昔は瑞希のピアノが好きだった。瑞希の音は鮮やかで、宝石箱を見ているようで、どうしようもなく惹きつけられた。音楽には努力ではどうにもならない部分がある。99%の努力と1%の霊感という言葉があるが、音楽の場合は95%が努力で5%が才能だと思う。瑞希の音には誰もが惹きつけられる。夢の世界に誘うような豊かな色を持つ音。どれだけ真似しようとしてもそこだけは真似できないのだ。
でも、もう瑞希の真似をするのはやめようと思った。いくらやったって同じ音が出せるはずはない。残酷だけれど、才能の差を埋めるのは難しい。だから今は私ができる精一杯をするしかないのだ。
ピアノの鍵盤に手を乗せる前に、純恋のことを考える。今はコンクールのために練習しているけれど、私のピアノは本当は純恋に聞いてほしい。その声に、天真爛漫な笑顔に、こんなにも恋焦がれているのだと知ってほしい。優雅に泳ぐ金魚の、その尾鰭の鮮やかな赤が目に残るように、私の目にもいつも純恋の姿が残っている。
純恋のことを思い浮かべながら弾く度に、彼女の声が私の音に重なるような気がする。ピアノだけで演奏されるソナタに寄り添うように、美しい声が聞こえた。それに応えるように私の指も歌う。
弾き終えたところでドアが開いた。母が仕事から帰ってきたのだ。ピアノの練習をしていて小言を言われることはないとわかっていても思わず身構えてしまう。
「……やっぱり、瑞希の音とは違うわね」
母の第一声はそれだった。だからいいとか、だから悪いだとかの言葉もない。けれどおそらく後者なのだろうと思った。私の音には瑞希の音のような輝きがない。どれだけ努力してもそれだけは手に入らない。
母はその後夕飯が大体三十分後になると言い残して部屋を出て行った。一人残された私は、磨き上げられた黒いピアノに映り込む自分自身を見詰める。
母が求めているのは瑞希の音。沢山の人の心を揺さぶるのも瑞希の音だ。仮に純恋が出会ったのが瑞希の方が先だったとしたら、純恋は私を選んでくれただろうか。自信を持って私を選んでくれたとは言えない。私も瑞希の音に惹かれた一人だからだ。
だからこそ、結果を残したかった。結果を残して、瑞希と自分の間に差などないと思いたかった。それなのに私の手はその頂には届かない。
「……純恋」
純恋が瑞希ではなく私を選んでくれると確信が持てるなら、それだけでいいのに。それすら私は掴めないままでいる。例えば同時にひいたら。誰かわからない状態で音だけ聴いたら。それでも純恋は私を見つけてくれるだろうか。いや、きっと無理だ。
雫がピアノの上に落ちた。塩水なんてピアノにとっては最悪だな――自嘲的に笑いながら、私は目を閉じた。
わかっている。今は余計なことを考える時ではない。そもそも結果を残さなければ、私は純恋を失ってしまうのだから。