子供にとって親は絶対的な存在だ。それを捨てて姿をくらませた瑞希も、自分で親を突き放して歩き出した遥希も、そこから完全に自由になったかと聞かれると、答えは否だろう。自分を育ててくれた人。遺伝子上の繋がりがある人。同じ家で暮らしていた人。断ち切りたいと思っても断ち切れない繋がりがある。だからこそその言葉が呪いになることがあるのだ。良かれと思って言った言葉すらも静かな毒となってしまう。でも人間が完璧でない以上、一度も呪いをかけない親などおそらくは存在しないのだ。
音楽の世界は、親の影響が大きい。少なくともクラシックピアノのように幼少期の教育がものをいうような世界では、親が子供にやらせなければそもそものスタートラインにすら立てないこともある。そして親が子に何かをやらせるときに、一つも期待しないでいられる人なんていないだろう。
毒は薬にもなるという。親が子供に押し付ける毒は、程度がいきすぎてなければ薬にもなるのかもしれない。けれどそんなふうにうまくできる人なんているのだろうか。結局親なんて程度の差こそあれみんな毒親なのではないかという気さえしてくる。
「樹里」
遥希に呼ばれ、私は考えごとを中断して振り返った。
「あれ、パーティーは?」
「いや……そろそろ普通に練習しないといけないでしょ」
「それもそうか。最初は三ステの練習だっけ?」
「だから私がここにいるんですよ」
遥希が伴奏を務めるのは第一ステージだ。第二ステージは団内から伴奏者を出して、第三ステージはアカペラの曲らしい。
「……ケーキのお金、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫、私は一円も出してない」
「そういえばフォルテシモアッシュ、好きって言ってた気がする」
「舌が高級で腹が立つね」
ケーキ選びも瑞希に任せた。試しに遥希がどれを選ぶと思うか尋ねてみたら、ピスタチオのケーキを指していた。当たってしまっているところも何だか腹立たしい。
「そういえば遥希さぁ」
遥希が親の呪いから逃れるために自分の足で歩き始めた今だからこそ、私は言う。遥希が抱えているもうひとつの問題。専門家ではない私の言葉は推測のひとつかもしれないが、確信はある。
「遥希って自分が考えていることが自分の声で頭の中ぐるぐるするタイプじゃない?」
「それが普通じゃないんですか?」
「自分がそうだからって、他人もそうだとは限らないのよ」
少なくとも私は文字で考えるタイプだ。考え事をしているとき、頭の中には何も音がしない。
「ピアノを弾いている時だけじゃなくて、何もせずに考えているだけのときだって、遥希の頭の中では音が鳴ってるんだよね」
そしてそれは時々外の音を消すほどに大きいものになっている。遥希がこちらの呼びかけに答えないときは大体が何か考え事をしているときだ。遥希はただ自分の内側の音の中に没頭しているだけだ。
「……何の話ですか?」
「遥希は自分の内側が音で満ち溢れている。それは――音楽をやる人間としてはすごく羨ましい」
他人の言葉を聞き取るのは苦手かもしれない。演奏に没頭しているとどんな大きな音でもシャットアウトされてしまうかもしれない。でもそれをもって遥希が音楽に向いていないと言うことはできない。
音楽に大切なのは耳だと言われる。だからこそ遥希の親は心配したのだろうし、そういう欠点がなかった瑞希の方により期待を掛けたのかもしれない。それが遥希を蝕む毒になるなどとは思わずに。
「樹里……」
「まあ私の意見なんて素人の戯言だからアレだけど……ピアノをやっていくにあたって、問題になるようなことはないとは思うよ」
私ができるのはこのくらいだ。解毒剤になるかどうかもわからない。けれど言わずにはいられなかった。
これで遥希に伝えたいことは大体伝え終わったから――やっと終わらせることができる。
「樹里……」
「本当はさ、瑞希がいなくなる前に私があのマリアさんみたいになれればよかったし、私が思っていることを全部あの人に伝えられれば良かったんだよな」
遥希の解毒をしたところで瑞希の何かが変わるわけではないけれど、みずきにできなかったことを遥希にすることで私は私の心を満たしていたのだろう。もちろん瑞希に対する嫌がらせの意味も大いにあったけれど。
「ごめんね、遥希。瑞希の妹である以上に遥希は遥希だってわかってたのに」
「別に、樹里に対しては……代わりだと思われてたとは思わないよ。だって、樹里は私と瑞希を比べるようなことは言わなかったし……」
「同じ天秤に乗ってないからね」
「それは確かに比べられないわ」
私がやりたいと思ったことはこれで全てだ。だから私は――しばらくは就活と、新しい恋でも探しながら楽しく生きていこうと思う。