急に降り出した雨に対抗できる折りたたみ傘の類は持ち歩いていなかった。私は苛立ちながら、少しでも雨に当たらないように走り出した。これ以上樹里と純恋の会話を聞いてはいけないと思った。話したこともない人に苛立ちを覚えてしまうのは褒められたことではないだろう。走って構内を抜けたものの、普段の運動不足がたたって息が上がって立ち止まってしまう。何とも情けない。息を整えてからまた駅まで走ろうと考えていると、不意に降り注ぐ水滴が途切れた。
「あの、傘……使いますか?」
「え?」
私に傘を差し出していたのは純恋だった。立ち止まっている間に追いつかれたのか。驚いて何度かまばたきをすると、睫毛から雫が落ちる。
「そんな濡れ鼠になるくらいだったら入っていきなよ。純恋、遥希と同じ駅使ってるから」
樹里が純恋の後ろから顔を覗かせる。樹里は大学のすぐ近くにアパートを借りて住んでいるから、駅は使っていない。門を出れば駅とは反対方向に歩き始めることになる。
「いや、大丈夫です」
「遥希は大丈夫でも、鞄の中身は大丈夫じゃないでしょ」
「あ……」
鞄の中には楽譜が入っている。防水加工はしているけれど、激しいにわか雨に耐えられるようなものではない。そして紙で出来ている以上、雨に濡れるとふやけてしまう。消耗品のように使い倒している楽譜もあるが、外国から取り寄せた楽譜もある。後者が濡れてしまうのは良くない。
「じゃあ、駅まで」
そこから先は駅のコンビニで傘を買えばいいだろう。私は樹里に促されるまま、鞄と体の半分だけを純恋の折りたたみ傘の中に入れた。純恋も同じように傘の中に鞄と体の半分を入れている。
「じゃあ、私はこっちだから」
その状態で門を出ると、樹里はあっさりと自分の家がある方向へと曲がっていった。初めて会った二人だけを残して自分は帰っても大丈夫だと本気で思っているのだろうか。私は溜息を吐いた。
「えっと……」
純恋が遠慮がちにこちらを見つめている。私は地面に打ち付ける雨を見ながら言った。
「
「あ、はい、一応。でも樹里の奴、せめて自己紹介終わるまでいてくれても良かったのに」
「昔からの知り合いなんですか?」
「実家が近くて。あと昔は同じピアノ教室通ってたんです。私は趣味でやってただけだから先にやめちゃったんですけど」
樹里の実家はここから新幹線で数時間かかるところにある。そこに近いということは、純恋も実家を離れて一人暮らしをしているのだろうか。
「あ、すいません。自己紹介がまだでしたね。私は――
雨の音がうるさくて、肝心の苗字が聞き取れなかった。けれど聞き直したところで、この状況では一向に聞こえるようにはならないだろう。マスクをつけていなければ口の形で推測できるし、固有名詞でなければ会話の流れで何を言っているかはわかるが、固有名詞が聞き取れなかったときはもうお手上げだ。音としては聞こえているのに、どうしていつもこうなのだろうか。私の耳はやはり欠陥品なのだ。
「えっと……遥希さんって二年生ですよね?」
「え? あ、はい」
「私も二年生なんです。樹里はひとつ上ですね」
樹里に敬語を使っていなかったら、てっきり樹里と同じ学年だと思っていた。けれど幼馴染なら、敬語を使わない間柄なのも納得だ。
「樹里から聞いてるかもしれないですけど、実は私、大学で合唱団に所属していて――」
「伴奏の話なら、断ろうと思ってます」
希望を持たせてもいいことはない。断るなら早い方がいい。純恋は少し目を伏せた。濡れている左目の睫毛から雫が落ちる。
「樹里が言ってたけど、合唱が嫌いだって」
「そうなんです。だから、他の人を当たってください」
「そうですよね……でも、私はあなたがきっと一番いいんだと思います」
「え?」
純恋とは初めて会って、彼女は私の演奏を聞いたことすらないのだ。それなのになぜそんなことが言えるのだろうか。次の人を見つけるのが面倒なのだろうか。いや、そんな理由ではなさそうだ。純恋の声は深く、瞳の光は真っ直ぐで、その言葉をそのまま受け取りたくなってしまうような魔力がある。
「私は樹里の見立てを信じているから。樹里が最初に挙げたのがあなたなら、きっとあなたが一番いいって樹里は思ってるってこと」
「樹里だって間違うことはあるよ」
どうも樹里は私のことを買い被りすぎている。私の演奏が他の人より秀でているとは思えない。
「それは確かにそうですね。でも伴奏をお願いする段階では、その人の演奏なんて聞いたこともないけど、信じて頼むしかないんです」
「……何にせよ、合唱は嫌いなので、引き受けることはできません」
沈黙が流れる。純恋が明らかにがっかりしているのがわかって気まずい。早く駅に着けばいいのに、と思っていると、純恋がおずおずと口を開いた。