私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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7.七夕の願い(天の川)

 七夕コンサートの当日。私たちは朝から会場設営の仕事に駆り出されていた。大学合唱団というのは、定期演奏会でも、今回のようなミニコンサートでも、基本的に会場設営から自分達でやらなければならない。

「来てくれるかなぁ……」

「この前言ってた伴奏者候補? いや今日は無理でしょ……」

 会場に笹を飾りつけながら呟くと、同期の新見(にいみ)梨恵(りえ)が応えた。私は手を止めて梨恵を見る。

「何で無理ってわかるの?」

「今日予選のコンクールって、結構有名なやつだよ? その予選の日にわざわざ来てくれる人なんていないって。コンクール終わった後でも疲れてるだろうし」

「そんなすごいやつなの?」

「そのコンクールで入賞した人が次に国際コンクールで入賞したりとかね。登竜門的なやつなのよ」

「詳しいんだね」

「この前読んだ漫画に書いてあった」

 そういえば、梨恵は最近ドラマ化されたピアニストの卵が出てくる漫画にハマっていた。ドラマのキャストのファンで、ドラマが決まってから読み始めたらしいが、今はすっかり原作ファンにもなっている。

「あーリュウ様にもあのシーンやってほしいけど、ドラマはそこまでいかないんだろうなぁ」

 梨恵のリュウ様の話はそれなりに聞き流しながら、私は再び飾り付けの作業に戻った。遥希は来てくれないだろう。それでも、もし仮に来てくれたなら――。

 何をムキになっているのだろうか、と自分でも思う。でも私は遥希の考えを変えたいのだ。合唱が嫌いだと遥希は言っていた。でも自分の好きなものをそんな風に否定されたら誰だって悔しく思うだろう。好みの問題だと言ってしまえばそれまでだけれど。

「さてと……あとは短冊か」

 梨恵が短冊が入った箱を開けながら言う。合唱団の団員たちが書いた短冊は、彼女が欲しいだの、お金が欲しいだの、夢のない言葉も多くある。ちなみに梨恵は「リュウ様が健康でありますように」と書いていた。でも短冊に書く願い事は、本当は芸事の上達を願うものらしい。

「そういえば、純恋は何て書いたの?」

「定期演奏会が成功しますようにって」

「真面目か」

「だって芸事の上達を願うものって言われたから……」

 遥希だったら何と書くのだろうか。ピアノの上達を願うのだろうか。それとも願いは別のところにあるのだろうか。短冊を飾り終わり、完成したステージを眺めながら私は思った。ステージの背景には天の川の絵が描かれている。

「合唱を、好きになってほしいな……」

「また遥希さんの話? もう恋する乙女みたいになってるよ?」

「恋って……でも、何となく気になる人なんだよね」

 演奏を聞いてみたいとも思っている。樹里にはそれを言ったけれど、「絶対に生で聞いたほうがいい」と言われ、遥希の演奏が収録されているというDVDは貸してくれなかった。

「でもさ、合唱が嫌いだって人にどんなにいい演奏を聞かせたとしても心変わりはしないでしょ。しかも向こうめちゃくちゃ耳肥えてるだろうし。こっちはこっちで素人集団だし」

「気合だけじゃどうにもならないよね……」

 思いを込めた演奏は必ず届くなんて、甘いことを言うつもりはない。これまで曲がりなりにも合唱をやってきて、人に何かを届けるには技術が必要だということも理解している。音大に通う遥希の耳に適うような技術が自分たちにあるとはとても言えない。

「純恋、梨恵、飾り付け終わったー? 十分くらい休憩したらリハ始めたいんだけど」

 副指揮者の遠藤(えんどう)(しのぶ)が言う。今回のコンサートは彼の指揮者としての初舞台でもある。既に緊張した面持ちだ。そんな彼の姿を正指揮者の御影(みかげ)玲子(れいこ)が温かい目で見守っている。毎年、初舞台である七夕コンサートまでにひと悶着あるのだが、今年はすこぶる順調に事が運んでいた。

「今終わったよ、飾り付け」

「じゃあ十分後に集合して、そこからリハーサルするので、よろしくお願いします」

 忍の言葉で、各々の作業をしていた団員たちが動き出す。この休憩中に水分補給をしたり用を足したりしておく必要がある。私は梨恵と一緒に飲み物が入った鞄が置いてある控室に向かった。

 

 

 舞台袖で、私は楽譜の間に挟んでいた七夕コンサートのチケットを見つめていた。今更楽譜を見返さなくても、目を閉じれば楽譜が目に浮かぶほどに練習はした。ただ気持ちを落ち着けるために開いていた楽譜の間からそれが出てきて、私は今日がその日であることを思い出したのだった。

 予選が終わる時間は十五時。今いる場所からコンサートの会場である久屋大通公園までは、どれだけ多く見積もっても三十分あれば到着する。コンサート開始時間は十六時。行くことは可能だ。けれど予選が終わってから、わざわざ嫌いな合唱を聞きに行く気分にもなれない。

 コンクールの予選があるのは本当のことなのだから、断ってもいいはずだ。そもそもあの日以来連絡もとっていない。それなのにどうしてこんなに気になってしまうのだろうか。

 拍手の音が遠くに聞こえる。私の順番は次の次だ。そろそろ準備しなければならない。今は目の前の演奏に集中することだ。私は再び楽譜にチケットを挟み込み、鞄の中にそれをしまった。

 

 私の番号が呼ばれる。暗がりの舞台袖から煌々と明かりに照らされた舞台へ。一礼をしてから椅子の高さを自分のものに合わせて、浅めに腰掛ける。目を閉じて、私は夕暮れの練習室を思い出していた。影の私はピアニスト。理想の姿を思い描いて、そのまま指を鍵盤に置く。

 せめて本番くらいは、何も考えずに、私の理想を奏でたい。メンデルスゾーンの「ロンド・カプリチオーソ」。課題曲は奇しくも姉の瑞希がこのコンクールで優勝したときと同じものだった。あのときは本選の課題曲。今回は予選の曲という違いはあるけれど。

 ピアニシモで始まる序奏部分は鍵盤から指を離さずに。小さな音の方が制御は難しい。瑞希ならば最初の一音で聴衆を惹き付けてしまうだろう。静から始まる曲は、どこか諧謔的な動の部分へと変化する。その対比を聴かせるためには静の部分こそ大切だ。そこで注意を弾いておいて、一気に世界を変える。

 けれど途中で失敗したと思ってしまった。演奏自体にミスはない。おそらく予選は余裕で通過できるレベルだ。けれど足りない。瑞希なら、自分の音以外の全ての音を許さないような、そんな演奏が出来たはずだ。会場の空気は張り詰めているようでどこか弛緩している。私の演奏では、その空気まで変えることは出来ないのだ。

 そういえば、今日は七夕だったか。七夕の願い事は芸事の上達を願うものだと教えられた。だから私はずっと、姉のような演奏がしたいと願ってきた。でももう気がついてしまった。私は永遠に瑞希を越えられない。圧倒的な差がある。技術だけでは補いきれない差。意気消沈しながらも、私の指は何事もなかったかのように演奏を続ける。

 天の川は深すぎて、私の織姫と彦星はいつまで経っても渡れないでいるのだろう。幼い頃からの願い事は叶わないまま。私の音は誰にも届かないまま。

 演奏を終えて、再び一礼をする。客席に座っている両親は満足げな顔をしていた。けれど私の演奏では足りないのだと、私が一番わかっている。私では瑞希には届かない。――母の望みを、叶えることは出来ない。

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