私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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28.ロビーコール(方眼)

「緊張するなぁ……」

 練習室に大きな紙を広げ、梨恵が溜息を吐いた。方眼がついたこの大きな紙を、名古屋ではB紙と呼ぶ。全国的には模造紙と呼ぶらしい。

 その紙に今から定期演奏会の題字を書くのだ。梨恵は昔、書道をやっていたというので白羽の矢が立った。墨を用意し、試し書きを何度かしてから本番に挑む。

「まあ四角があるからまだやりやすいんだけどね……」

「大丈夫。失敗しても紙はいっぱいあるから」

 忍が言う。梨恵はそれを聞いて唇を尖らせた。

「一発で成功させたいじゃん……。よし、行くぞ……!」

 梨恵の姿を練習室にいる全員が固唾を呑んで見守る。そして数分後、梨恵は全ての字を完璧に書ききり、息を吐いて額の汗を拭った。

「幸先いいね。この調子だったら定演も大成功間違いなしだ」

「いや、字書いただけだし」

 忍と梨恵がそんなやりとりをしている。そういえばこの二人、意外に馬が合うのかもしれない。でも私が何かを言うことでもないので、そのまま二人のやりとりを微笑ましく眺めておくことにした。

 

 

 着々と定演の準備が進んでいく中、純恋と一緒に行程表を眺めていた私はある文字を見つけて首を傾げた。

「最後のロビーコールって何?」

「あ、そっか……そこはこの前のリハではやらなかったもんねぇ」

 ロビーコールとは、最後に見に来てくれた人たちを見送るためにロビーで演奏することを言うらしい。ピアノは移動できないのでロビーコールは絶対に出来ないから、私にとっては新鮮な文化だった。

「なるほど、身一つでできるっていうのはそういう利点もあるんだな……」

「遥希も出る? 樹里は昨年ちゃっかり混ざってたけど」

 アンコールが終わってそのまま団員と一緒に舞台裏を移動してロビーに向かえば参加自体は不可能ではない。問題はそのロビーコールで演奏される曲を私が知らないことだ。

「一曲は1ステと同じ信長貴富作曲、寺山修司作詩だよ。『ヒスイ』って――前に遥希の前で歌ったことある気がする」

「ああ、あれなら何となく覚えてる」

「あと二曲あるんだけど、どれもそんなに難しくはないから今からでもできると思うよ!」

「……でも暗譜だよね、これ」

 暗譜は得意な方ではあるのだが、本番までもう十日もないのだ。あまり現実的ではない。

「合唱って暗譜が多いの?」

「うーん、団によるかなぁ。一般団とかは楽譜持ってることが多いよ。でも動きをつけたい曲とか、シアターピースとかだと楽譜持てないし……」

 ピアノもコンクールや発表会は暗譜だが、演奏会などでは普通に楽譜を見ている人もいる。とはいえ本番に楽譜を見ている余裕なんて正直ないから、ほぼ暗譜でやっているようなものだ。

「オケとかは暗譜ってあんまり見ない気がする。吹奏楽はどうだっけ……?」

「音は大丈夫なんだけど、詩を覚えるのが正直に未知の領域だから自信がなくて……」

 でも純恋と歌いたいという気持ちもある。それが伝わったのか、純恋が笑った。

「ロビーコールなら多少歌詞間違ってもバレない気がする」

「いやダメでしょそれは……」

「他の人が歌っててくれる利点ではあるよ」

 甘えのようにも聞こえるけれど、これを逃したら純恋と歌う機会は二度とないかもしれないと思った。

「しらかわのロビーで歌うのはこれが最後だね……なくなっちゃうから」

「そっか……」

 やるだけやってみればいいのではないか、と思った。やってみて無理ならやめればいい。一人増えたところで演奏に大きな影響があるとは思えない、というのが私の気持ちを少し軽くしていた。

「そういや遥希ってパートは?」

「大学の授業では一応アルトって」

「そっかぁ……楽しみだな、遥希と一緒に歌えるの」

「そのためには練習しないとだけど」

 私はもらった楽譜を急いで辿り始めた。あと十日――その日を思うと不安と期待が一気に押し寄せてくるようだった。

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