私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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29.思い出すために(名残)

 定期演奏会の日は朝から全員がバタバタしていた。会場の設営から始まり、最後のリハーサルをしてから本番になる。伴奏者である私と団員である純恋はほとんど別行動だ。私は割り当てられた楽屋で一人、リハーサルの時間を待っていた。

 時間があるので、私は少し前に忍からもらった文章を読み返すことにした。これは私しか持っていないものだが、書かれていることのほとんどはこれまでの練習を通じて団員たちには伝えられているものだ。この曲集が表現しようとしているものはなんなのか。そしてそれを踏まえて自分はどんな演奏がしたいのか。つらつらと書かれた文章は長く、彼の思いがこれでもかと詰め込まれていた。

 作詩の寺山修司は名前だけは知っていたが、どんな人かは知らなかった。短歌、俳句、詩、小説、劇作家、劇団主宰――と書ききれないほど多岐に渡り活動し、アングラ演劇や前衛的な作品をいくつも作り上げたが、肝硬変で若くして亡くなった、というのは調べたらわかる事実だ。そしてその作品の中には深い孤独の闇が横たわっていると言われている。

 この『思い出すために』という曲集の中でも、特に一曲目の「かなしみ」にはその色が強い。それを表すように、一曲目は刺々しい音が多用されている。詩の中に描いているものと現実の自分との齟齬。詩が受け入れられるほどにそこから締め出されていく自分。海を見る孤独な青年はその時に何を考えているのか。絶望なのか、諦めなのか、怒りなのか。おそらくその全てが混じり合った言葉にならない感情だ。

 そして二曲目の「てがみ」。孤独な青年は誰に宛てるでもない手紙を海に流す。手紙は海に沈み青く染まり、魚になる――おそらくは誰に届くこともない。海に漂う無数の孤独。拾い上げられないそれを静かに歌い上げる――ちなみにこの曲はアルトが最初にメロディーを取るのだが、普段メロディーを歌うことが少ないアルトの面々にとっては難しかったらしい。特に静かで繊細な表現を求められる箇所だ。その部分を何度も練習していたのを覚えている。

 孤独な青年に少しばかりの変化が起きるのが三曲目。それは夏合宿でも話題になっていた。タイトルの「世界のいちばん遠い土地へ」とは自分自身の心であると言われている。孤独の中に光を見つけるような力強い和音がピアノに現れる。孤独な青年に変化があったのはなぜなのか――その行間を埋めるのは演奏者の解釈に委ねられている。

 不意に楽屋の扉がノックされた。返事をするとドアが開き、純恋が顔を覗かせる。準備はあらかた終わったようで、白のブラウスに黒のロングスカートという合唱団の衣装に着替えていた。

「ちょっと前倒しでリハーサルするからって団長が」

「うん、わかった」

 本番前のリハーサルは衣装で行う。主に本番環境でしか確認できない動きなどを確認するという。本番の舞台に立って練習する時間を取らないコンクールに慣れていた私としては、新鮮な世界だった。何もわからない初めての場所で演奏するときは、ピアノを弾く以外の余計なことも考えてしまう。たった数分でもその舞台に立てることは大きな自信につながるだろう。

「ドレスって一人で着られるの?」

「大丈夫だよ。全国のときも一人で着たし」

「そっか。じゃあ準備できたら舞台袖に集合してって」

 純恋が楽屋を出て行ってから数秒後に鍵を閉め、私はハンガーにかけてあったドレスを手に取った。純恋が選んでくれたドレスに、それに合わせて揃えた靴。もちろん練習時に履いて足に馴染ませている。本番が近付いているこの感覚は好きだけれど、少し寂しさも感じる。音楽は続いていく。けれど今日の本番が終われば一つの区切りが生まれるのだ。

 

 

 リハーサルは順調に終わった。私は他の団員たちが帰ってからも舞台に残り、調律したてのベーゼンドルファーの前に座った。これが弾きたくて選んだものの、まだ慣れていない気がする。普段弾いているものとはやはり違うのだ。でもいいピアノではある。せっかく時間があるのだから、このピアノに慣れておきたいと思ったのだ。

 思い立って、今日伴奏する曲ではなく、コンクールの曲を弾いてみる。ベートーヴェンのピアノソナタ第32番第一楽章。左手で低音を叩く度に体に響く音が心地いい。ベーゼンドルファーのインペリアルモデルは普通のピアノよりも鍵盤数が多いために共鳴する弦の数が変わり、音にも他にはない特徴が出るという。

 夢中になって弾いていた私は、途中で客席に座っている忍を見つけて手を止めた。

「気にせずに弾いてて良かったのに」

「ごめん、何してるのかな、と思って」

「うーん……精神統一?」

 それならかえって邪魔してしまっただろうかと思っていると、忍が舞台に向かって歩いてきた。そのまま腕の力で舞台によじ登る。お世辞にもマナーがいいとは言えない行動だが、わざわざ目くじらを立てるほどでもない。今ホールにいるのは私たち二人だけだから。

「その曲もそうだし、ベートーヴェンなら第九もそうだけど……孤独だったり苦悩があってから、それを昇華するような構成になっている音楽って結構多いよね」

「言われてみれば確かに」

「第九に関しては、合唱は歓喜部分以外出てこない感じあるけど」

 忍は指揮台の上に腰掛けた。指揮者と伴奏者として出会ったからかもしれないが、彼はこの場所にいるのがよく似合うと私は思った。

「『思い出すために』もそういう構成だなって思ったんだ。最初は孤独な青年が、最後には『種子はわが愛』って言うんだ」

 ちなみに作曲家は第六曲の「種子(たね)」だけ別の詩集から持ってきたという。数ある詩の中から選んだ六篇、その並べ方。そこには詩人の意図とは別の意図がある。

「……でも忍くんは、愛は実らなかったんじゃないかって言ってたね」

 詩から曲を分析していたとき、そこで一部の団員たちと忍の解釈は分かれた。彼が描き出した物語は最後まで孤独の影を消さないままで終わる。

「一度は恋人になったんだろうなとは思うけどね。でも、思い出さなきゃいけないってことはもうそこにそれはないってことじゃないかと思って」

「私も多分そうなんじゃないかなって思う。そして……新しい恋をするわけでもなかった」

「それでも、誰かを愛している気持ちは孤独を照らす光になる」

 寺山修司は大学に入ってすぐにネフローゼになり、その後、四十七歳で短い生涯を終えるまで、自身の死を意識せざるを得ない人生を送ったと言われている。その情報が頭にあると、作品全体にうっすらとその匂いが漂っているような気もする。けれど合唱曲として再構成されたものとして受け止めると、詩人の物語とはまた違う物語が浮かび上がってくる。

「誰かを好きになると、少しだけ世界が広がるような気がするね」

「そうだね」

 相槌を打って少し遠くを見る忍の目には、私ではない誰かの姿が映っているような気がした。指揮台から見て、ちょうど真ん中あたり。女声と男声の境目に近い場所。

「……好きな人がいるの?」

「うん。まあ向こうは……僕のことなんて友達くらいにしか思ってないだろうけどね」

「誰かのために演奏するのって、結構楽しいことだよね」

「そうだね。僕は音を出さないけど」

 愛を知った孤独な青年。音楽で描き出された物語の登場人物に忍の姿が重なる。私は彼の過去のことなどほとんど知らないけれど、少なくとも今の彼が誰かを愛していることはわかる。

「……もうすぐ本番だね」

「うん。これで終わりだと思うと名残惜しいよ」

「でも来年は来年で正指揮者になるんでしょ?」

「まあ、その予定だけど……でも、来年は違う曲だし、会場も違うところだからね」

 そうだ。これからも続いていくとわかっていても、本番は今日で、それが終わるとひとつの区切りが生まれる。そのことを少し寂しいと思う。それは多分みんなが同じ気持ちなのだろう。

「――そうだ。もし、永野さんさえよければ、来年もうちの伴奏やってくれないかな」

 忍の言葉に、私は心に決めたことを言うべきかどうか迷った。でもここで適当な返事をすることは許されない気がした。

「来年は……まだ決まってないけど、もしかしたら留学するかもしれないから」

 それはまだ、純恋にも言っていないことだった。なにせ心に決めてからまだそれほど日が経っていないのだ。それに行けるかどうかも決まっていない。けれどもっと広いところに出て、自分の音楽の世界を広げたいと思ったのだ。

「そっか。じゃあ来年はもういっそ『クレーの絵本第二集』でもやろうかな。……っていうと、純恋だったら『あえての第二集!?』って言うだろうな」

「合唱オタクじゃないから、私にはその返しは無理だなぁ」

「あとで純恋にどういう意味か聞くと教えてくれると思うよ。じゃあ僕はそろそろ準備しなきゃいけないから行くよ。永野さんはもう少し練習する?」

「うん」

「じゃあ団長と純恋にはそう言っておくよ。あと三十分で開場だから、それまでには引き上げてね」

 私は下手袖に入っていく忍を見送ってから、再びピアノを見つめた。泣いても笑っても、あと一時間で本番が始まる。

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