私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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15.呪い(解く)

「どうしたの、そのドレス?」

「樹里さんにもらった」

 それが樹里がお金を出して、純恋が選んだ物だということは言わなかった。樹里は大量に衣装を持っているから、その一つを譲り受けたという体にしておいた方が後々面倒にならずに済むと思ったのだ。

「ふぅん。あの子普通に就職するんだっけ? 気楽なものよね、音楽の道に進まない人は」

 母の言葉に、私は何も言い返せなかった。音楽の道に進まないことは確かだが、気楽とは言えないだろう。一般企業の就活に有利なものは何もないと樹里は言っていた。そんな中でも何でも楽しんでしまう樹里の性質は、私からすると羨ましいものでもある。しかし母から見れば、それは怠慢にしか見えないようだ。

 けれど母に刃向かったところで私が疲れるだけだ。本番前に余計なことで疲れたくない私は母の言葉を流した。しかし母は樹里のドレスのことがどうも気に入らないようだった。

「コンクールだっていうのに派手だし」

 そこまで派手でもないと思う。元々着る予定だった瑞希のドレスと同じくらいだ。それにこれは純恋が選んだものである。文句は言われたくなかった。私は受付時間を確認するふりをしてその話題を終わらせた。

 

 

 落ち着いて臨めば本選は問題ないだろう、と皇先生は太鼓判を押してくれた。だからこそ本番前はできるだけ何も考えない。傍から見ればぼんやりとしているようにしか見えないとしても、この時間は重要なのだ。コンセントレーション――とまで言うと少し仰々しい気もするが、できるだけ心を鎮めるのが私のやり方だ。

 コンクールではその人が誰かということは審査員には知らされず、ただ番号で管理される。舞台袖で二つ前の人の演奏を聞きながら私は目を閉じた。

 

 やがて前の人の演奏も終わり、私の番号が呼ばれる。私はピアノが一台置いてあるだけのステージに足を踏み入れた。ピアノの前で一礼。椅子の位置や高さを調整してから腰掛ける。コンクールによっては弾き始めまでの時間が長すぎると失格になる場合もあるが、今回のコンクールにはそのような規定はない。人によっては弾き始めるまでのルーティンがしっかり決まっていることもあるが、私がやることはただ深呼吸することくらいだ。

 ピアノの鍵盤に指を置く。一曲目はベートーヴェンのピアノソナタ第32番ハ短調の第一楽章。

 どう弾くかはもう体が覚えている。最初は減七度の跳躍下降。腹に響く低音。皇先生はこの序奏の付点のリズムが私に合っていると言っていた。静かなところから響く和音。心臓の音のように響くGの音に重なるAs。不協和音が醸し出す不穏な空気から導かれる主題。第一楽章は転調をしつつもこの不穏な空気のまま進んでいく。

 ベートーヴェンは好きだ。そしてハ短調も好きだ。けれど私はこの曲をちゃんと表現できているかはわからない。作曲家が送った人生に比べれば私の人生なんてぬるま湯のようなものだ。苦悩と言ってもたかが知れている。そもそも苦悩を知っていればそれを表現できるわけでもない。それなら表現力とはなんなのだろうか。持って生まれたものに全てを決められてしまうようなものなのだろうか。そもそも、私の音を求めている人は本当に存在するのだろうか。

 審査員を気にしてはいけないと昔から言われている。けれど審査員の座る姿勢や、鉛筆を走らせる微かな音にさえ気を取られてしまうことがあった。本当は自分の演奏に順位などつけられたくはない。そんなことは関係なく、ただ聞いてほしかった。

 

 ――けれど求められるのはいつも、瑞希の音だ。

 

 皇先生は瑞希の先生でもあった。だから先生がさりげなく瑞希が弾いたことのある曲を避けていることは知っている。樹里も惚れ込んでいるのは瑞希の音であって、私はその妹だから、あるいは樹里自身の妹弟子だから大事にされているに過ぎない。同じ曲を弾いても私の音の方が好きだと言ってくれる人は誰もいなかった。私のことなんて、本当は――この世界には必要ないのかもしれないのだ。

 

 鍵盤を間違いなく叩いているはずなのに、私の音が遠くなる。いつもこうだ。たとえ聞こえなくなっても覚えた曲なら弾くことはできる。でもその音には何の魅力も、価値もない。

 

 

「……っ」

 私は膝の上で両手を握り締めた。あのときと全然違うことに気がついたからだ。合宿のとき、遥希が聞かせてくれたこの曲は本当に素晴らしかった。かっこいい曲だと思った。嵐に足を取られても必死で立っている人のように感じられた。でも今はそれがない。確かに上手いけれど、遥希の実力はこんなものじゃないんだと叫びたくなる出来だ。

 でもここは静寂が支配するホールで、叫ぶことなどもちろん許されない。この思いが届けばいいのに。私がここで聞いているんだと、遥希に伝わればいいのに。

 もどかしく思っているうちに一曲目が終わる。遥希は両手を膝の上に置いて、ゆっくりと息を吐き出していた。どうにかしたいと思っても、この状況ではどうにもできない。ぐっと拳を握りしめた瞬間に、膝の上に置いていた案内のチラシが落ちてしまった。それほど大きな音ではない。けれど静かなホールの中では目立ってしまう。

 

 その音に反応して、遥希が一瞬だけこちらを見た気がした。気のせいかもしれない。けれど何かを伝えるなら今しかない。私は唇だけを動かして言った。

 

「――遥希の音を聴かせて」

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