「でもどうすればいいかわかんないんだよね……」
部室で寝転がりながら梨恵に言うと、梨恵は鞄の中から飴を取り出しながら答えた。
「ブロックされてるわけではないんでしょ?」
「でもほぼ既読無視だよ……返信する余裕もないんだろうけどさぁ」
梨恵には詳しいことは省きながらもある程度の説明はした。あまり広めるべきではないかと思ったが、梨恵ならそのあたりはわかってるくれるだろう。実際、梨恵は誰にも言わずに話を聞いてくれている。
「忍の事務的な連絡には返事してるみたいだし、今度の練習のときにとっ捕まえれば逃げられはしないよね。それか向こうの学校まで押しかけるとか?」
「それも結局拒否されそうな気がしない?」
遥希は結構頑固なのだと思う。一度心に決めたことは曲げようとしない。純恋を遠ざけてでも結果を残そうと決めたのなら、何があってもそれを達成しようとするだろう。しかし今のまま突っ走ってしまうと取り返しのつかないことになりそうな気もしている。
「せめてなんか気分転換になるものでもあればいいのになぁって」
でも気分転換する気にもならないかもしれない。樹里に聞いたところ、遥希は元々人よりも何倍も練習するタイプらしい。それなのに更に練習時間を増やしているなら、当然余裕などなくなるだろう。私も梨恵も良い案が浮かばずに溜息を吐いていると、少し離れたところに座ってタブレット端末を触っていた忍が話しかけてきた。
「二人とも、メタバースとか興味ある?」
「急にどうした?」
唐突な話に梨恵が正直に答える。忍はなぜか少し照れたような顔をして続けた。
「実は最近ハマってて……気分転換とか言ってたから試しに僕が作ったエリアに入ってみてほしいなと思って」
「まじで一部しか聞いてないな、私らの話……」
一部だけ聞こえてしまっていたのだろう。忍は私と梨恵が何か気分転換になるものを探していると思っているらしい。梨恵は少し呆れたように笑いながらも、忍が作ったメタバース空間そのものには興味があるらしく、忍が持っているタブレット端末を見せてもらっていた。
「でもメタバースってあの顔につけるやつがないと駄目なんじゃないの?」
「あれがあると没入感が違うけど、入るだけならスマホでもできるよ。今はメタバース上でアーティストがライブをすることもあるんだ」
「へぇ……」
「だからメタバース上でホール作って、そこでいつでもコンサートできたらいいなあって。うまくすれば定演のリハーサルにも利用できるかもと思って」
私も忍のタブレット端末を覗き込んだ。そこに映し出されていたホールはどことなく見覚えのあるものだった。細部のデザインは異なっているが、今年の演奏会で使う予定のホールに良く似ている。
「これって寸法とかは再現してる感じなの?」
「むしろそこくらいしか再現できてないかな。座席の形とかは難しくて。あとは色々面白いエフェクトもつけられるんだ」
忍が色々と操作すると、画面に蛍が舞ったり、オーロラが見えたり、雪が降ったりする。
「すごいなぁ、こんなの作れるんだ」
「僕なんてまだまだだけど、もしよかったらアドレス教えるから、気分転換に使ってみてよ。アバターも自分で自由に作れるし」
私と梨恵は顔を見合わせた。忍は私達が何の話をしていたかは全くわかっていないけれど、良い解決策をくれたと言えるかもしれない。遥希が乗ってくれるかどうかはわからないけれど、誘ってみる価値はあるだろう。
*
リハーサルに使えるようにメタバース上に本番環境に近いところを用意したから使ってみてほしい、と純恋から連絡があった。コンクールまでは純恋との関わりは少なくしようと思ったのだが、「一応ピアニストにも確認してほしい」と言われれば断るのも難しい。そして純粋にメタバースという名前だけは聞いたことがあるけれど使ったことがないものには興味があった。スマホでも操作ができると聞いたので、まずは自分のアバターを作ってログインを試みるところから始めることにした。
「作ってもいいし、面倒なら選んでもいいって感じか……」
アバターを作るのは大変そうだと思い、予め用意されているアバターの一覧を眺める。人の形をしたものから動物型、そしてウニのような謎の棘がついた球体など、色々なものがあった。私は悩んだ末に、期間限定のアバターをタップする。
ログインしてからしばらくは、操作がよくわからずにそのあたりをうろつくだけになってしまった。子供の頃からゲームのたぐいはほとんどやってこなかったので、こういったものの操作には面食らってしまうのだ。どうにかうまく前に進めるようになってから、純恋に教えられた番地に向かう。
エリアに入るかどうかの質問にイエスと答え、中に入る。そこには見覚えのあるホールが広がっていた。数えるほどだがここでピアノを弾いたこともある。定期演奏会が行われるのもこのホールだ。椅子のデザインなどは本物とは違っているけれど、舞台の大きさや座席の配置などは本物に近く作られているようだった。
「あ、いたいた! 遥希、こっちだよ……って何、そのアバター?」
イヤホン越しに純恋の声が聞こえてくる。純恋は金魚のアバターを使っていた。彼女によく似合っていると思う。彼女の髪が金魚の鰭のように見えたこともあったな、と私は少しだけ懐かしく思った。
「期間限定だったから……」
「まあ、夏っぽいとは思うけど……そういえばホラー映画好きなんだっけ?」
「うん」
私が選んだアバターは、井戸で有名な髪の長い女性を模したものだった。よく考えればホールに行くのにこれほど似合わない格好もない。
「でもアバターにするとちょっとかわいいね」
「悪霊だけどね」
純恋は私を先導してステージに行く。しかしステージの上では止まらずに、舞台袖にまで進んでいった。
「忍が、とりあえずピアノのところは見てほしいって。自信作らしいよ」
「そうなんだ。でもスマホで見てわかるのかな……」
「まあ今日はお試しって感じで、忍も私達の意見聞いて修正したいって言ってたし」
それなら、と思い、純恋に先導されるままにピアノが格納してあるところの扉を開ける。位置関係の再現はできている。ただしまだ舞台裏の通路などは作られていないという。
「そういえば、私はここ見るの初めてかも。忍は指揮者として会場下見もしたんだけどね」
「私も用意されてるものを弾くのが多いから、あるのは知ってるけど、ちゃんと見たことはないな……」
それで役に立つのかはわからないが。扉を開けて中に入ると、グランドピアノが三台置かれていた。忍は凝り性なのか、ピアノの台数はきっちり元となったホールに合わせているようだ。
「……え、これは普通にすごいかも」
「そうなの? ていうかそんなちらっと見ただけでわかるものなの?」
「いや、まさかベーゼンドルファーのインペリアルを再現してるとは思わなくて……」
一般的なピアノの鍵盤の数は八十八だが、ベーゼンドルファー・インペリアルの鍵盤の数は九十七鍵だ。今まで弾いてみたいと思いつつも機会がなくて弾けなかったものが目の前にあることに私は興奮していた。
「これって押したら音出たりする? いや、うまく押せるかわからないけど……」
試しに普通の鍵盤の部分を押すと、その音程の音が出る。音は流石に本物ではないとすぐにわかったけれど、押せるとわかった以上、未知の鍵盤も押したくなってしまう。
ゆっくりと、普通とは違う、黒く塗られた白鍵部分を押す。しかし音は出なかった。
「……この部分、音出ないんだね……もしかしたら用意されている音が八十八鍵分しかないのかな……」
「露骨にがっかりしないで……ていうか定期演奏会でこのピアノ使えば弾き放題じゃない?」
「いや、でもこのピアノ借りるの結構お金かかるんだよ……一番安いのがヤマハのピアノだけど、それだってすごくいいピアノだから文句はないし」
残りの一つはスタインウェイだが、それはベーゼンドルファーと同じ値段で借りられる。希望を出すことはできるかもしれないが、合唱団の懐事情というものもあるから、あまりわがままは言えない。それに高いからいいピアノだとか、安いから悪いだとか、そういうことはないのだ。
「いや、交渉の余地はあるって。というか私が本物見たくなってきた。ちなみに他の鍵盤は音出るけど、この状態で弾けたりする?」
「それは無理だね……さっきまでまっすぐ歩くのすら苦戦してたから」
「そっか。じゃあ歌うくらいしかできないかもね」
歌うだけなら特別な操作はいらない。電話越しで歌っているのと大して変わりはないからだ。私達はピアノ置き場を出て、再びステージに戻った。
「ステージから色々エフェクトも操作できるって聞いたんだよね」
「逆に本番じゃできないよね、それ」
「確かに。照明とかなら再現できるかもしれないけど、そもそもこのホール、そんな派手な照明もないしね」
主にクラシックのコンサートのために作られたホールだ。照明が赤くなったり青くなったりする必要はない。そのあたりは忍が作った仮想空間でも同じらしい。
「えーとね、まずはこれとか」
純恋が言うと、客席の照明が落ち、その暗闇に小さな光がいくつも浮かび上がった。どうやら蛍を模しているらしい。
「すごいね……これ、あの頭につけるやつとかで見たらすごいんだろうなぁ」
「たしかにそうかも。蛍かぁ……蛍って言うとあれだよね」
純恋は澄んだ声で「ほたるこい」を歌い始める。ホールで歌っていると言うよりは、やはり電話越しに歌っているように聞こえた。けれどその声は聞いていてとても心地よかった。これが本物で、すぐ隣でこの声が聞けたらいいのにと思ってしまうほどに。
「この曲でステージの照明も落として、ペンライトみたいなもの持って蛍っぽくする演出もあるんだよ」
「へぇ……ピアノだとそういう演出あまり聞いたことないな……ポピュラーとか、ジャズとかならあるかもしれないけど」
「ピアノだと手元見えないと困っちゃうもんね」
ずっと鍵盤を見て弾いているわけではないから、僅かな明かりがあれば不可能ではないだろうが、いずれにしてもクラシックピアノの世界でそのような演出はあまり聞いたことがない。純恋の向こう側には、私の知らない音楽の世界が広がっているのだな、と改めて思った。