「そういえば遥希はお正月、予定とかあるの?」
「うちは正月でも変わらない生活だからなぁ……」
祝い事のようなものは誕生日以外は何もなかった。誕生日も夕食のときに豪華な物が出て、ケーキを食べるくらいのもの。そんなことに時間を割くよりもピアノを練習しろと言われて育ってきたのだ。私もそうだし、瑞希もそうだ。いや、今から思えば、瑞希はもっと期待をかけられて、より上に行くためにと何時間も練習させられていた。
「嫌気が差しても当然だったなって今なら思えるよ」
「そうだね……」
「私はボーリングも行かせてもらえなかったしなぁ」
「え、ボーリングってダメなの?」
「手を痛める可能性があるでしょ? あとバレーボールとかも……全部アンダーで受ければいいんじゃないかって思ったけど」
「全部アンダーで受けるバレーボール、ちょっと無理があるよ」
高校の近くにはボーリング場があったのに、そこに行ったことは一度もなかった。憧れのようなものはあったけれど、それよりも瑞希を超えなければという気持ちが強かった。そうこうしているうちにそのボーリング場は閉店してしまったらしい。
「純恋は、お正月はどうするの?」
「私は毎年、お母さんの実家の方に行くんだ。お母さんの実家、松江にあるんだけど、お正月に行くと出雲大社が近いから」
「いいなぁ。でも出雲大社って有名だから混みそう」
「いや、熱田とか伊勢の方が断然ヤバいよ?」
純恋の話では、混んでいるに混んでいるけれど、時間を選べはスムーズに参拝できる程度だという。
「そういえば遥希、帆掛け船って知ってる?」
「ううん、知らない」
「いい初夢を見る方法だって言って、お母さんの実家だと毎年やってるの。『なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな』っていう回文を書いた折り紙で船を折って枕の下にそれを敷いて寝るの」
「へぇ……やってみようかな。私あまり夢見が良くないから」
「じゃあ後でちゃんとしたやり方LINEで送るね!」
*
年が明ける前に、純恋とそんなやりとりをしたことを思い出す。ちなみに悪い夢を見たときの対処法も教えてもらった。私は和歌をかきつけた折り紙を丁寧に折り、それを枕の下に入れた。渡し守はいい夢を連れてきてくれるだろうか。調べてみると、これは七福神の宝船を模したもののようだ。七福神とは言わずとも、少しだけいい夢を――出来れば純恋が出てくる夢を見たい。芸術の神だという弁財天が出てくればなおいいかもしれない。
そうして電気を消して眠りにつこうとしたそのとき、深夜だというのに家のインターホンが鳴った。どうせ悪戯だろうと思って私はそのまま寝ることにしたが、ドアの向こうから聞こえてきた母の声に、起き上がらずにはいられなくなった。
「瑞希! どうして……」
「色々あって、しばらく名古屋に滞在することになって。あ、大丈夫。宿はあるから」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
こればかりは母に完全同意だ。しかも何故こんな深夜にやってくるのか。顔が少し赤いところを見ると、お酒でも飲んでいるのだろうか。
「色々考えたんだけど、まあここらでケリをつけとこうと思って」
ああ、もう初夢どころの話ではない。慌てて瑞希を家の中に入れる母と、何を言えばいいかわからない私、騒ぎを聞きつけてのそのそと起きてきた父と、困惑しながら瑞希の後ろでこちらを窺うマリア。正月から瑞希のせいで大事件が発生していた。
*
「そんな矢継ぎ早に質問しないでよ。あれから世界中を放浪しつつピアノ弾いたりしてお金稼いでたら、似たようなことをしていたマリアと出会って、じゃあ一緒にやろうかってなって、何やかんやで結婚して、マリアが名古屋のお店のマスターに二ヶ月間住み込みで店で演奏してくれないかって頼まれたからこっちに来ることにした。説明は以上です」
「そんな説明で納得できるわけないでしょ!? 今までどれだけ探していたか……」
事実を並べ立てるとそうなるだろうけれど、省略している部分が多すぎる。ただしそれを全て説明しようとすれば朝になるくらいのことが起きているのはわかっていた。
「名古屋にいるならそのうちどうせバレるなと思って。だったら自分から行けばいいかなって」
「どうしてそういう方向には思い切りがいいのか……」
私が呟いた言葉に、マリアが頷く。彼女も瑞希には振り回されているのかもしれない。マリアは昔から世界中を旅しながら生活していたというから、瑞希よりも自由だろうに、そんな彼女すら翻弄されてしまっているとは、姉ながら恐ろしいと思う。
「遥希のおかげでもあるんだけど」
「私の?」
「全国大会の演奏、すごくよかった。まあイスラメイのミスは痛かったけど。どうせOssiaを弾きたくなくて元の方を練習してたから、Ossiaの練習が疎かになってたんでしょ」
「うっ……」
図星過ぎて言い返せない。けれど両親はそもそも瑞希が私のコンクールを聞きに来ていたことに驚いていた。私はあのあとの樹里や皇先生の態度から薄々勘付いてはいた。けれど会おうとしなかったということは私には会いたくないのだと思っていたのだが。
「今日は、あなたたちと縁を切りに来ました」
「縁を切るって……瑞希!」
母が慌てる。黙って姿を眩ませた人間が、やっぱり戻りたいと殊勝な態度で来るとも思えなかった。だから私としては瑞希の言葉は予想の範疇だった。そもそも勝手に結婚までしているのだ。もう新しい家族の方に心が向いているだろう。
「あのコンクールの日まで、一生懸命練習してきたし、天才だって言われてチヤホヤされるが嬉しかったときもあった。でも、あの頃はもう息苦しくて仕方なくて……いつまでこんなこと続けてればいいんだって思って、もうピアノなんてやめてやるって思った。私にそう思わせたのは誰なのかわかる?」
「瑞希……」
才能はあった。あのまま続けていればきっと国外のコンクールでも成績を残せるようなピアニストになっただろう。けれどその手前でピアノが嫌いになってしまっていたら意味がない。才能があるからと誰かに弾かされているマリオネットの演奏に何の意味があるのか。瑞希がしたことは自分勝手だと思う。傷ついた人がどれだけいたと思っているのかと問い詰めたい。けれど、瑞希の気持ちも理解できないわけではなかった。
「もうピアノなんて弾きたくなかったけど、それでその日死なない程度の金は手に入るってわかったから、日本を出てからも仕方なく弾いてた。でもマリアは――すごく楽しそうに音楽をやってた。私が失ったものをマリアが全部持ってた」
私が純恋と出会ったように、瑞希はマリアと出会ったのだろう。頂点に登り詰めるためには耐えなければならないことは沢山ある。けれどそのために音楽が嫌いになってしまったら元も子もないだろう。
「だから私はマリアと一緒に、世界中を回って生きていく。――私のことは、もう探さないで欲しい」
「ちょっと瑞希!」
瑞希は一方的に言うと、マリアを連れてそのまま玄関に向かった。話し合っても無駄だと思っているのだろう。正直なところ、私もそう思う。そもそもこれまで二十年近くも続けてきたことを急にやめろと言われて納得できる人は少ない。母が変わるとしても、それにはもう少し時間がかかるだろう。
「待ちなさい、瑞希」
今まで一度も発言しなかった父が瑞希を呼び止める。瑞希は立ち止まったが、頑なに父の方を見ようとはしなかった。
「……今まで、母さんに任せて、瑞希がそんなことを考えていたなんて知らなかった、いや、知ろうとしなかったことは申し訳ないと思ってる。その上で、うちと縁を切りたいと言うなら、それを尊重したい」
「今更いい父親ぶらないでよ。それに……遥希のことだって知ろうとはしなかったでしょ。いつも仕事仕事って……そのおかげで大学にも入れたことはわかってるけど、欲を言えば……ああなる前に大切な物を見つけられた遥希がすごく羨ましいよ」
全てを捨てて、それでようやく自由を手に入れられたのだ。私だって捨てた物はある。けれど、瑞希よりは手前で立ち止まったのだと、その言葉で私は気が付いた。
「何を言われても弁明できないほどのことをした。これでそれが解決できるとは思わないが」
父は引き出しから財布を出した。そして中に入っていた紙幣を全て抜き、瑞希に手渡す。
「本当はピン札で、祝儀袋に入れて渡すものではあるが――」
「別に私はお金が欲しくて来たわけじゃ」
「違うよ。結婚祝いだ。遅くなってしまったけれど、おめでとう。幸せになりなさい」
瑞希はマリアにお金を受け取らせ、そのまま目元を軽く拭いながら家を出て行った。母は魂が抜けたような顔をしている。でもこれで、唐突ではあったけれど、全部終わったのだろうと私は思えた。私はもう瑞希の影を追うことはないし、瑞希も自由に世界中を飛び回り、好きな音楽を奏でられる。遠回りをしたし、全てがすっきり解決したとは言えない。けれどこれが私たちの大団円なのだと思った。
そして物語は大団円を迎えても、人生は続いていく。
今日は初夢どころの話ではないな、と私は小さく息を吐き出した。