駅に着くと、電車がちょうど行ってしまった後だった。次の電車までは十五分ほどある。純恋はベンチに腰掛けて、鞄の中の楽譜を取り出した。
「あーよかった、濡れてない」
パラパラとめくって楽譜を確認する純恋を横目で見る。視界に入った楽譜には、鉛筆で書き込みがされていた。
「……すごいね」
「え?」
「楽譜。書き込み細かいのにすごく綺麗」
楽譜に書き込みをする人は多い。けれど書き込みが多い人の中には、その下にある音符が見えなくなるほどに書き込んでしまう人もいる。けれど純恋の楽譜はあくまで控えめに、音符の邪魔をしないように書き込まれていた。
「字も綺麗だし」
「子供の頃、書道教室に通ってて……初段取ったところでやめちゃったけど」
少し右上がりの整った字。単に字が綺麗なだけかもしれないけれど、どこか音楽に対する慈しみのようなものも感じた。自分のパート以外にもしっかり気を配って書き込みをしているようだ。
「……ピアノのところにも書いてるんだね」
「あ、それは単なる私の思いつきをメモしただけっていうか……こうだったらかっこいいなって。ピアノも昔ちょっとだけ習ってたから、理想だけ高くなっちゃってさ」
イメージだけで伝えようとしているあたりは確かに専門的な知識には乏しいのだろう。けれど私なら、純恋のイメージをどうすれば音に反映できるかわかる。そこまで考えたところで、私は伴奏を引き受けるつもりはないのだと思い出した。
「あ、そうだ。今度うちの団で長野に合宿に行くんだけど、遥希さんも来ませんか?」
「合宿? どうして?」
「えっと……もしかしたら練習を見たら合唱好きになってもらえるかもって。甘い考えかな」
「そんなんで心変わりはしないよ。本番のことを考えるなら、さっさと他の人を探した方がいい。樹里だって協力してくれるはずだし」
「でも、私は遥希さんがいいと思うんです」
「それは樹里が言ったからでしょ?」
そもそも樹里が私を推薦した理由もわからない。楽譜を閉じると、純恋の鉛筆の筆跡はすぐに見えなくなった。
「……電車、そろそろ来るよ」
「あの、遥希さん!」
食い下がったって引き受けるつもりはないのに。純恋は慌てて遥希の袖を引き、鞄の中を探って、一枚のチケットを差し出した。
「樹里が推薦したってのは確かにそうなんだけど、私は遥希さんのピアノで歌いたいです。だからまず……合唱を好きになってほしくて!」
差し出されたチケットには「七夕コンサート」と書かれている。どうやら七夕祭りの一環で、ミニコンサートをやるらしい。
「これ……無料だからチケットとかもなくて入れるんだけど、もし暇だったら」
「今更好きになんてなれないと思うけど」
そう思いながらも、告白でもするかのように必死にチケットを渡そうとしてくるので、思わず受け取ってしまった。チケットを持っているからといって、行かなければならないわけでもない。
「それにその日はコンクールの予選があるから無理」
警笛を鳴らして電車が入線してくる。私は純恋から逃げるように、来た電車に向かって歩き出した。
*
家に帰ると、まず目に飛び込んでくるのは数々のトロフィーや盾、賞状だ。そのほとんどは全て私の姉――
「おかえり、遥希」
「ただいま」
「ご飯できてるわよ」
母が優しく言う。母はいつも遥希が帰る時間に合わせてご飯を作ってくれる。一人暮らしで、全て自分でやらなければならない人に比べたら、明らかに恵まれた環境にある。私はピアノのことだけ考えればいい。そういう風にお膳立てしてもらっている。今日の食事はホワイトシチュー。食卓につくと、すぐに盛り付けられた皿が出てきた。
「コンクールの準備は順調?」
「うん。先生が予選はまず問題ないだろうって」
今度のコンクールは、七夕の日に予選があって、本選は九月、十二月に全国大会がある。姉の瑞希は五年前に同じコンクールで全国一位を獲り、そしてその日を境にピアノをやめてしまった。
「そうよね。遥希は頑張ってるもの。きっと全国で一位も獲れるわ」
無理だよ、とは言えない。けれど遥希がいくら努力しても、上には上がいることを母だって知っているはずだ。瑞希と同じくらい、いやそれ以上に努力をしているはずなのに、今の遥希の演奏は、五年前の瑞希に届いていない。それは母だって気が付いているはずだ。
「まず予選は確実にね。油断すると足元を掬われるから」
「私は目の前の音楽に集中すればいい。そうでしょ?」
いつも言われている。私は音楽のことだけを、自分のことだけを考えればいい。他の余計なことは全部母がやってくれる。瑞希に対してもそうだった。瑞希は自由に、音楽のことだけを考えられる環境と、それを与えられるに相応しい才能を持っていた。それなのに五年前、急にその全てを捨てたのだ。今はどうしているかもわからない。ただ、死んだという連絡だけは来ていない状況だ。
瑞希の楽譜はあまり綺麗ではなかった。純恋とは対照的だ。他人のことなどまるで考えていない、線も何も無視した鉛筆の筆跡。そんな汚れた楽譜は嫌いだ。だから瑞希が残した楽譜はまとめて紐で縛って、倉庫に仕舞い込んでいる。
けれど、楽譜を汚すことは瑞希にとっては大切だったのだろう。それによって、瑞希は楽譜に書かれていることを深く理解していた。よくあるエキセントリックな、基本を無視して暴走する天才ではない。あくまで楽譜には忠実に、けれど、なぜかそれが瑞希自身の音楽に聴こえてしまう。瑞希が作ったのだと言われてもうっかり信じてしまいそうなほど、彼女のものにしてしまう。それが永野瑞希の天才性だった。
「精一杯頑張りましょうね。ママもしっかりサポートするから」
母は献身的だ。けれどその情熱は本来は瑞希に向けられていたもの。私は瑞希の代用品でしかないのだ。母は私のピアノを聴きながら、いつも瑞希の音を思い出している。
私の音なんて、本当は必要ない。誰もが求めてしまうのは瑞希の音。そして私は――永遠に瑞希には追いつけないのだ。