「そっかぁ……あれならいけると思ったんだけどなぁ。イスラメイのミスが痛いねぇ」
「この前よりいい音だった」
「まあ上には上がいたってだけだね。別にここで二番だったからって演奏家になれないわけではないし。そもそもそっち目指すのかな?」
遥希に気付かれないように会場を出ながら、瑞希はマリアと話していた。前に遥希の演奏を聞いた時から変化を感じてはいた。けれどそれがここまで大きくなることは誰が予想していただろうか。
「まあいいものも見られたし、浅草でも寄って帰る?」
「浅草! 行ってみたいな」
「じゃあ行こうか」
手を繋いで仲睦まじく話している二人だが、背後から聞こえたハイヒールの音に思わず振り返った。
「何でいつも何も言わずにいなくなろうとするんだ」
「……げ」
「げ、じゃないよ、人を見たときの第一声がそれか?」
そこにいたのは皇璋良――瑞希が失踪する前に師事していた、つまるところ最後の先生である。
「遥希は?」
「今トイレに行ってる」
「このまま見逃してくれたり……しない?」
「いなかったことにすることはできるけど。でも、わざわざ来るとは思わなかった」
「あー、それはねぇ……」
本当はしばらくマリアとアメリカでのんびり生活するつもりだった。しかし樹里から届いたメッセージを見て日本に戻ってきたのだ。
「メッセージ?」
「コンクールの日時と場所だけ書いてて、朝顔の写真が添付してあったんだけどさぁ」
皇先生はそれを聞くと額に手を当てた。瑞希が言いたかったことが伝わったらしい。遥希に対してはいい先輩をしているようだが、樹里は実際のところかなり癖のある人物だ。
「朝顔の花言葉って、愛情とか結束とかそういうのもあるけど、絶対そっちじゃないなって……」
愛情、結束、そして「あなたに絡みつく」――。
少なくとも、行かなければ面倒なことになりそうな気はした。
「先生のところは弟子の教育どうなってるんですかねぇ」
「何も言わずに失踪した上に女をこさえてくる人には言われたくないな」
「こさえてって……言い方ぁ」
「で、来てみて理由はわかったのか?」
瑞希は頷いた。遥希の演奏は明らかに変化していた。これまで遥希を押さえつけていたものがなくなって、自由で伸びやかで、生き生きとしていた。
「つまるところ、あいつは人の妹を使って私に復讐しようとしていたわけか」
そのためのカードが手元にあったことも、成功したことも幸運なのだろうけれど、正直してやられたという気持ちの方が強い。
「樹里に何も言わずに出て行った上に他の女と結婚までしてる瑞希が一番悪いと思うが」
「樹里とは連絡取ってたんだけど……それじゃダメだったか……」
「ちゃんと向き合わなかったからだろ。まあ正直上手くいくかどうかも賭けだっただろうけど」
「上手く行っちゃってるんだよなぁ……」
あの純恋という子が持つ力もあるだろう。遥希に変化を与えるためにはこれ以上ないくらいの人選だった。
「新婚家庭を壊しかねないことはやめてくださいって言っといて……あと、負けましたって」
引き止められなかったので、瑞希はそのまま会場を後にした。まさか会うと思わなかった人に会い、どっと疲れてしまった。
「……私が悪いのはわかってるんだけどさぁ」
「何があったの、あの子と?」
「コンクールの前に告られて、終わったら返事するって言って……返事をする前にトンズラしました」
「全面的にミズキが悪くない?」
「マリアまで……」
四面楚歌もいいところだ。自分でも自分が悪いことはわかっている。瑞希は溜息を吐いた。
「せめて、今からでも返事はしておくか……」