私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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31.ヒスイ(遠くまで)

 第一ステージが終わると、団員たちはすぐに第二ステージの準備に移る。私はアンコールまで出番がないので、第二ステージは客席で見ることにした。さすがに肩を出しているドレス姿では寒いので、上にコートを羽織ってこっそり客席の後ろの方で席を探す。

「あ、遥希じゃん」

 ステージ間の休憩時間を利用してトイレにでも行っていたのか、ハンカチを手に持った樹里が背後から声を掛ける。

「お疲れ、すごい良かったよ」

「ありがとう」

「席探してる? 私あの辺だけど一緒に見ようか?」

 私は頷いて樹里についていくことにした。しかし樹里の席に辿り着く直前に、見覚えのある姿を見つけて私は固まる。

「お、お姉ちゃん……」

「そんな幽霊でも見たような顔しないでくれる? しばらく名古屋にいるって正月に言ったでしょ?」

「それは確かにそうなんだけど……」

 通路で話しているのは邪魔だと気付いた私は、仕方なく樹里と瑞希の間に座った。瑞希の逆隣に座っているマリアはプログラムを真剣な顔で見ている。

「マリア、日本語喋るのは上手だけど、読むのはあまり得意じゃないんだよね」

 瑞希はマリアが悩んでいるらしい漢字の読み方を教える。瑞希曰く、マリアは第三ステージの『マリア・オリエンタリス』という曲が気になっているようだ。

「――正直、学生の演奏だしなって舐めてたところはあるんだけど……すごく良かったよ」

「瑞希……」

「遥希の音も、コンクールのときよりも更に良くなってた。歌との相乗効果もあるのかな」

「……多分」

「あの人も聞きに来れば良かったのに。遥希のアレを聞かなかったのは人生の二割くらい損してるよ」

「たった二割?」

「人生は長いからねぇ」

 こんな風な会話をするのは何年ぶりだろうか。お互いの顔をしっかりと見られるまでには至っていないけれど、今はそれでいいと私は思った。

 

 

 第二ステージが終わると、私は再び控室に戻った。第三ステージは舞台袖で聴くことになる。本番中の団員と話すような暇はほとんどなく、私は慌ただしく動く純恋を遠目に眺め、最後のステージに出て行く後ろ姿を見送った。

 千原英喜の『マリア・オリエンタリス』は全編アカペラの難曲である。第一ステージが演奏効果の高い派手な曲なので、第三ステージは一体どうなるのだろうかと思っていたが、こちらはこちらで重厚な演奏だった。作曲家はおらしょなどの隠れキリシタンにまつわる曲も作っていて、賛美歌と東洋の音楽が融合したような独特の世界を描いている。マリアのことはまだそれほど知っているわけではないが、確かに彼女が気に入りそうな曲だと思った。各地を放浪しながら様々な音楽に触れてきた彼女。瑞希と結婚したということは、私は彼女にとっては義妹にあたるということか。そのあたりは正直どうだっていいけれど、一度マリアとも音楽の話をしてみたいと私は思った。

 第三ステージが終わり、アンコールのために私が舞台に呼び込まれる。アンコールは第三ステージと同じ千原英喜作曲の『良寛相聞』より「手まり」。手まり遊びをする子供たちとの穏やかな情景が描かれる曲だ。純恋曰く合唱好きの間でも人気の高い曲だという。

 

 大きな拍手に包まれながら定期演奏会の全ての曲が終了した。しかしこの後は例のロビーコールが待っている。急遽出ることに決まったロビーコールのために、団員たちと一緒になって私はロビーに向かった。

「あ、遥希!」

 その途中で純恋が私に声を掛ける。ロビーコールは舞台上での並びをあまり気にしないということだったので、純恋は私の隣で歌うと宣言していた。

「これ、私の上着だけど使って。ロビーめっちゃ寒いよ?」

 ドレスは肩を出しているので、暖房が効いているホール内ならまだいいが、外気が入り込むロビーでは確かに寒い。ロビーコールで歌う曲のことで頭がいっぱいで、上着をもってくるという発想に至っていなかったのだ。

「そういえば言うの忘れた、と思って……私たちでも寒いから、そんな格好してたら余計寒いよね?」

「うん。良かったよ、名古屋の町中で凍死せずに済んだ」

 冗談を言い合いながら急いで辿り着いたロビーには、既にロビーコールがあることを知っている人たちが集まり始めていた。

 客席の人が十分はけていることを表方のスタッフに確認してから、正指揮者が前に出て礼をする。歌うのは三曲。正指揮者が振る北川昇作曲の『かなうた第一集』から「なみだ」、来年の副指揮者が振る「ジェリコの戦い」、そして今年の副指揮者――つまり来年の正指揮者である忍が振る信長貴富作曲、無伴奏混声合唱のための『カウボーイ・ポップ』より「ヒスイ」。詩は第一ステージと同じ寺山修司の作品だ。

「ロビコは楽しんだもの勝ちだからね、遥希」

「うん」

 正直、歌詞があやふやなままのところもあるが、純恋が歌いながらサポートしてくれるので二曲目まではどうにか乗り切ることが出来た。指揮者が入れ替わっているその時間に、純恋が私の手を引いて少し前に出る。

「ヒスイ、私前に出なきゃいけないの忘れてた」

「え、私も一緒なの……?」

「だってどうせなら遥希の隣で歌いたいし」

 自信がないから正直後ろにいたかったのだが、純恋が前に出なければならない理由もわかっているので、私はそれに従うことにした。私たちのやりとりを見ていた忍が目で「そろそろいい?」と言っているように見える。私は少し照れながら頷いた。

 忍が胸ポケットからピッチパイプを出して最初の音を示す。ピアノと歌は呼吸の使い方が違う。まだ感覚には慣れないが、声を出した瞬間に周りの音に私の音が混ざり合っていく感覚は決して悪いものではない。

 私の音は確かにこの中ではわからなくなってしまう。けれど混ざり合うことで何倍もの力を得ることもある。1足す1は2という単純な計算では測ることができないものが音と音の間にある。

 

  なみだを遠い草原に

  ヒスイをきみのてのひらに

 

   過ぎ去った夏に

   そう歌った石よ

   それはまばゆいばかりの緑

   小さな大自然

 

  なみだを遠い草原に

  ヒスイをきみのてのひらに

 

   だがヒスイは買うにはあまりにも

   高価すぎて

   ぼくはあまりにも

   貧しかった

 

   だからこそ僕は歌ったのだ

   せめて言葉の宝石で

   二人の一日を

   かざるために

 

  なみだを遠い草原に

  ヒスイをきみのてのひらに

 

 ソプラノの純恋とアルトの私が歌う別々の旋律が重なり合ったり時折離れたり絡み合ったりして音楽を作り出す。純恋が嬉しそうに目を細めるから、私も楽しくなった。

 そしてこの曲の中盤にはソプラノのソロがある。そのフレーズが始まる一小節前に純恋が一歩前に出た。

 曲の冒頭とほとんど同じ旋律を繰り返す合唱の上に、純恋の歌が乗る。伸びやかな声は高い天井に昇っていき、どこまでも遠くまで響いていきそうに思えた。

 草原を渡る純恋の声。別の音を鳴らす私の喉も震えている。目の前にも、横にもたくさんの人がいるのに、その瞬間だけ、私たちは世界に二人だけになっていた。

 

「合唱部に好きな人ができて、その人と声を重ねることが何より楽しかった。自分の声とその人の声が和音を作った瞬間は、話しかけられたとか優しくされたとかよりも嬉しかった。そのとき、私の声も聞こえたの。あの人の声と和音を作ったのは、紛れもなく私の声だってわかったの」

 

 以前、純恋がそう言っていたことを思い出す。それがどういうことなのか、私は今身をもって実感していた。一緒に音を重ねる喜びは、他の何にも代え難い。願わくば、このときが終わらないで欲しいと私は願っていた。

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