「そろそろ、切り上げなくちゃ」
「……そうだね、もう遅いし」
既に日付は変わっていた。私達がメタバースにログインしたのが二十二時半を過ぎたところだったので、もう一時間半もここにいたことになる。時間は一瞬で過ぎ去ってしまった。実際に会ったわけでもない。お互いに普段とは全く違う見た目だった。それでも久しぶりに純恋と他愛のない話をして、彼女の歌を聞いて、少しずつ固めていた心が解けていきそうになっているのを感じる。
「今日はなんか楽しかった。遥希が音楽についてあんなに楽しそうに話すのも見れたし?」
「え?」
「見た目は悪霊だけどね」
動かしていたのはアバターだったから、いつもの自分とは少し違っていたのかもしれない。ベーゼンドルファーに心が動いたのも事実だ。けれど改めて指摘されるとどこか照れくさくも感じる。
「でも……私よりも、純恋の方が楽しそうだよ、いつも」
「そう?」
「なんだろう……歌ってるときは、水を得た魚――みたいな」
「そっかぁ……そう言われるとちょっと嬉しいかも」
それはお世辞抜きの、素直な気持ちだった。純恋が歌うときは、いつも歌えるという喜びに満ち溢れているようで、それを見るたびに羨ましいと思うし、その煌めきに手を伸ばしたくなる。そしてその喜びは、たった一人で歌うだけでは得られないものだということも徐々にわかってきた。誰かとともに音楽を奏でること。純恋はそれに一番の喜びを感じるのだろう。
「弾けたら良かったんだけどな」
「え?」
「ここのピアノが弾けたら、純恋の伴奏もできたのにって」
そろそろ切り上げなければならないと思いつつも、名残惜しくなる。楽しそうに歌う純恋に、私の音が少しでも寄り添えたらと思う。けれどそれは――この仮想現実の外では、難しい話になってしまう。結果を出さなければ、母はそれを許してはくれないだろう。ここを出たら、明日からはまたひたすら練習だけをする日々に戻ってしまう。
「何言ってるの。定演の伴奏やめたわけじゃないんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「お母さんが許してくれなくても遥希がやりたいならそうすればいいんだよ。私は、遥希のピアノで歌いたいよ」
私はそう簡単に割り切ることはできなかった。母のことを考えるとどうしても足がすくんでしまう。母が私のことを見ていないことなんてわかりきっているのに、それでもどうしても心の奥底では期待しているのだ。私が瑞希を超えられたら、もしかしたら――と。
「難しいのは私もわかってるんだ。だって、良くも悪くも親の存在って大きかったりするし。でも……私が遥希のピアノで歌いたいって思ってることは覚えていてほしいの」
「覚えていて……それで、どうすればいいの?」
「覚えてるだけでいいんだよ。人間の体は『何かがしたい』って気持ちでも動くらしいから」
そういえば、合宿のときにそんな言葉を聞いた。想いが音を変えるなんて幻想だと思っていても、想いが体を動かして、いつもと違う音が出ることがあるのは事実だ。プロはそのようなムラをできるだけ少なくしなければならないが、技術をどれだけ高めてもどうにもできない領域は確かにある。
「わかった。覚えておく」
アバターを操作するのは難しくて、抱きしめたいと思ってもそれは難しい。そもそも向こうは金魚でこちらは悪霊で、抱きしめるといってもどうすればいいのかわからない。だから私達は普通に別れの挨拶をして、同時に仮想現実の世界からログアウトした。
現実の世界では、スマホの画面がまだ光っている。そろそろ眠らなければならないし、明日は起きたら朝一番にピアノを弾く、いつもの一日を始めなければならない。けれど夢のような機械の中の世界が名残惜しくて、私は少し熱を持ったスマホを抱きしめながらそっと目を閉じた。