでもなさそうだしさ」
「うん……まあ色々あったにはあったんだけど……言っていいものかどうか……」
「まあ部外者に知られたくないってのはあるよねえ。でもあんなにイチャイチャしてたのになぁと思って」
「い、イチャイチャ……してたかな……?」
合宿から夏祭りの前までは、確かにそうだったかもしれない。半ば強引に遥希に想いを伝えて、想いが通じ合って、舞い上がっていなかったと言えば嘘になる。正直、あのままトントン拍子で何もかもうまくいくような気がしていたのだ。――実際は頭から冷水を浴びせられたような状態だが。
「……まあ、私に言えるようなことなら相談乗るよ」
「ありがと、梨恵」
梨恵ならきっと、遥希の母親が言ったことなど気にせずに付き合い続ければいいと言うだろう。私もそう思っているところはある。もう大人と呼べる年齢になったのだ。恋愛くらい好きにすればいいのだ。けれど遥希はそう思っていない。遥希は母親のことがあまり好きではないようだが、それでも母親の言葉に縛られている。私ではその糸を切ることはできないのだろうか。手を洗う水はまだ夏の余韻を残していて、熱くなった体をちっとも冷ましてはくれなかった。
*
「あちゃー、雨だ……」
練習が終わり、外に出ようとした私は溜息を吐いた。折り畳み傘は忘れてきてしまった。このまま走って帰ってもいいけれど、すぐやむなら雨宿りしてもいい。どうしようか悩んでいると、背後から声を掛けられた。
「傘ないの?」
「遥希……」
「私持ってきてるから……一緒に入る?」
思えば、遥希と会う日は雨が多い。遥希の表情は少し硬かったけれど、その微笑みは優しかった。私は遥希の青い傘の中に入って、一緒に外に出た。
歩き始めてから、私たちは暫く何も話さなかった。何を話すべきなのかわからなかったのだ。今日の練習の話をするべきなのか、あの日からどうやって過ごしたのかの話をすべきなのか。気まずい沈黙を覆い隠すように雨音が響く。遥希はただ前だけを向いて歩いているように見えた。私はどうすればいいかわからずに視線を落とす。その先にはたまたま遥希の手があった。
ピアニストの手は案外肉厚でがっちりしているのだと、樹里が昔言っていた。遥希の手もそうだ。短く切られた爪は、指先が少し平べったく変形している。筋肉がしっかりついた大きな手。樹里は「細くてすらっとした指とかは望めない」と言っていたけれど、私はこの手が好きだと思った。
遥希の手をじっと眺めていた私は、途中で違和感を覚えた。傘を持つ右手の親指の付け根あたりが少し赤い気がする。思わずそこに触れると遥希がぴくりと肩を震わせて傘を落とした。
「あ、ごめん……ちょっとびっくりして」
私は落ちた傘を拾って、それを持つ。遥希は笑って誤魔化しながらも赤くなっているように感じた部分をさすっていた。
「遥希、もしかして……手を痛めてるの?」
腱鞘炎は手指の使いすぎで起こるから、ピアニストにとっては職業病のようなものだと聞いたことがある。長時間、手を休めることなく練習を続けたりするとなってしまうという。けれど前に遥希は「腱鞘炎になるなんて自己管理が出来ていない証拠」だと言っていた。それがわかっていてどうしてこんな無理をしてしまったのだろうか。
「……まだ軽い方だよ。湿布貼って休ませておけば治るって」
「でも……」
「だって、練習しないと――瑞希を超えないと、認めさせることができないから」
結果を出さなければ認めてもらえない。だからこそ自分を痛めつけるように練習し続けていたのか。純恋は何故か泣きそうになってしまった。泣きたいのは遥希の方だろう。けれど悔しかったのだ。
「大丈夫。必ず結果を出すから」
遥希は前を見つめて言う。けれどそれで本当にいいのだろうかと私は思った。仮に遥希が瑞希を超えたとして、そして私たちの関係が認められたとして、めでたしめでたしとはならないだろう。そもそも遥希が結果を残したとしても、本当に認めてくれる保証もない。そもそも結果を出さなければ恋愛なんて許さないというところから変な話ではないだろうか。
「……結果なんて出さなくてもいい」
私は呟いた。他人の親に対して勝手なことを思っているのはわかっている。けれど私は遥希の母親をどうしても許せなかった。遥希はせっかく誰かのために弾くことと、誰かと音を重ねる幸せを知ったのに、あの一瞬で全てが水の泡になった。今日の練習もそうだ。遥希の演奏は正確だから破綻することはなかった。けど、その音を聞くだけで踊り出したくなるような力は失われていた。殻の中に閉じこもった音は、こちらがどれだけ働きかけても美しく重なり合うことはない。
純恋は遥希の頬を撫でてから、その唇をそっと自分の唇で塞いだ。遥希にもう一度思い出して欲しかった。あのときに奏でた音を。重なった声を。
「ごめん、純恋――今はそういう気持ちになれない」
しかし遥希は困ったような顔をして、優しく純恋を突き放すのだった。