「弥富ってさぁ、何かあったっけ?」
家に帰るやいなや、私は思わず樹里に電話してしまった。けれど今、遥希との間で起こっていることを、共通の知り合いとはいえ言ってしまっていいのだろうか。電話したはいいものの迷ってしまって無言になった私を気まずくさせないためなのか、樹里は急にそんなことを言い出した。
「うーん……金魚とか? でも何で急に弥富?」
「いや、今度就活で弥富に行くんだけど、弥富って何あったっけ、と思って」
「私もそんなに詳しくないからなぁ。そういえば業種は?」
「まぁざっくり言えば流通系?」
樹里は子供に関わる仕事がいいと言っていたはずだが、他の業種も検討はしているらしい。樹里が音楽の道に進まないのは少し寂しい気もするが、その道を歩むことがとても大変なこともわかってはいる。だから、樹里が今楽しくやっていられるのなら、私はそれでいいと思う。
「あ、弥富といえば文鳥も有名だよ」
「そうなんだ。文鳥と金魚……就活の合間で見学とか出来るのかなぁ、それ」
「見学?」
「え? だって就活のためだけにそこに行くのって嫌じゃない? ついでに何か面白そうなものがあったら見たいなって。……文鳥スポットめぐりとかあるんだ。これいいかも」
楽しそうな樹里の声を聞いているうちに、気持ちは少し落ち着いてきた。遥希の手のことも、遥希が思い詰めているような顔をしていたことも、全部頭の中でぐるぐる回っていて、爆発してしまいそうだったのだ。
「――で、純恋は何かあったの?」
「あ、えーとね……」
急に話題が自分に戻ってきてしまい、私はしどろもどろになってしまった。樹里が小さく笑う声が電話越しに聞こえる。
「どうせ遥希のことでしょ?」
「まあそうなんだけど……どうしてわかるの?」
「いや、先生が『根詰めすぎてるんだよなぁ』って言ってたからさ。最近は随分穏やかになったと思ってたのに」
遥希に指導している先生なら、確かにその変化には気付いてしまうだろう。私は意を決して、夏祭りの夜の出来事と、ついさっき起きたばかりのことを樹里に説明した。
「……遥希も馬鹿だね。それで認めてくれるなんて保証はどこにもないのにさ」
「樹里もそう思う? 何か私も、仮に遥希がコンクールで入賞しても、今度は別の理由で反対してきそうだなって」
「結局さ、瑞希さんのことだってそうだけど、子供のことを自分の付属物か何かだと思ってるんだよ。でも『だから離れた方がいい』っていうのは簡単だけど、それが出来ないから困ってるんだって話にもなるし」
樹里が私の言いたいことをほとんど代弁してくれた。遥希の心は母親に縛られているように感じる。でも、その糸を切るのは難しいのだ。私は溜息を吐いた。
「実際、遥希にはもうちょっと頭冷やす時間があった方がいいと思うんだけどねぇ……家にいても出来ることとかがあればいいんだけど。お出かけとかの誘いはもう乗ってこないだろうし」
「家にいても出来ることかぁ……ちょっと考えてみるよ。ありがとう、樹里」
樹里と話していると、その前向きさに助けられることもある。そして樹里は樹里で遥希のことを心配しているということは知っている。遥希に対して何も思っていなかったら、合唱の伴奏を任せようとはしなかっただろう。私にとって樹里は、今でも頼りになる姉のような存在だ。