「あっつ……」
エアコンの効いた部室にいてさえ暑い。外を歩いてきた汗が引かず、私は団扇で火照った顔を扇いでいた。そこにハンディ扇風機を片手に梨恵が話しかけてくる。
「純恋って結構暑がりだよね」
「もう今から合宿行きたいもん」
「でも今年は向こうも暑そうじゃない?」
「名古屋よりマシだって……」
私の所属する合唱団は、毎年夏休み中に長野県の志賀高原で合宿をする。高原だけあって、朝方は寒いと感じるくらい涼しいところだが、今年は異常なくらい暑く、避暑になるかどうかわからないという話を聞いた。それでも名古屋市内のサウナもかくやという気温と湿度に比べれば余程ましだろう。
扇いでいるうちに、汗も少しずつ引いてきた。今日の練習はあと十五分ほどで始まる。梨恵はハンディ扇風機をしまい、スマホを触りながら言った。
「そーいやさ、ピアノって結局樹里さんになったの?」
「ひとまず樹里で仮決定ってことになったの」
あくまで仮だから、と樹里はやたら強調していた。けれど私はこのまま樹里が伴奏者になるだろうと思っている。樹里は――何故かはわからないが、どうしても遥希にやらせたいようだが。
「まあ合唱嫌いな人にやらせるなんて無茶だったよね」
「うん……」
「何? なんか落ち込んでる?」
「んー……いや、この前の七夕コンサート、遥希さん来てくれたんだけどさ……」
一人であれだけできるのに、勿体ない。遥希の言葉が魚の小骨のように引っかかっている。私は一人で歌うことはできない。みんながいるからソロパートも歌えるだけで、一人で舞台に立つのはとてもじゃないが無理だ。けれど遥希はそうは思わなかったらしい。
「純恋がめちゃくちゃ上手いってのは間違いないよ。もうちょっと自信持っていいって」
「でも、一人で歌いたいわけじゃないんだよ」
」
人と声が重なる瞬間に喜びを感じる。それは一人では絶対にできないことだ。
「純恋の気持ちもわかるけどさ、でも一人でできる方がすごいって風潮も確かにあるよね。大人数のアイドルより一人で歌うシンガーソングライターの方が実力があるとか言われがちだし」
「一人だと誤魔化しはきかないのはわかるんだけど……でも一人で四声出せるわけじゃないし」
「ホーミーでも四声は無理だね」
一人では決して完成しない音楽。だから私は合唱が好きだ。けれど遥希は私とは真逆のことを考えているのだろう。
「嫌いなら嫌いでしょうがないとは思うんだけど、樹里がやけにあの人にこだわってるのも気になるんだよね」
樹里は基本的に自由人で、他人のことにはあまり構わない性格だ。それなのに、遥希に合唱の伴奏をやらせることにはやたらこだわっている。だから樹里は「あくまで仮」の伴奏者なのだ。遥希を説得するまでの時間稼ぎ。けれど樹里の説得がうまくいくとは思えなかった。少し話しただけだが、とりつく島がなかった。
「樹里は遥希のためにもやった方がいいって言うんだけど、それがどういう意味かはわからないんだよね」
「そもそも私は二人がどんな人か知らんからなぁ」
樹里がこだわるには理由があるのだろう。そう推測できる程度には樹里のことを知っている。けれど遥希のことは何も知らないに等しいのだ。
「……もう少し、知りたいんだけどなぁ」
「じゃあ合宿でも誘う? 別に金さえ払ってくれれば一人くらい増えても大丈夫でしょ。樹里さんも来るんでしょ?」
「あ、樹里は今年は就活で無理って」
「それなら代理ってことにすればなんとかならないかな?」
「でも来てくれないでしょ……」
駄目元で樹里に相談するのは悪くないかもしれない。でも望みは薄い。遥希の合唱嫌いがある限り、これ以上関わることは難しいだろう。
*
少し力を抜けばいいのに。遥希の演奏を聴く度にそう思う。そうしたらもっと良くなるはずなのだ。けれど遥希がそうできない理由も理解はできる。
「……って状況なんですよ」
「それを私に相談されてもなぁ」
「いや、先生は遥希の先生でもあるじゃないですか」
「やけに気にかけるんだな、遥希のこと」
「瑞希さんのファンとしては、どうしても」
遥希の姉である瑞希とは、昔コンクールで偶然会ってから、時々連絡を取り合っていた。瑞希がいなくなってからは全く連絡を取っていないけれど。
「先生は瑞希さんのこともよく知ってるんでしょ?」
「私が教えていた時期は短かったけどな。私の手に負える人間ではなかった」
「残酷ですけど、才能の差ってのはありますよね」
皇先生は神妙な面持ちで頷き、棚の上にあった団扇を手に取った。部屋は冷房がしっかり効いているが、弾いているうちに少し汗ばんでしまうこともある。私も団扇持って来ればよかった、と樹里は手で首筋辺りを軽く扇いだ。
「私の大学時代の友達に、声楽をやってた人がいるんだが、彼女はあるとき、オペラで主役の代役をつとめたんだ。彼女の演奏はかなり高く評価された。けれど元々主役をやる予定だった人が、千秋楽のひとつ前の公演だけは出ることになった」
千秋楽でなかったのは、それまでの長い公演をこなしてきた代役の彼女に対する敬意だったのかもしれない。事情はわからないが、代役に抜擢されたことで評価された話であれば、幸運だとしか言いようがない。けれどそれはおそらく違うのだろう。
「歓声も、拍手も自分のときとは段違いだったと、実質的な千秋楽はその公演だった、と彼女は言っていた。自分が努力したところで超えられないものはあるのだと」
観客にしてみれば、その人の素直な気持ちを出しただけだろう。そこに何の罪もありはしない。しかし、その状況を想像すれば、樹里もすくみ上がってしまうくらい残酷だ。それまでそのオペラを支えていた代役よりも、一公演だけ出た主役が光を浴びた。ここは努力ではどうにもならない世界なのだ。
「……遥希は瑞希さんを超えられない」
「その才能を全部分析しきって、自分のものにできたら話は別だが……瑞希には、私にもどうしたらそうなるのかわからないところがあったからな」
必死で努力しているのに、報われることはない。遥希もそれには気がついているのだろう。だからこそ彼女は――焦っている。
「それでも私は、遥希に音楽を楽しんでほしいんだけどな。瑞希さんもそう思ってるだろうし」
最後に瑞希から来たメールを、遥希にはまだ見せていない。そこに書かれていた言葉がいまだに私の胸に突き刺さっている。私は瑞希を苦しめていた。だから――遥希を同じ目には遭わせたくない。
「でも樹里のやり方で説得はできないでしょ。そもそもコンクールもあるんだよ?」
「実際どこまでいけそうなの?」
「本選通過までは確実。そうなると秋まではそっちに取られるわね」
でも演奏会は冬だ。遥希ならそこから追い上げることも可能だ。私の頭の中では、既に遥希のピアノと純恋の歌声が響いている。それが実現できなかったとしても、純恋の存在が遥希に何か変化をもたらしてくれればいい。
「とはいえ、遥希もなかなか頑固だからなぁ……お金が出るわけでもないし」
「何が何でも弾きたいって気持ちにさせられれば――って難しいわね」
「なんかいい案ないの?」
団扇で扇ぎながら、私はピアノに寄りかかる。皇先生は呆れたように溜息を吐き、譜面台の上に楽譜を開いた。
「何にも思いつかないわね。とりあえずあなたはあなたの練習よ」
「今日は良くない? もう音楽全然関係ないとこ就職するって決めちゃったし」
「卒業させないわよ?」
「はいはいわかりました。じゃあ、よろしくお願いします」
もう演奏家になるつもりもなければ、音楽関係の職に就くつもりもない。だからこれからの大学での生活は真のモラトリアム。ただ楽しむだけの猶予期間だ。でも――遥希は違う。遥希はずっと瑞希になろうとしているのだ。
無理だって、自分でもわかっているはずなのに。