本線が終わるとすぐに全国大会の準備だ。一分一秒も惜しんでピアノを弾かなければならない。しかし母は本選のときの私の行動がどうしても気に入らなかったようだった。
「大事なコンクールの場に友達呼んでるだけでもどうかと思うのに、手を繋いで戻って来るなんて」
母は私と純恋が付き合っていることがどうしても納得できないらしい。けれど私たちのことについて母に口を出される筋合いなんてないのだということに気がついた。ただ私が純恋を必要としている。それだけのことなのだ。
「友達じゃなくて恋人だけど」
その一言が更に母を怒らせてしまったらしい。あんな子は私に相応しくないだとか、もっと真面目に音楽をやっている人と付き合いなさいだとか、そもそも恋にうつつを抜かしている暇なんてないだとか。
思えば、母は瑞希に対してもそんな干渉をしていた。瑞希は瑞希でピアノさえあれば何も要らないような性格だったからそれが大きな問題にならなかっただけだ。きっと嫌気がさしたのだろう。所詮ひとつのコンクールとはいえ頂点に立ったというのにすぐに次を求めてくる。音楽の中では瑞希は自由だったけれど、本当は自由ではなかった。何もかもを捨ててでもそれを手に入れたかったのかもしれない。
純恋の音楽は自由だと思う。草原を吹き渡る風のように、気ままで、美しい。私が知らなかった音楽を純恋がくれた。だから私は純恋を選ぶのだ。
「そんなんだからいつまでも瑞希に追いつけないのよ、あなたは」
「別に追いつく必要もない。演奏家になるためにそれが必要だとも思わないから」
「国内ですらトップが取れない人が、やっていけるわけないでしょう⁉︎」
演奏家として活躍できるのは一握りだ。けれどソロリサイタルを開けるほどでなくても音楽で食べていく手段は存在する。純恋を犠牲にしなければトップが取れないのだとしたら、私は音楽の方を捨てるだろう。音楽は自由なものだと、美しいものだと、忘れかけていた本質を教えてくれたのは純恋なのだ。
「私がトップの演奏家になれなかったとして、お母さんにどんな不利益があるの? もう私は成人してるんだし、自分で生活できるくらい稼げればあとは関係ないでしょ?」
結局母は自分の価値を高めるアクセサリーのように私たちを扱っていたのだ。ここまで育ててくれたことには感謝している。母がお金をかけてくれたから大学にも通えているし、全国大会に行けるほどの実力を身につけることができた。けれどそれと人生を縛り付けられるのは話が別だ。
「それに、どうせお母さんは私の音なんて聞いてないでしょ。お母さんが追いかけてきたのは瑞希の影だよ。私は瑞希じゃないのに」
純恋の言葉が私に力をくれる。私の音が聞きたいと言ってくれた人。私はその人のために弾きたい。私に他人の影を見る人のために弾いたところで、私の音は消されてしまうだけだから。
「今までの恩も忘れて……! これまでどれだけお金をかけてきたかわかってるの?」
「じゃあこれからは自由に生きればいいよ。お姉ちゃんのことを追いかけたいならそうすればいい。私のことはもう放っておいて。全国大会も私一人で行くから」
一気に言い切る。母は呆然と私のことを見つめて、何も言えなくなっているようだった。思うがままをぶつけてしまった。けれど後悔はしていなかった。私は私が望むものに手を伸ばしただけだ。もう大人なのだから、そのくらいは許されたっていいだろう。
*
啖呵を切ったものの、部屋に入ってから急に動悸が襲ってきて、うまく呼吸ができなかった。過呼吸になりそうで、思わず純恋に電話をかける。
『どうしたの、遥希』
「ちょっと、色々あって……」
『わかった。じゃあまずはゆっくり息を吐き切って』
「え……?」
急に言われたので面食らってしまう。戸惑う私を安心させるように純恋は続けた。
『とりあえずやってみて。こっちは呼吸を武器にしてる人間だよ?』
確かにそう言えるかもしれない。私は純恋の声を聞きながらゆっくりと息を吐き出した。もう何も残っていないほど吐き出しきって、純恋の合図で力を抜くと、自然に息が入ってくる。
『みんなどうしても吸う方を意識しちゃうんだけど、上手く吐ければ吸う方は体が勝手に吸ってくれるって発声指導の先生が言ってた』
「さすが合唱人だね」
『まあ呼吸に関しては人よりちょっと得意だよ』
純恋の声を聞いているうちに気持ちも落ち着いてくる。これならきっと大丈夫だ。これまで育ててくれて、そして私を縛り続けてきたものから逃れて、一人で歩き始めることができる。
「ねえ、純恋……ついでだしなんか歌ってよ」
『ざっくりしたリクエストだなぁ……じゃあ我が団の愛唱歌を』
つひに自由は彼らのものだ
彼ら空で恋をして
雲を彼らの臥所《ふしど》とする
つひに自由は彼らのものだ
つひに自由は彼らのものだ
太陽を東の壁にかけ
海が夜明けの食堂だ
つひに自由は彼らのものだ
つひに自由は彼らのものだ
太陽を西の窓にかけ
海が日暮れの舞踏室だ
つひに自由は彼らのものだ