第1話 野良スカウト
世界中を熱狂の渦に巻き込んだウマ娘ブーム。
小学生だった俺は、激しくぶつかりあうレースの世界に魅入られた。日本最高峰の舞台・GⅠのレースを見るために家族に連れ出されたあの日のことは忘れない。ゲートが開いた瞬間の胸の高鳴りと、口々に違う名前を張り上げ叫ぶ観客の声の振動。父親の肩車の上でレースに見入った。
当時は難しい言葉が多くて意味は分からなかったけれど。全力を賭けて戦うウマ娘の姿はキラキラと輝いていた。走って、戦っている。本気の勝負から目が離せない。
すごい、すごい……!
こんなにも熱い気持ちにさせてくれるウマ娘はすごい。
「お父さん、ぼくもウマ娘になりたい!」
「はは、それはちょっと難しいかもしれないな」
夢を語ると父親に苦笑いされた。その反応の通り、どうあってもウマ娘になるのは無理だ。そもそも自分はウマ娘どころか女性ですらない。
だが帰宅後、いまいちど転機が訪れる。
その日見たレースの勝利者インタビューを受けるウマ娘をテレビで見ていた。その時、食事をする手が止まった。勝利したウマ娘のすぐ隣に寄り添うようにスーツの男性が、まるで同じ勝者のように肩を並べて堂々とマイクを握っていたのを見たためだ。
「おとうさん、あの人はだれ?」
「ああ。あの人は有名なトレーナーだな」
「トレーナー?」
「レースウマ娘には必ず一人、付きっきりでサポートする大人がつくのさ」
テレビに視線を向けて唐揚げを口にしながら教えてくれる。
曰くトレーナーとはウマ娘を支える存在。レース人生を共にする仲間、と父は言った。ちょうど次のレースの話をしている会見の内容に夢中で適当な返事だった。
だが俺はその時、夢を見つけたのだ。
人生を賭けて挑みたいと思うほどの大きな夢を抱いたのだ。
トレーナーを目指すという『夢』は特別ではなかった。
なぜならウマ娘のトレーナーは日本中のウマ娘ファンが志望する超人気職業だ。給料は非常に高く、場合によっては教科書に乗るくらいの大きな知名度も得られる。世界に羽ばたくことだってある。
しかし人気があるということは、夢追い人が多いということだ。つまり敷居が非常に高い。生まれながらの超天才、本気で人生を注いできた人間。あとは家系でトレーナーを目指すことを運命付けられている者。そういう人材でほぼ枠は埋まってしまうのだという。
例えばウマ娘にシンボリやメジロといった血筋があるように、代々トレーナーを排出する家系では幼い頃から厳しいエリート教育がなされている。ゆえに一般人がトレーナーになるのはほぼ不可能と言われ続けてきた。
小学校では、悪いことは言わないから諦めろと言われ続けた。
諦めなかった。
中学校では、呆れられながら現実を見ろと促された。
諦めなかった。
高校では、夢を見るような歳じゃないだろうとたしなめられた。
諦めなかった、絶対に。
君には無理だからせめて地方トレーナーを目指しなさいと、教師から何度も説得を受けた。歳を重ねるごとに説得される頻度は増した。しかしかたくなに拒み続けた。だってなりたいのだ。
(何があっても諦めるもんか。俺は、トレーナーになる)
子供のような頑固さを持ち続けた。周りが諦めても、譲れないものがあった。
特別な想いがあったわけじゃないけれど、最初に見たレースが忘れられなかった。自分の手でウマ娘を最高の舞台でキラキラ輝かせたい。中央トレセン学園のトレーナーに夢を絞ったまま大学に進学する。それからもライセンス試験の勉強漬けだ。
「よう。今晩飲みに行こうって話してるんだが、お前はどうせライセンス受験の勉強で来ないんだよな」
「悪い。試験日が来月に迫ってるんだ……! 終わったらまた誘ってくれ!!」
「知ってた。お前ならマジで受かっちまうかもなあ」
みんなが遊びに行くようなときでも、俺は狂ったように勉強していた。遊びに誘ってくれたラボの同期に呆れられた。付き合いが悪いと思われただろう。だが、こういう生き方しか知らなかった。
同期が早々に飲み会に行ってしまったあと、一人取り残された俺はため息をつく。しかしこれでいいのだ。俺にはかけた時間しか取り柄がない。代々トレーナーの血筋というわけではなく、コネもない。日本一の超倍率の中央ライセンス取得が叶う可能性があるとすれば、誰よりも夢を追い続けた時間が長いことだけだ。
ラボ棟が消灯しても、ひたすらにシャープペンシルを走らせ続けた。
やがて迎えた四年生の春、三度目のライセンス認定試験。
在学中には三度チャンスがあった。ここまでの二度は不合格。つまりもう後がない。しかし運が良いのか、それとも実力か。三度目で俺はなんとか最終面接まで辿り着くことができていた。
プレッシャーに晒されながら中央トレセン学園の面接室に訪れる。緊張で手の震えが止まらない。最終面接の部屋は意外に殺風景な会議室であり、俺は今まさに事務机で資料を手にした面接官と対峙しているところだ。
面接官の緑服の女性は駿川たづなと名乗った。初めて出会う相手だったが、トレセン学園の理事長秘書を勤めている偉い人のようだ。優しそうな雰囲気の人に当たってよかったと、ひそかに胸を撫で下ろしていた。おかげで練習通りスムーズに面接を進めることができた。
「過去の受験結果も見せていただきました。ウマ娘への熱い思いが伝わってきました。とても熱心に勉強されてきたんですね」
「ありがとうございます……!」
たづなさんの言葉は柔らかい。今回は受け答えも完璧にできた自信があり、これなら本当に合格できるかもしれないと期待に胸を膨らませた。手応えを感じていると、質問をされる。
「では時間も押していますので最後の質問にうつりましょうか。もし、仮にライセンスを取得することができた場合。来年からこの学園で活動するということでよろしいですね」
「もちろんです。トレーナーになるのは子供の頃からの夢ですから」
「分かりました。では、あなたはこの学園で、どのようなトレーナーになりたいと考えていますか」
「というと……?」
抽象的な問いに対して答えに詰まり、思わず聞き返してしまう。たづなさんはくすりと笑うと、丁寧に意図を教えてくれた。
「このトレセン学園には色々なトレーナーさんが所属しています。GⅠ勝利や三冠のような目標を据えるチームもあれば、勝つことよりもウマ娘に寄り添って一緒に歩むことに重きを置いている方もいる。トレーナーといっても、ウマ娘との向き合い方はさまざまです」
「なるほど。俺は……最高のウマ娘を育てられるようなトレーナーになりたいと思っています」
「最高のウマ娘、ですか?」
俺が漠然とした答えを出したことに、たづなさんは首をかしげた。
俺は今まで必ず具体的な内容をもって答えていた。突然ふわっとしたことを言ったので、不思議に思ったに違いない。しかしそれこそが俺の根底にあるものだ。
「子供の頃に両親に連れられて見たGⅠのレースに憧れました。あんなレースを作れるウマ娘を育てたいと思って、トレーナーを志すようになったんです」
「GⅠウマ娘を育成するトレーナーを目指したい……ということでしょうか?」
「いえ。俺が目指すのは、彼女たちの輝きを一番に引き出せるトレーナーです。ウマ娘の走りにはみんなを幸せにする力がある。彼女たちの夢を叶えるための力になれるような、必要とされるトレーナーになりたいんです」
自分が必要とされる存在になって、ウマ娘と一緒に全力で夢を叶えたい。
「俺には夢を語れるような家柄もありませんし、誇れるほどの実績もない。でも、できることは全部してきたつもりです。全力で夢を追いかけるウマ娘を支えたい。一緒に勝ちたい。そのために、俺は……!!」
興奮しながら言い続けて、しかし途中で熱く語りすぎたことに気づいて顔を赤くした。いつの間にか面接の最中であることをすっかり忘れてしまっていた。とんだ失態だ。顔から火が出そうになった。
「っ、すみません。熱くなってしまいました……!」
「大丈夫です、よく分かりましたから」
うつむいて顔を隠しながら様子を伺う。意味ありげに微笑んでいたけれど、笑われるような気配はない。真剣に受け止めてくれたように感じた。
「ちょうど時間も来たみたいですね。質問は以上にしたいと思いますが、最後にこの場で聞いておきたいことはありますか?」
「……ありません。あの、途中から一人で喋ってしまってすみませんでした」
「ふふ、大丈夫です。熱い気持ちはちゃんと伝わってきましたよ」
そうして中央トレセン学園での最終面接が終了した。
合格か不合格か。どちらに転ぶかは全く分からなかった。ただ、途中までは順調だったのに最後にやらかしてしまったことだけは深く後悔した。おかげで合否発表までの数日間は気が気ではなかった。
数日後、俺のもとに結果が届く。
――合格。
封筒を開けて一番上の紙には、そう書かれていた。
4月。
俺は金色の蹄鉄型のバッジをスーツの胸につけて、桜咲くトレセン学園の前に立っていた。
誰からも叶わないと言われていた長年の夢が叶った。しかしここからが始まりだ。今日から俺はトレーナーになる。毎日のようにテレビで放送される名トレーナーと肩を並べることになるかもしれない。そう思うと武者震いがした。
「最高のウマ娘を育てる。頑張るぞ……!」
かけた時間以外は何もない。家柄もコネもない。しかし夢の大きさだけなら誰にも負けないぞと、熱い気持ちだけを胸に。中央トレセン学園トレーナーとしてのスタートを切った。
中央トレセン学園のトレーナーとして着任して、二年が過ぎた。
トレセン学園の満開の桜が散りはじめて、緑色に移り変わりはじめたころ。俺はたづなさんと対面していた。肩を落として、担当ウマ娘の
「あとは、よろしくお願いします……」
「分かりました。今回の件はトレーナーさんのせいじゃありません。気を落とさないでください」
職員室にはいつになく重い空気が流れていた。
たづなさんは気遣わしげな表情で俺を見ていた。その理由は俺が初めて引き受けた担当ウマ娘の育成に失敗したためだ。仕事に失敗したというのに責めるような雰囲気はなく、同情するように慰めてくれた。
「過酷な環境ですから、自分自身に見切りをつけてしまう子は毎年出てしまうんです。昨年は働き詰めだったことですし、しっかり休みも取ってくださいね。トレーナーさん」
「ありがとうございます。今日はこれで失礼します……」
頭を下げて早々に退出する。職員室の廊下で一人になると、顔を抑えてうずくまった。
「俺は何をやっているんだ……」
始めて担当するウマ娘。選んだ子は十分な素質を持っていて、ともすればGⅠの勝利も狙えるような才能の片鱗があった。
だが失敗した。こんな結果になってしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。最高の舞台に送り込もうと仕事に取り組んできたが、数日前のこと。
『トレセン学園辞めるから、あとはよろしく』
担当の子は、まるで天気を告げるかのような気軽さで、自分の進退を俺に告げてきた。
交渉の余地はなかった。走ることに飽きたから辞めると、その一点張り。慌てて問いただすと、もとより就活のためにトレセン学園に入るように言われて来ただけで、未勝利戦に勝ちたかっただけなのだという。だが彼女は、それさえ相当な努力が必要だと知った。
本気で走る気はないのだと、関係が破綻してから初めて打ち明けられた。いつからそうだったのだろう。彼女はすっかりレースに興味を失っていて、俺の前から姿を消したのだ。
帰りの夜道。
失意の中にいた俺は学園の中庭にある噴水の前で三女神像を見上げた。像は夜空に悠々と浮かぶ半月に照らされて輝いている。夢への道標がなくなって、すっかり途方に暮れていた。
「明日から何をすればいいんだ……」
担当ウマ娘が退学になってもトレーナーとしてクビになるわけではない。というより前提として、卒業できるウマ娘の数自体入学時の半数を下回る。退学するケースのほうが多いくらいだ。だから俺もこれといって責められることはなかった。
だが、ウマ娘を導く自信が折れてしまったのを感じた。
俺がすべきことは理屈ではわかっている。数日後にはトレセン学園の公式選抜レースが開催される。そこでスカウト活動からやり直すのだ。そうすればまたウマ娘を担当して、中央トレーナーとしての責務を果たすことができる。
だがその気力がなかった。ウマ娘は心の機微に聡い子が多い。自信を持って『君を担当する』と口にできないようなトレーナーと契約を結びたがるはずがない。しょぼくれた今の俺にウマ娘は寄り付かないだろう。つまりで選抜レースに出向いたとしても無駄だ。
「夢の舞台に上がらせてもらったのに、何をやってんだ俺は」
家族にも、周囲の人にも、トレセン学園の職員にも迷惑をかけている。そう思うとますます気持ちが落ち込んだ。
深くため息をついた。そんな時のこと。
誰かの声を聞いた。
三女神像の噴水の水音に紛れて、どこからか声が聞こえてきた。若い声だ。怒りと悲しみが混ざったような、耳をつんざく叫び声。声質からいっておそらく学園の生徒だろう。
「こんな時間にトラブルか? ……ともかく行ってみるか」
しかし寮の門限はとっくに過ぎている。つまり放っておけない。足は自然と声のほうを向いていた。
声の主は、学園の中庭にある切り株の広場にいた。辛いことを大声で吐き出す場所として使われている『大樹のウロ』の広場だ。
目を凝らすと暗闇の中に仰向けで寝転がっている小さな影が一つあった。暗闇で見づらいが、トレセン学園の制服を着ているのは分かる。やはり学生で間違いなさそうだ。
それにしてもかなり変わった容姿の子だ。 特徴的な青い髪色に小さな身体に尖った歯。何があったのか、泣きはらしたようなような目元と涙の痕は夜目にも分かるほど濃い。途方に暮れたように空を見ていて俺に気付いていない様子だ。
(どうしてこんな夜中に一人で……いや、理由なんてそう多くはないか)
レースに負けたか、友達同士で喧嘩をしたか。ここで学生ウマ娘が感情を叫んでいる姿なら俺も何度か目にしている。だがともかく放ってはおけない。
「君、どうしてこんなところにいるんだ」
声をかけると青毛のウマ娘はびくんっと全身を震わせた。飛び起きて俺を見ると、あからさまに『不味い』という雰囲気を見せ、毛色に劣らないくらい顔色を青ざめさせた。
「あ、あわっ……学園のヒト、ターボ見つかった……!?」
夜目には分かりづらいが、彼女の容姿は一度見れば忘れないほど特徴的だ。ギザギザの歯に赤青の色違いの瞳。さらに見つかったことで怯えまくっているのが顔にはっきり出ている。
「やっぱり寮の子か。門限は過ぎてるのにこんなところにいたら危ないぞ」
「ごっ、ごめん。すぐにかえるからぁーーーーっ!!」
「あっ、ちょっと!?」
そのウマ娘は背中を向けて脱兎の如く逃げ去っていった。慌てて追いかけようとするが、無理だった。
「え、はっや……」
レースでもなかなかお目にかかれない逃げ足で逃げられた。そもそもヒトが追いつけるはずないけれど、それでも速かった。レースを見慣れている俺でもあっけにとられるスピードだ。
……どうしようか。
このまま放っておくべきか、あるいは報告すべきか悩んだ。携帯端末のウマホを確認すると9時半を過ぎている。門限は8時のはずなので、大幅オーバーの規則違反だ。
「たづなさんに報告……いや。見なかったことにしておくか」
少し考えてから彼女を見逃すことにした。職員の判断としては失格だが、あの子はきっと誰にも会いたくなかった故にこの時間にきたのだろう。遊びで出歩いているなら問題だが、わざわざ大事にするのは無慈悲に思えた。
学園の敷地内の出来事なら大袈裟に騒がなくても見なかったフリをしてやれる範囲だ。そうして規則破りのウマ娘とは出会わなかったことにして、俺もその場をあとにした。
「結局、選抜レース何もできなかったな……」
契約解除から数日が過ぎた。
担当を失った俺は、まだ落ち込んだ気持ちから抜けられずにいた。選抜レースが終わってからも深くため息をつく。案の定ウマ娘をスカウトすることはなく、一人で落ち込んでいた。
散歩がてらトレセン学園のレース場付近を歩いていると練習用の小さなコースが視界に入ってくる。そこには全力で競争しているウマ娘が二人。外野のウマ娘が応援しているところだった。
「頑張れーっ! もうちょっとで追い抜けるよー!!」
「負けるなっ。いっけぇぇ!!」
おそらくチームメイトと模擬レースをしているのだろう。全力で青春する彼女たちは輝いていて、それに対して自分は何をしているのだろうかと、罪悪感でますます気が重くなり足早にその場を去る。
こんな気持ちでウマ娘と接するのはトレーナーとして失格だ。早く立ち直らないとなあ。
「はぁ……ん? またウマ娘か」
ため息をつきながら、トレーニング中のウマ娘の声が届かない場所を歩いていると、また別なウマ娘を見つけた。さっきの元気な子と違って坂にポツンと座り込んでいる。一人で静かに膝を抱えて、尻尾をしんなりと垂れさせながらレース場を見つめていた。
数日前の夜中に切り株の広場で落ち込んでいたウマ娘だ。
「このあいだの子。なんでこんなところに一人でいるんだ……?」
特徴的な青水色が入り混じった毛色を見間違えるはずがない。声をかけるか若干迷ったが、誰がどう見ても困っているのが分かる。ならば有象無象とはいえ俺もトレーナーの端くれ、放ってはおけない。
「一人で座り込んでどうしたんだ」
「わっ!?」
声をかけると青毛の子はピーンッと両耳と尻尾を逆立てた。ウマ娘の聴覚はヒトの数倍優れているはずで、足音は聞こえていたはずだが、相当自分の世界に入っていたようだ。彼女は直前まで俺が近づいた気配に気付いていなかった。
たいそう驚いた様子で振り返って、それからさらに、おもいっきり口を大きく開けて俺のことを指差した。
「ああーーっ!! この前の!!」
「おう」
「あっ。ええっと……おまえのことなんてターボ知らないぞ。ホントにぜんっぜん、わかんない」
視線を逸らして俺を見ないようにして口笛を吹くみたいに唇を尖らせる。向こうも俺が夜中にバッタリ遭遇した大人であることに気づいて、怒られないために誤魔化すつもりらしい。少し反応に困ったが……まあ、別に責めるために声をかけたわけじゃない。
「心配しなくても、この間の件は誰にも話してないよ」
「……え。そうなのか?」
「ああ。その気があったらとうに報告してるさ。何か事情があったんだろう」
言いなだめる最中に彼女の様子のおかしさに気づいて顔をしかめた。正面から向き合って初めて分かったことだが、ボロボロだった。トレーニングをした直後でもなさそうなのに肌やジャージは土だらけ。表情も疲れたような感じで、カラフルな目の下にはうっすらクマができている。到底トレーナーのついているウマ娘とは思えない。
「隣、座ってもいいか」
「う、うん……」
お節介であると知りながらも、事情を聞かずにはいられなくなった。ウマ娘は戸惑った様子ながら受け入れてくれる。隣の芝に座ると、落ち着かなそうにチラチラと俺の方を気にした。
「学園のヒト……だよね?」
「ん? ああ、まあそうだな。君も学園の生徒だろう。名前はなんて言うんだ」
「ターボは、ツインターボだぞ」
「ツインターボか。速そうでいい名前だな」
「……うん」
ツインターボはぎゅっと唇を噛んで、感情を溢れさせないように我慢した。名前を聞いただけなのに辛そうにしている。このくらいの年頃の子は夢と希望に溢れていて明るい子が多いのだが、ターボはそうではなかった。
そして落ち込んでいる原因を、俺はすでになんとなく察していた。
「初対面でこんなことを聞くのは野暮かもしれないが……ひょっとしてレースで負けたのか」
「なんで分かったの?」
「そういう顔をしてたからな。服もほつれてるし、擦り傷もあるぞ。ずいぶんボロボロだな」
ターボは驚いていたが、こんなのすぐに分かる話だ。トレセン学園のウマ娘が落ち込む主な原因といえば『レースに負けた』か『怪我をした』か。大怪我しているようには見えないので、大切なレースに負けて落ち込んでいるのだと察した。それだけのこと。
「……ターボ、勝てなかったんだ」
やっぱりそうだったか。ターボは顔をうつむかせ、体育座りするような体勢のまま膝を抱え直して独白した。そのレースによほど大きな想いをかけていたのだろう。
しかし、そうだとすると俺にできることはそう多くないな。
よそのウマ娘に干渉するのはトレーナー同士のマナー違反だ。レースで負けて落ち込むウマ娘は珍しくない。部外者にできることは、せいぜい励ますことくらいだろう。俺は精一杯ターボに対して明るく振る舞った。
「負けることだってある。そもそも一着にはなれないウマ娘の方が多いんだ。精一杯やったのなら、次も全力で頑張ればいいじゃないか」
「ううん。ターボ、次のレースには出られないんだ」
「なんで?」
「今まで一度も勝ててないから、もうすぐ退学になっちゃうの」
幼い声を震わせながら色違いの瞳を潤ませて答えた。
……しまった、そういうことか。俺は自分の迂闊な発言を後悔した。ターボはどうやらトレセン学園に入学したばかりのウマ娘ではなく二年生だったらしい。そして二年生で公式レースで一度も勝てていないということは、退学を意味する。
中央トレセン学園には鉄の掟が存在する。
入学したウマ娘は全員がトゥインクルシリーズに出走することを目指す。その登竜門としてメイクデビュー・未勝利戦に勝たなければならない。これに勝たなければ、トゥインクルシリーズへの出走が許されずに退学となる。毎年、学園の半数以上の生徒が退学に追い込まれている。
俺が前に担当していた子もここで勝てずに自ら退学を選んだ。だからそのあたりの事情はよく知っている。このツインターボというウマ娘も、その一人なのだろう。
(でも変だな。見たところしっかり鍛えてるみたいだし、実力もありそうだ。何より諦める時期が早すぎる)
トレーナーとしてみる限り、ツインターボという子は普通とは違った。
確かに外見はボロボロだが、しっかり欠かさずに鍛えているのが外目でわかる。怠慢で鍛えていなかったり、素質がないわけではなさそうだ。何より追い詰められているのは分かるが、まだ今の時期なら未勝利戦に挑むことができるはずだ。なのにすでに運命が決してしまったような雰囲気で悲嘆に暮れている。
メンタル面で厳しくなったという風ではない。自分の脚に自信が持てなくなったとか、どうせ勝てないから走りたくないとか……この時期のウマ娘にありがちな『諦めた』雰囲気がないのだ。そういうウマ娘を見続けてきた俺には違いがはっきりとわかった。
(これは、もう少し詳しく話を聞いた方がよさそうだ)
レースに挑んだということは彼女にはきっとトレーナーがいるはずだ。何か特別な事情があるのかもしれない。幸いいまの俺には時間だけはあるので、ツインターボの困りごとに力を貸すことにした。
「一度も勝ててない、か。でもまだチャンスはあるだろう?」
「ううん。レースに出られなくなったんだもん」
「走れなくなるような怪我をしたのか」
「違う。ターボ、とれーなーに、もういらないって捨てられちゃったんだ」
ターボはいよいよ我慢できなくなって、涙を溢れさせながら深く腕の中に口元を埋める。だが俺はツインターボが何を言っているのか理解できなかった。思わず聞き返す。
「捨てられた? いらないって、それはどういう意味だ」
「けーやくが無かったことになっちゃった。だからもうレースは諦めろって」
「……どういうことだ」
「ぐすっ……勝てないから、いらないんだって。もう来るなって言われたんだもん」
「馬鹿な! トレーナーが見捨てたのか!? ありえない!!」
思わず我を忘れて叫んだ。だってそんなことはルール上、起こり得ないからだ。
ターボは契約が無かったことになったと言った。それ自体はあり得る話で、相性が悪いと後から分かったり、より優秀なトレーナーに預けるなどの理由で契約を解除するなどといったことはある。しかしそれは前向きな理由で行われるもので、ウマ娘の未来を奪う形で行われるようなことはない。
トレーナーは、ウマ娘の同意なしに契約を一方的に解除することはできない。揉めた場合はトレセン学園が間に挟まる必要があるが、こんな時期の契約解除が承認されるとは思えない。
なんだこれは。この子に何が起きているんだ?
他のウマ娘にあまり深く関わってはいけないと思ったけれど、これは話が違いすぎる。
「でもターボ、どうしてもレースに出たいんだ」
尖った歯を悔しそうに噛みしめながら言った。俺は怒っていたことも忘れて思わずターボを見る。そして真っ直ぐ視線が合った。泣くのを我慢しているツインターボの目は死んでいなかった。
「トレセン学園のヒトなんだよね」
「あ、ああ……」
「お願い。ターボ、どうしてもレースに出なきゃいけないんだ。諦めたくないっ。なんとかして……!」
すがられた俺は呆然とした。
すぐにたづなさんに報告して、事情を話して力になってもらうべきだと思った。しかしそんな真っ当な思考は吹っ飛んだ。なぜか俺は泣き縋ってくるツインターボの目から視線が離せなくなる。
「君は諦めてないのか……?」
「うん。次こそぜったいに、勝つんだ」
俺の問いに答えるツインターボに迷いはなかった。
崖っぷちに追い詰められているターボを見て、無性に魅入られた。トレーナーになってから見てきた他のどのウマ娘にも感じなかった『特別』を見た。くすぶっていた心が掻き立てられる。しかし一方で、下手に夢を見させるべきではないと理性が歯止めをかけた。
「……勝てる見込みはあるのか。根拠のない自信を持っても後が辛いだけだぞ」
「そんなことない! 諦めない、諦めなければやれるっ。ターボ、絶対負けないもん! 今まで負けたけど、最後は絶対に勝つから!」
ツインターボは負けじと強い口調で言い返してきた。
それは、俺の求めていたものだった。
この子がどんなウマ娘で、どれほどの実力を持っているのかを俺は知らない。しかし絶望的な状況でも諦めずに夢を追いかけようとしている。そのあり方は、俺がなりたかったトレーナー像そのもので。いつの間にかツインターボから目が離せなくなっていた。
「諦めなければやれる……か」
それは今の俺に欠けていた言葉。トレーナーとして才能がなかったんだと諦めかけていた自分が求めていたありかただ。ウマ娘を導けなかった時から、ずっと心にかかりつづけていた霧が晴れていく。
いまだ俺はトレーナーとして未熟だ。
だからこれはきっと運命だ。この子、ツインターボに才能があるかどうかは分からないけれど、こんなに真っ直ぐな目をできる子が終わっていいと俺は思わない。
「分かった。今から大切な話をするから、聞いてくれるか」
「……なっなんだ?」
芝に座り込んだターボに向きあった。雰囲気が変わったことを察したターボは身をすくめたが、脅すようで悪いがまず現実を認識してもらう必要がある。
「君の置かれた状況は絶望的だ。なぜならレースに出走するには担当トレーナーが必要だ。君一人でどれほど頑張っても、トレーナーがいなきゃ出走登録ができないからな」
「う、ううぅ……。ならとれーなーを見つけるもん!」
「前のトレーナーは頼れない。それは合っているか?」
「……もうターボのことは見てくれないぞ」
「分かった。別に意地悪でこんなことを言っているわけじゃない。君の担当を引き受けるトレーナーに一人だけ心当たりがあるから、ちゃんと確認したかったんだ」
「え……えええええっ、ホントかっ!!?」
ツインターボは両目を見開いて、ウマ耳をピーンと空に向けて立てた。まさか通りすがりの人間が願いを叶えてくれるとは思っていなかったのだろう。
「レースに出られるならターボなんでもする!!」
「その前に君自身の考えが聞きたい。俺はまだ君のことを何も知らないからな」
「なんでも聞いていいぞっ!!」
ターボに手で静止して待ったをかける。するとこれが人生の正念場だと言わんばかりの覚悟のこもった眼差しに変わった。
この子を育ててみたい。しかし、哀れむ気持ちで担当を引き受けるわけにはいかない。腐ってもトレーナーの資格を持つ者として共に歩んでいけるかを見極める必要があった。
「きみは、どんなウマ娘になりたいんだ」
その問いに、ターボはほとんど迷わずに自信を持って答えた。
「ターボは誰にも負けない、『最強』のウマ娘になる!」
「最強……?」
「そう。ぶっちぎって一着になるウマ娘! 誰にも負けない、超かっこいいウマ娘!」
ツインターボは堂々と夢を語った。そしてますますこの子を担当したい気持ちが高まった。
ターボの夢の形は無謀で抽象的で曖昧だ。しかし俺と一緒だ。こんな状況でほぼ即答で夢を語ったことも気に入ったし、それがツインターボの『芯』であることが伝わってきた。この子は本気で最強になろうとしているのだ。
「なら仮に未勝利戦に勝ったとしよう。そこからもオープン、GⅢと上はずっと続いてる。一番上を目指すってことだな」
「そんなの当たり前じゃん!!」
「GⅠのレースにも挑むつもりなのか」
「ちがう! 挑むだけじゃなくて、ターボが一番になって勝つの!!」
「強豪ウマ娘に当たることになるけど、みんなに勝つつもりなんだな」
「最強は誰にも負けないんだ!!」
ツインターボは物怖じせずに即答した。
ああ、まさに俺が求めていたウマ娘だ。背筋がゾクゾクする。この子は、頂点に立つ素質のあるウマ娘だとトレーナーとしての本能が訴えかけてくる。この子を担当せずして、いったい他のどのウマ娘を担当するというのだろう。
「いい答えだ。よし、約束通りレースに出る方法を教えよう。けどその前に。ちょっとだけ嘘をついたことを先に謝っておくよ」
「えええーーーっ!? 嘘だったのか!!?」
「いやレースに出られるのは本当だぞ。『心当たりがある』という言い方はちょっと違うと思ってな」
ショックを受けるターボに対して服の左胸、Tシャツの胸ポケットにつけたバッジを指で示した。中央トレーナーライセンス、黄金の蹄鉄バッジが輝いている。
「ううええぇッ!? とれーなーだったの!?」
「ああ。俺を君の担当トレーナーにしてほしい」
ツインターボはきょとんと目を丸くしたが、数秒後にひっくり返らんばかりに大袈裟におののいた。そんなターボに手を差し伸べて契約を申し出る。しかし手は握り返されない。待っていると、ターボは不安げに視線を逸らして疑念を口にした。
「どうして、ターボとけーやくしてくれるんだ……?」
「どうしてって、トレーナーを探していたんじゃないのか」
「うん。でもターボを見てくれるヒトなんていないってみんな言ってた。もう誰も受け入れてくれないから諦めろって言うんだ」
あれだけレースに出たがっていたのに弱気な表情に変わった。
ターボは俺がどうしてトレーナーを引き受けようとしているのか、分からずにいるようだ。それもそのはずで。俺はターボのことを聞いておきながら自分のことを何も話していない。今度は俺の方からツインターボに正面から向き合った。
「俺は、君が最強になれるウマ娘だと思った。夢が叶うと思った。だから君をスカウトする」
「ターボ、一回も勝ててないんだぞ……?」
「君が強くなるのはこれからだ」
断じると、ツインターボの震えが止まった。オッドアイには不安。期待。困惑。さまざまな感情が渦巻いている。しかし期待してくれている。そういうウマ娘に応えるのがトレーナーの役目だ。
「正直に言おう。俺はまだ一人もウマ娘を導けたことがない未熟なトレーナーだ。未勝利であと1回しかチャンスのない君をどう勝たせていいのか見当がつかない」
「そうなの……?」
「ああ。だがツインターボ、君のために全てを尽くすと約束しよう。君をスカウトさせてほしい」
ターボの表情は不安から期待へと傾いた。
「トレーナーとして叶えたい夢がある。そのために君の力が必要だ」
「ターボ、勝てるかな……? まだ、諦めなくていい?」
「俺が必ず君を勝たせる」
「ターボ、諦めたくない。勝ちたいよ……!」
ツインターボはあふれた涙を拭って前を向いた。唇を噛み締めながら、ようやく伸ばした手を握りかえしてきた。失敗した者同士が手を組んで、夢を目指す。
「辛いことでも何でもするから。勝たせて、とれーなー……っ!」
「ああ、君を勝たせる。約束だ」