私の音が聞こえない   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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8.緑を渡る声(さらさら)

 予選の結果は予想通りだった。通過できないということは誰も考えてはいなかった。問題は次の本選と、その先に待つ全国大会だ。

「この分だと、本選も大丈夫そうね」

 母が微笑みながら言う。本当にそう思っているのかどうかはわからない。瑞希の演奏を知っているなら、私がその水準に達していないことは理解しているだろう。

 ひとつのミスもなく弾ききっても、瑞希には勝てない。あの抗い難い音の魅力。純恋の声にも似ている。同じ楽器を使っているはずなのに、たった一音でその場を支配できるほどの引力。瑞希の音以外の全ての雑音は許されない。息を呑んで聞き入るしかない。

 

 「なんという不思議だろうこの石化は? 今なら、あの白い手がたとえあの上で殺人を演じても、誰一人叫び出そうとはしないだろう」

 

 瑞希の演奏のことを考えるたび、私は昔読んだ短編小説の一節を思い出す。その一節が瑞希ほど似合う人はいなかった。聴衆の呼吸すら止めてしまうような演奏。姉の弾き方をどれだけ真似ても、私には到達できない領域なのだ。

「遥希」

 車に乗り込んだ私に、助手席に座った母が声をかける。

「今日は外食しましょうか。何か食べたいものある?」

「特にはないんだけど……」

 食欲があるはずもない。自分の未熟さを突きつけられたのだ。母は少し考えてから、運転席に座る父に言った。

「とりあえず栄行って、そこから考えればいいかしらね」

「わかった」

 栄――ぼんやりとカーステレオの時間を見ると、まだ十五時半にもなっていなかった。今からなら、純恋のコンサートにも間に合う。

「ちょっと行きたいところがあるんだけど」

 

 

 どうして急に行く気になったのか、自分でもわからなかった。たまたま近くに行く用事が出来たからなのか。私は自分の心に説明がつかないまま、両親とは別行動を取ることにして、七夕コンサートの会場に向かった。

 仮設のステージを飾り付けただけの舞台は、コンサートホールのステージに比べれば随分と貧相だ。十六時ではまだ明るすぎて、背景の天の川に仕込まれた小さなライトも意味を成していない。何もかもが手作りの世界は、これまで私が経ったことのあるどんな舞台とも違っていた。

 用意された座席の一番後ろに座って、演奏が始まるのを待つ。配られたプログラムによると、歌う曲は三曲らしい。三曲歌うためだけに舞台まで自力で組むのは、果たして労力に見合っているのだろうか。ぼんやりと考えているうちに、合唱団の入場が始まった。

 オーケストラであればここでチューニングが始まるが、合唱の場合はそれがない。今回は全てアカペラの曲らしいが、音はどうやって取るのだろうか。そもそも野外で合唱なんて、どう考えても横を通る車の音でかき消されてしまうだろう。バンドの演奏のようにマイクを使えるわけでもない。

 指揮者の男子学生が舞台に出てくる。緊張した面持ちで、手に力が入りすぎている。コンクールであんな顔をしている人がいたら、まずろくな演奏にはならないが――。私の思考を遮るように、指揮者が胸ポケットから円形の笛を出した。最初の音を示すための笛のようなもののようだ。

 最初は「たなばたさま」だ。三曲中二曲は今日のために用意した七夕用の曲なのだろう。合唱団の演奏は可もなく不可もなく。ここでコンサートが出来るほどの実力はあるようだが、かといって強く惹かれるものはない。私はここに来たことを既に後悔し始めていた。

 けれどソプラノの一番端で歌う純恋は本当に楽しそうな表情をしていた。音がひとつになったり分かれて重なったりする度に目が輝く。純恋の声は、一体になった音の中では聞き取るのは困難なのに、そんなことは気にしていないようだった。

 二番目の曲は「星めぐりの歌」だった。宮沢賢治は作曲もするのだということを渡されたプログラムで私は初めて知った。歌の最中に団員が持っている小さなライトが灯され、星空を演出していた。もっと時間が遅ければ、あるいはホールのような暗闇を作り出せる舞台であれば、この演出ももっと映えるだろう。工夫には満ちているが一歩及ばない。それが全体的な印象だった。そもそもこんな開けた場所で合唱するのが間違っている。周囲の音がうるさすぎて、肝心の音は濁り、掻き消されてしまう。

 何よりも私は、雑音だらけの場所で音楽を聴くのが何より苦手だった。私の役立たずの耳は、こういうときに大切な音を聞き取ってくれない。

(退席してもいいけれど、あと一曲か――)

 それなら最後までいようと思い、私はそのまま座っていた。指揮者の男がマイクを持って挨拶を始める。当たり障りのない挨拶の後で、最後の曲の紹介が始まった。

「最後の曲は、星はあまり関係ないんですけど――最初に歌った『たなばたさま』で『笹の葉さらさら』という歌詞がありますよね。子供の頃、僕は『何でさらさらなんだろう』って思っていて」

 さらさらといえば川が流れる様だったり、淀みない筆致や櫛通りのよい髪の毛のことを表している印象がある。それから考えると、確かに笹の葉がさらさらというのは不思議な感じだ。

「『たなばたさま』を歌うときに改めて『さらさら』を調べてみたら、物と物が軽く触れ合う様も表すそうです。そこから僕の思うさらさらっぽい曲を考えてみました」

 風が吹いて、舞台の両端に飾られた笹が音を立てる。この音が「さらさら」なのだろう。笹の葉と葉が触れ合う音。それに似たものと言えば木々の梢の音。あるいは、風が吹き渡る草原の音。

「是非、広い草原をイメージして聞いてみてください」

 指揮者がマイクを置き、合唱団に向かって合図をする。最初の音が示され、空気が張り詰めた。

(この前純恋が歌ってた曲……)

 信長貴富作曲、寺山修司作詩「無伴奏混声合唱のための『カウボーイ・ポップ』」より「ヒスイ」。ぶつかった音から広がっていく和音が、広い空間をイメージさせる。

 

 なみだを遠い草原に

 ヒスイをきみのてのひらに

 

  過ぎ去った夏に

  そう歌った石よ

  それはまばゆいばかりの緑

  小さな大自然

 

 詩の情景が素直に浮かんでくる曲だ。灼熱の名古屋の夏には似合わないけれど、体験したこともないのにどこか懐かしい夏の空気を感じる。夏の終わりの、秋の切なさが少しだけ混ざった風。けれど蝉の声が夏の名残となっている。もっと響きの良い場所で聴けたらいいのに。ここではどうしても音が混ざってしまう。

 

  だがヒスイは買うにはあまりにも

  高価すぎて

  ぼくはあまりにも

  貧しかった

 

  だからこそ僕は歌ったのだ

  せめて言葉の宝石で

  二人の一日を

  飾るために

 

 なみだを遠い草原に

 ヒスイをきみのてのひらに

 

 何度か繰り返される最初のフレーズ。けれど曲のクライマックスが近付くと、そこに新しい音が加わった。ソプラノのソロパート。それを歌っているのは純恋だった。マイクを通さずに歌うには最悪の環境で、しかしその声が合唱から浮かび上がった瞬間に、私の肌を風が撫でていった。草原を渡る風のような、青々とした空気の流れ。雑音は遠くへ消え去り、私の体は草原に放り出される。

 純恋は自分の才能に気が付いているのだろうか。自分の音だけでここまで空気を変えられる人は少ない。瑞希にはあって私にはなかった力が、純恋の中には確かに存在していた。それなのに普段は合唱の中に己の声を埋没させることを是としている。やはり勿体ない。彼女は彼女の音だけで歌うべきだ。

 ソロパートが終わり、転調と共に曲が終わりへと向かっていく。純恋の歌に導かれたような鮮やかな転調。そして純恋の声は再び合唱に溶け合って姿を消す。

 歌が終わり、指揮者が礼をしてコンサートは終わった。アンコールは特にないようだ。おそらく公園で行われている他のイベントとの時間の兼ね合いだろう。客席に座っていた人たちが動き出し、あたりはざわめきに包まれた。私は母に連絡して合流しようと立ち上がる。

「――さん!」

 携帯電話を見ていないのか、なかなか電話が通じない。

「――さんってば!」

 呼び出し画面をじっと見つめてみるが、画面に変化は起きない。母が駄目なら父に電話するか。終話ボタンを押したそのとき、後ろから肩を叩かれ、私は飛び上がるほど驚いてしまった。

「あ、純恋さん……全然気付かなかった」

「何度も呼んだのに。まあでもここうるさいもんね。こんなところで歌うのかって最初びっくりしちゃったよ。ソロとかもう聞こえないんじゃないかって」

「ちゃんと聞こえてたよ。すごくよかった」

「本当?」

 花が開いたような笑顔。けれど私は合唱を評価したわけではない。あくまで純恋の歌を評価しているのだ。

「私は、やっぱり合唱は嫌い」

「そっか……みんな結構良かったと思うんだけど」

「一人であれだけ出来るのに、勿体ないよ」

「ソロパートは一人で歌ってるわけじゃないんだよ」

 思いの外真剣な声で、純恋が言う。私の言葉を必死に否定しようとしているように見えた。どうして彼女は合唱に拘るのだろう。私がどうしても手に入れられなかったものを持っているのに。その場の空気を自分のものに出来るほどの音を奏でられるのに。

「みんながいるから、私はあそこで一人で歌っても大丈夫なんだよ。ソロがあったって、合唱は基本、相互作用なんだから」

 私にはやはり理解できないと思った。ピアノは基本的に一人で弾くものだ。己の音を限りなく追求しなければならない。自分の音が聞こえなくなる合唱は、どうしても好きになれそうにない。

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