「それで一人なのか……」
コンクールの会場には、演奏者の家族が集まっている場合が多い。若年層のコンクールでは親が一緒にいることがほとんどだ。さすがに成人している人もいるような部門では少し減ってはいるものの、たった一人で受付を済ませて待っている私はおそらく珍しい方だった。
皇先生はわざわざ東京まで来てくれたが、母親のように甲斐甲斐しく世話を焼くタイプではない。少し話をして、「精一杯やればいい」と言って客席の方に行った。皇先生のそういうところは嫌いではない。一人残された私は、ホワイエから見える外の景色をぼんやりと眺めて過ごした。
純恋からは私を励ます可愛いスタンプが送られてきていた。泣いても笑ってもこれがこのコンクールの最後だ。瑞希はこのコンクールで優勝した直後にピアノをやめたが、私は――。
自分がこれからどうするかは見つめ直す必要があるが、とりあえずピアノをやめるつもりはない。今回は瑞希のことも結果も関係なく、私の精一杯を出すだけだ。そう思うと舞台に上がるのが少し楽しみだった。それに純恋が選んでくれたこのドレスもある。こんなに心強いことはない。
*
一曲目はショパンのエチュード op.25-12『大洋』。ほとんど最初から最後まで、タイトル通り波のようなアルペジオが続く難曲だ。二曲目への余力を残しつつ、体力を削ってくるこの曲を弾きあげなければならない。
両手のアルペジオが延々と続くだけなのに、美しい旋律が見えてくるのは流石ピアノの詩人と称されるだけはある。ピアノは得意だが他の楽器はあまり得意ではないと言われる作曲家だが、ピアノがこれだけ素晴らしければ充分だろう。誰にだって得意分野と苦手分野はあるのだ。
ピアノは楽器の特性上、旋律を美しく歌うのは苦手とされている。ましてやこれだけ大量のアルペジオの中で旋律を浮かび上がらせるのは至難の業だ。けれどそのための練習なら嫌になる程やってきた。
ハ短調の荒れ狂う波の中に美しい旋律があるのはなぜなのか。それは何を歌っているのか。作曲家の当時の状態からある程度の推測はできる。けれどそれはそれとして、弾くのは私なのだから、大切なのは私が何を思うかだ。思うことは何だっていいのだ。好きな人のことだとか、そもそもこの曲が好きだという気持ちだとか。
今は遠く離れたところにいる純恋にも届くように鍵盤に想いを乗せる。暗い大洋に光が差すハ長調のラストに向かって、止まらずに。
練習曲集のフィナーレに相応しい壮大な結末。最後の音の残響が消え、私はそっと息を吐き出す。やはりかなり体力を消耗する。しかしもう一曲残っている。そしてその曲は『大洋』よりもはるかに厄介だ。
イスラメイとは、カバルディノ地方、アドゥイゲイ地方で行われる民俗舞曲だという。「舞曲が得意な気がする」という皇先生の言葉がきっかけになって選んだ。あるピアニストは「あらゆるピアノ曲の中で一番難しい」と言ったほどの曲。あまりに難しすぎて一部にOssiaとして簡略化された弾き方が提示されている。最初はOssiaを選ばずにいこうとしていたが、皇先生の説得に渋々従う形で一部はそちらを選んだ。けれど今はわかる。先生の選択の方が正しかった。舞曲の推進力を残したり演奏効果を高めるためにはそちらを選んだほうがいい部分が確かにある。
もう結果は気にする必要はないのだ。このコンクールの舞台はここで終わる。順位がどうなったってもう関係ないのだ。
流石の難易度に指がついていけていないのもわかっていた。本番で初めてミスをする場所なんて実は少ない。大体はこれまでの練習で一度はミスをしたことがある場所でミスをする。でも些細なミスに拘泥する必要はない。ノーミスが正義ではないから音楽の世界は難しい。ある程度は点数化されていても、最終的には点数化できないところで決まっていく。
私は今までにない静かな気持ちでピアノを弾いていた。純恋の顔を思い浮かべることもなくただ目の前の音楽だけに集中する。音と私だけの数分間。音と戯れ踊る時間はただただ幸福に溢れていた。
*
審査のための長い自由時間を経て、結果が発表される。私は皇先生と並んで座り、そのときを待っていた。皇先生がその手に何も持っていないことに気付き、私は小声で尋ねた。
「先生って、結果とかメモしないんですか?」
「後でネットに上がるから必要ない」
「あ、そういえばそうか……」
母はいつも結果をメモしていた。その人がどんな演奏をしていたかも記録していて、それが瑞希の強さに繋がっている面もあった。
「自分で結果予想して答え合わせする人もいるけどね。競馬じゃないんだからさ」
「当てたらお金もらえるならみんなやっちゃうかもしれないですね」
「でも競馬なら速さってわかりやすい基準があるけど、音楽でそれをやったら楽しめないと思うけどな」
母は音楽を楽しんでいたのだろうか。多分違うのだろう。自分の子供が栄誉を手にするところを見たかっただけなのではないか。けれど私はもう、母を喜ばせるために何かをするのはやめたのだ。
壇上の審査員長が結果を発表する。淡々と進んでいく結果発表を聞きながら、皇先生が言った。
「昔、合唱のコンクールの伴奏を引き受けたことがあるんだけど、あれの結果発表に比べると静かなもんだな」
「喜んだって一家族が最大くらいですし……」
「あと、合唱やってる人間の集まりって声が響くんだよ。ああ、これが黄色い声か……って思った」
「じゃあ私たちだけでも黄色い声出してみます?」
自信はなかったけれど冗談を言ってみる。しかし皇先生はどこか寂しそうな顔をして笑った。
「いい。それに乗って私だけ喜んで、そのあと生徒にトンズラされたくない」
誰にそれをやられたかはよくわかっている。私はそうですか、と短く答えてステージを見つめた。そろそろ私の番号が呼ばれる。
「12番――銀賞」
私より先に先生が小さく声を上げた。あんなことを言っていたくせにしっかり喜んでしまった先生を見ていると少し可笑しくなった。
銀賞――瑞希は金賞だった。私の精一杯はやっぱり届かなかった。そんなに甘い話はない。それでも私は満足だった。
「そうやって姉妹揃って裏切る……マラソン大会で一緒に走ろうねって言っときながら最後に裏切るタイプか?」
「先生の反応が早すぎるんですよ」
結果発表は淡々と続いていく。けれどこれで私のコンクールは終わった。解放感に包まれながら、名古屋に帰る前にスカイツリーでも見に行こうかなどと私は考えていた。