夏祭りを終えた俺たちはゾロゾロと宿に戻ってきた。はしゃぎすぎたゆえに、玄関口の扉を開けて宿に戻ってきた時には全員すっかり疲れ切っていた。時間もかなり遅くなってしまったな。
玄関の扉を閉めたネイチャが、ぐっと両腕を伸ばして伸びをした。
「はぁ〜〜楽しかったけど疲れたぁ〜〜っ」
「予定より遅くなってしまいましたね。消灯時間が過ぎる前に早めに歯を磨いて、着替えて睡眠を取りましょう」
「たくさん食べたから明日も頑張れそうだ」
「オグリ先輩。あれだけの量食べてるのに、どうしてその体型を維持できるんですか……?」
ネイチャが羨ましげにオグリの腹を見た。祭りの食事が溜まって膨らんでいたお腹は、すでに全部消化しきってぺたんこだ。本当にあの身体の燃費はどうなっているんだろうな。
完全貸切の宿なので気を使う必要はない。盛りだくさんな夜だったゆえに話題は尽きなかったが、その空気を切り替えるかのごと、ネイチャトレーナーが一度手を叩いた。
「皆さん。イクノさんの言う通り明日も早いですから、早めに休んでくださいね」
「はーい」
鶴の一声でみんなゾロゾロと部屋に戻っていく。珍しいことに、普段なら一番に風呂に駆け抜けていきそうなターボが最後尾だった。落ち込んだ雰囲気でトボトボと青白いウマ尻尾を垂らしている。俺は思わず手を伸ばして呼び止めた。
「あ、ちょっと待って。ターボだけ残ってくれるか」
「とれーなー……?」
一人呼び止められたターボは不思議そうに目をまたたかせた。続けてオグリも立ち止まったが、目配せするとすぐに察してくれた。
「なら私は先に戻って寝る準備をしておこう」
「助かる」
俺がターボとだけ話すつもりだと分かってくれたのだろう。なんともできたウマ娘だ。みんな去っていったので玄関先で二人きりになった。取り残されたターボは身を縮ませて、不安げな上目遣いでこちらを見上げてくる。
「トレーナー……も、もしかしてお説教か……?」
「怒られるようなことしてないだろう。むしろ毎日一生懸命に頑張ってるじゃないか。とりあえずちょっと外に出よう」
「でも夜中だぞ。怒られちゃわない……?」
「俺がいるんだから大丈夫。宿の裏に回るだけで遠くにはいかないさ」
俺はターボの手を引いて、戻ってきたばかりの宿から外に連れ出した。日の高い間はトレセン生の掛け声や車のエンジン音が聞こえる大通りには、街灯の明かりが点々と続いていて、誰も歩いていない。海から聞こえる波音がもの寂しさを感じさせた。
ターボを連れて乗ってきたバイクとワゴンカーが停まる駐車場を抜けていく。ターボは普段よりも強く手をぎゅっと掴んで、できるだけ身を寄せながらあとをついてきてくれた。宿の裏手にある高い草で囲まれた獣道を抜けて階段から浜辺に降りた。
草むらを抜けると一気に目の前の視界が開けて、夜の海が広がった。
流木一つない美しい銀色の浜辺と青色の海は、入ってしまえば二度と戻れない暗闇に染まっている。もの静かに浮かぶ美しい半月だけが俺とターボを照らしてくれた。昼にトレーニングに使っていた車のタイヤが残されていた。腰を降ろすにはちょうどいい小型だ。
「あそこに座って話そうか」
「う、うん……」
ターボと隣り合うように座った。呼び出された理由が分からない……ということも原因の一つだろうが、それだけではなくションボリと落ち込んでいる。その証拠に普段の元気さが垣間見えない。できるかぎり優しく問いかけた。
「なあターボ。この合宿は楽しいか?」
「……うん。オグリやネイチャ、イクノと一緒に走れて楽しいぞ」
「お祭りでは新しい友達ができたんだろう。バイクで遠出したのはどうだった?」
「楽しかった……」
「じゃあメジロマックイーンと会ってみて、どうだった」
「……っ」
縞柄のウマ耳がびくんと跳ねて、浴衣の膝の上に置いた拳がぎゅうと締まる。ターボは不安を噛み殺すように下唇を噛んで俯いた。心の中で不安に思っていることを言い当てた。ターボの変化はあまりにもわかりやすかった。
「何を考えているのか当てようか」
「え……?」
「最強のウマ娘になるためにはメジロマックイーンを、『三強』を超えなくちゃならない。そのためにはもっと強くなる必要がある。それなのに自分は周りのみんなより実力が伸びていない……そう感じてるんじゃないか」
「…………」
俺の問いかけに対して、ターボはぎゅっと口を閉ざした。素直にどんなことでも本音を出してしまう性格だが、自分でもそのことを認めていないゆえの反応だろう。
「とれーなー、ひょっとしてターボの心が読めるのか……?」
「そりゃあ分かるさ。マックイーンは間違いなく最強のウマ娘だ。秋の天皇賞で確実にぶつかることになる。でも、最近はタイムも伸び悩んでいるし、ライバルのオグリにもなかなか勝てなくなってきている。だから気持ちが落ち着かないんだろう」
ターボはビクッと反応して、またウマ耳と顔を下げて落ち込んだようになってしまう。それに対して、そっと優しく頭に手を置いた。するとターボは猫のように目をつむりながら、撫でるのを受け入れてくれた。
「合宿を始める時、俺が言ったことを覚えてるか?」
「……なんだっけ?」
「夢を叶えるために二人のことをもっと知りたい。今のもちゃんと日頃からターボのことを見ていたから分かったんだ。だからこの機会に、俺の気持ちも伝えておきたいなと思ってな」
腹を割って話す必要があると思った。なぜならターボが弱い表情を見せるときは、助けを求めている時だと俺は知っているからだ。
「強くなったな」
「えっ……?」
ターボの頭から手を離すと、驚いたような視線が俺を見上げていた。
「どうした?」
「えっと、弱くなったって言われると思った……」
「強くなったさ。未勝利戦前に出会った時に比べたら、同じウマ娘だって誰も信じないぞ」
「でもっ……! だってターボ、みんなより強くなれてないんだぞ……!?」
「確かにまだGⅠに勝てるレベルには至っていないかもしれないな。それに残り期間はたったの二ヶ月と少し。絶望的な状況なのは認めよう」
嘘をついても仕方がないので本当のことを言う。グサグサと心に槍が突き刺さったかのように、胸に手を置いて青ざめた顔をした。やがてターボは落ち込んだ震え声で聞き返してくる。
「う、ううう……やっぱりだめなのか?」
「いいや。俺はそうは思わない。だって秋の天皇賞、GⅠ挑戦を止める気はないだろう?」
「うん。それはぜったい走るけどさ……」
「それなら大丈夫。最後には間違いなくツインターボが勝つさ」
「どうして……?」
「それはな、ターボがレースウマ娘にとって一番大切なものを持っているからだよ」
ターボは困ったように俺を見上げた。現実が半ば見えてしまっているうえ、俺も厳しいことを肯定したのにターボが勝つと断言した故に混乱しているのだろう。だがこれらは全部、掛け値のない本音だ。
「そもそも……俺がターボをスカウトした理由。言ったことあったかな」
「え?」
「俺が新人だっていう話は、確か契約のときにしたことがあったよな」
「う、うん、知ってるぞ」
ターボは話の行方が見えずにいるのか、おそるおそる潤んだ眼差しで見上げている。どうやら話を聞いてくれるようだ。俺は暗い海の向こう側に浮かんでいる朧月を見上げながらゆっくりと語った。
「トレーナーの仕事はウマ娘を勝たせることだ。ターボの前に一人のウマ娘を担当した。自分で選んだ子だったんだけど、俺はその子を導けなかったんだ」
「ターボみたいに、トレセンを退学になっちゃったってことか?」
「ああ。中央に入ってきて、重賞に勝てるかもしれない才能のある子だったけど。最後は
普段は決して話さない過去だ。育成失敗談なんて不安にさせるだけだし、他のトレーナーだって自分の担当ウマ娘には口が裂けても言わないだろう。
でも俺は今、現実が怖いと思っているターボにこの話を聞いてほしかった。
「失敗した後、中央に入ってくるウマ娘は全員才能があって、それでも多くは未勝利のまま退学していくものだって慰められたよ……でもそうじゃない。学園を辞めたのは俺が未熟だったせいだ」
「そんなはずないよっ!! とれーなーは、ターボの世界一のとれーなーだもん!!」
「……ありがとな。でも、その頃の俺はダメダメだったんだよ。あの子が何を求めて、どんな思いで走っていたのかを知ろうともしていなかったんだ」
勝つことだけを目標に突っ走ってしまった。
観察眼を持った気になって、素質だけでウマ娘をスカウトして。その子がどんな想いを胸に抱いているのか、トゥインクルシリーズで何を成し遂げたいのか。それを知らなかった。
そんなことで足並みが揃うはずもない。あれは必然の失敗だった。
「あの時、トレーナーとしてやっていくのは無理だって思ったんだよ。俺にはあったのは無駄なプライドと、ウマ娘の知識だけ。俺の代わりはいくらでもいる。一時はトレーナーを辞めようとも思ってさ」
「違うっ!! 代わりなんていないもん! だって、とれーなーは……っ!!」
「ああ。ターボに会ったおかげで、俺は生まれ変われたんだ」
「へっ……?」
視線を海のほうからターボにうつす。かたくなに否定していたターボは、ぽかんとした表情で俺を見ていた。
最初のウマ娘に失敗した時は、俺にトレーナーとしての才能がなかったんだと思い込んだ。だが、レース場で一人で泣いていたターボと出会った俺は大切なことを教わった。
「練習用コースでターボと出会ったな。前のトレーナーに裏切られて途方に暮れていた時、俺に絶対に諦めないからなんとかしてくれって言っただろう」
「うん。ターボじゃどうしようもないからな」
「あの時、俺に欠けていたものは『諦めないこと』だって分かったんだ」
「う、うーん……でもそれってとれーなーのためじゃなくて、ターボが諦めたくなかっただけだぞ……?」
「そうだな。でも、俺は教えてもらったんだ。それがレースウマ娘にとっても、トレーナーにとっても一番大切なものだったんだよ」
あの時、俺は諦めてしまおうとしていた。平凡な人間がトレーナーになんてなれるはずがなかったんだと思い込んで理由作りをしていた。初めて自分の人生をどうすればよいか分からなくなって、逃げ出そうとしていた。
しかしターボは違った。いつも諦めないと言い張って、諦めなければやれるんだと証明してきた。
「レースで負けるのは辛いし、退学になるのはもっと辛い。トレーナーに見捨てられるなんて最悪だ」
「…………」
「それでも一度たりとも諦めなかった。だから俺はこの子なら必ず夢を叶えられると思った」
未勝利戦に負けても頑張ってやり直せばいい。それを胸を張って言えるウマ娘はきっと、この世にこの子しかいない。どんな結果でも俺は、生涯誇りを持ってツインターボこそ一番のウマ娘だと自慢するのだろう。
地方に行くことなんて屁でもないと思った。この子の夢を叶えるためなら、なんだってやれると思った。俺自身がターボのようになりたいと思った。だから俺はターボのことをスカウトした。
今もツインターボと支えあって、一緒に同じ夢を叶えたいと心の底から思っている。
「今、ターボが感じているそれは、怖いっていう気持ちだと思うんだ」
「怖い……」
口を閉ざして話を聞いていたターボは真剣な顔で胸に手を当てて、自分の感情の流れとその正体を感じ取ろうとした。
「本番のGⅠでメジロマックイーンに勝てないかもしれない。オグリやほかのみんなに勝てないかもしれない。そう思うのは変なことじゃない。レースをしているんだから、怖いと思うのは当たり前だ」
「そうかも……」
「他にもあるぞ。大逃げを選んだ理由を聞いたことがあったと思うが……先頭を走るのが楽しいからだと言っていたな。でも、他のウマ娘に囲まれて走るのが怖いからという理由もある。そうだろう」
「……うん。そうだよ、とれーなー」
ターボが大逃げを選んだ理由については察していたが、俺たちの間では暗黙の了解だった。しかしあえて初めて言葉にした。もちろん本人には気まずい話だろう。だが咎めるつもりで話したわけではなく、俺がそんなことで怒ることはないと知っている。若干間が開きつつも頷いた。
「それでいいんだ。怖いことなんてあって当たり前さ」
ツインターボは諦めない。
諦めないというのは誰にでもできることじゃない。諦めなければ、かわりに心が擦り切れていくからだ。
今のターボは自分の実力と最強との差が開いていることを認めた。漠然と感じていた時よりも、実力を計れるようになった今の方が焦る気持ちは鮮明なはずだ。並のウマ娘なら入着に目標を下げたり、無意識にトレーニングを避けたりするところだが……その気配は全くない。
だから一緒にレースを走っている俺が、諦めないターボの心を支えるのだ。
「怖がってもいい。ただ、どうしても辛くなって限界だって思ったら、二人で奇跡を起こしたことを思い出してほしいんだ」
俺たちは、どんな絶望的な状況でも諦めなかった。
最後の未勝利戦で二着以外の結果だったら、秋川理事長は説得できなかった。
誰よりも早く中央を離れて地方に移籍していなければ、スカウトレディのマルゼンスキーに出会うことはなかった。オグリともライバル関係にならなかったかもしれない。
諦めなかったからこそ掴んだ奇跡は山ほどある。だから一緒に歩いてきたこの一年をどうか思い出してほしい。夜風で冷えたターボの手をとって両手で握りしめた。
「もう一度言おう。最後に夢を叶えて勝つのはツインターボだ」
「……ッ!!」
ツインターボを理解して支えたい。
それが、今の俺の全てだ。
「ターボが最強で最高のウマ娘になって、俺を世界一のトレーナーにしてくれ」
真っ直ぐに見つめて言い切った。ターボはしばらくうつむいたままだったけれど、やがて浴衣の袖でごしごしと目元をぬぐった。そして顔をあげる。月明かりに照らされたのは決意に満ちた表情だった。
「とれーなーっ。ターボね、とれーなーと会えてよかったよ!! あのとき拾ってくれなかったら、きっとターボ負けてた……!!」
前のめりに、両手の拳を握りしめたターボが鼻先までにじり迫ってきた。
「だからターボが勝つっ。とれーなーのために、ターボ絶対、GⅠで勝つから!!」
「うん」
「最強で最高のウマ娘になるっ。マックイーンだって倒すよっ。どんなレースだって勝ってみせるもん!!」
「俺が支えるよ。怖くても、辛くても、どんな時でも絶対に。この先どんなことがあってもターボの味方だ」
諦めない。
それは甘美で楽な言葉だが俺たちにとっては違う。現実に歩き始めて見えたのは過酷な茨道だったからだ。しかしそれでも、二人一緒なら夢を叶えられると信じている。
涙ぐみながらもギザギザ歯を見せて笑うターボが出してきた拳に、俺も拳を出してコツンと合わせた。夢を叶える前の道は続いている。ここから全力で走り切って勝利をもぎ取るのだ。
だから、最後まで一緒に行こう。
誰にも叶えられない、俺たちにしか叶えられない夢を叶えにいこう。