「――遥希の音を聴かせて」
二曲目に入る前、客席から聞こえた微かな音に気付き、私はそちらを一瞬だけ見た。そこには純恋が座っていて、床に落ちたチラシを取ろうとしていたので私は驚いた。日程も場所も教えていなかったはずなのに、ここまで見にきてくれたのか。
こちらを見た純恋の口が動く。口の動きだけで何を言っているかわかるはずはない。それでも何となく、純恋が言っていることがわかった。
私の音を聴かせて――それは私の願望が生み出したのかもしれない甘い言葉。けれど少なくとも純恋は私のためにここに来てくれた。それだけは確実だ。それなら私は、純恋というただ一人の観客のために弾かなければならない。
二曲目はドビュッシー「版画」より第1曲「塔」――この塔はパゴダ、つまり仏塔を表している。ピアノのための曲だが、ガムラン音楽に影響を受けて作られたと言われている。これを異国情緒と言ってしまうのはどちらかというとヨーロッパ的感性だろう。ガムラン音楽が身近なわけではないが、当時のヨーロッパの人間に比べれば、どちらかというと自分の根底にある日本人的な感性に近いと感じる。
美しい旋律の曲だが、抒情的に歌い上げるものではない。ガムランは打楽器が主体の音楽だ。音色のコントロールが何より重要な曲。けれど今更全神経をそれに集中しなければならないような段階にはない。加減は体が覚えている。このピアノの特徴も一曲目のベートーヴェンで大体掴めている。
思い描いていたのは純恋の姿だけだった。異国の音楽に魅せられた作曲家のように、私は彼女に魅せられていく。美しいと思ったものを絵に残すように、音で表現するように。
これが私の音だと自信を持って言うことはまだできない。でも瑞希に追いつこうとして追いつけなかった偽物の音なんて今は必要ない。私自身の精一杯で、純恋の言葉に応えたい。
結果がどうなるかなんて、今はどうでも良かった。
思えば純恋はずっとそのことを伝え続けてくれていた。結果なんて出せなくても、母に反対されたとしても、もう関係ない。純恋だけが私の音を求めてくれる。私を見つめるそのまっすぐな目が、深い響きを持つ声が、楽しそうに合唱について話すその姿が、私の中に鮮やかな印象として浮かび上がってくる。
それは私が今までにほとんど感じたことがないような幸福な時間だった。ただ純恋のことを考えていただけで、ほかには何も違うところはない。ましてやコンクールの舞台なのに、私は初めてこの曲が終わってほしくないと思った。もっとたくさん伝えたいことがある。私自身の音で、純恋の姿をもっと描きたい。
私の耳に、私自身の音はあまり聞こえなかった。でもきっと、この音は純恋が聴いていてくれるはずだから。
最後の音の余韻が消える。私はゆっくりと椅子から立ち上がり、礼をした。舞台を降りればもうあとは野となれ山となれだ。決めるのは審査員だけれど、私は審査員の言葉よりも真っ先に純恋のところに行って、純恋の言葉を聞きたかった。