私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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17.砂浜の電話(砂浜)

 海が見たくてここまで来たのに、どうして知り合いと電話をしているのだろうか。普通、海を見たいと思うときは現実から離れたいと思うときだろう。海水浴のシーズンが過ぎ去ってしまって閑散とした内海の砂浜を眺めながら、私は純恋の声をイヤホン越しに聞いていた。

「だから遥希の実力だったら、ものすごい体調不良だったとしても本選は余裕なんだって」

 興奮気味の純恋を落ち着けるために、わざと冷静に言う。私も皇先生も、遥希が本選を通過すること自体は疑っていなかった。けれど遥希が本選前の段階でピリピリしていたせいもあって、純恋はそこから心配していたらしい。

「そもそも遥希は多分半分寝てても弾けるし」

 それだけ練習を重ねているのだ。毎朝起きてすぐ弾くというのも、何が起きても弾けるようにという練習だと言っていた。ちなみにその練習法自体は瑞希もやっていたのだが、皇先生によると、瑞希は朝が弱かったから一週間に一度できればいい方だったという。遥希は真面目すぎるのだ。けれど真面目だからこそ揺るぎない実力がある。

「全国大会もあるでしょ? どうなの、遥希は」

 純恋の声を聞いている限り悪い状態ではないようだが、念のために聞いてみる。しかし純恋は私の言葉には答えずに黙り込んでしまった。

「純恋?」

『え……っとね、終わってすぐに、会場の外に呼び出されて……そこで、何というか……』

 すっかり照れてしまってなかなか話してくれない純恋の言葉を簡単に纏めると、遥希は親に見つからないように会場の外で純恋にキスをしたということだった。しかもせっかくバレないように外に連れ出したはずなのに、手を繋いだまま会場に戻ったという。

「一言でまとめるとバカップルだね。末永く爆発しろ」

 こっちは海を見て黄昏に来たというのに、幸せそうで何よりだ。あの二人ならこの砂浜に二人で文字を書いてみたり、二人で走り回ったりしそうだ。そもそも遥希の母親の邪魔が入る前の二人は、夏の猛暑が霞むくらいに燃え上がっていた。何があったかは知らないけれど、元に戻ったと言うことだろう。

「で、イチャイチャしながら戻った後は?」

『そのあとは、それぞれの席に戻って、そっからは話してないんだけど……どっちにしろ全国大会まで日がないからまた会えないみたいだし』

「まああのコンクール、予選からは結構日があるのに、本選からは二週間だからねぇ。しかも違う曲弾くわけだし」

『そうなの?』

「それも教えてなかったのか……」

 むしろ全国大会で遥希が選んだ曲の方が心配だった。一曲目はショパンの練習曲から一曲との指定があるのだが、遥希は作品25の12、いわゆる「大洋」を選んでいた。そして自由曲はバラキレフの「イスラメイ」だ。どちらの曲も当然のごとく超難易度だ。改めて、そんな曲で勝負に出ようとしている人に大学合唱団の伴奏をさせようとする人は正気の沙汰ではない。――私のことだが。

「イスラメイとか、もう作曲家人間エアプかと思うもん。まあ弾けるから先生もその選曲でいいって言ってるんだけどさ」

『改めて考えると、すごい人に伴奏してもらう予定なんだね……』

「改めて考えなくてもすごい人だよ。逆に外で伴奏引き受けても問題ない人なんてのは、私みたいに緩くやってる人間か、大学の中でも上澄みの方かのどっちかだよ」

 私はその熾烈な戦いから身を引いた人間だけれど、遥希は未だにその中にいる。遥希はそのまま演奏家の道を目指すつもりでいるのだろう。でもそれが遥希自身の望みかどうかはわからないし、遥希がこの後どんな道を選ぶかは誰にもわからない。

「ピアノなんて楽しく弾くのが一番だと思うけど、そういう人間ってのはどうしてもドロップアウト組なのよね」

 就活は就活で戦いで、疲れて海を見に来るような人間はその中でやっていけるかどうかもわからない。けれど遥希にはどうか自由に音楽を奏でて欲しいと思うのは――私自身も、瑞希に囚われ続けているからなのかもしれない。

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