最強のウマ娘になることが、ツインターボの最初の夢だ。
最強とはつまり最も強いウマ娘のことだ。最も強いことを証明するためにはどうすればいいかとターボに聞いたことがあるのだが、とにかく強いウマ娘を倒しまくって勝ち続ければいいと答えた。端的で的を射た答えだ。つまり強敵を倒すことこそ、ツインターボ自身が望んだ『最強のウマ娘』の第一歩なのだ。
そしてターボは幼い頃抱いた夢に対して、誰よりも真摯だった。
厳しいトレーニングを課してきた。普通のウマ娘なら一日で音をあげるようなキツいメニューを指示してきた。だから辛いとぼやいたり、へろへろだと言うことはしょっちゅうだ。しかしターボは一度も弱音を吐いたことがない。トレーニングを無断でサボったこともなければ、反抗したこともなかった。
それは夢を叶えたいという気持ちの他に、二度と辛い思いをしたくないという気持ちがあったのだと思う。少しでも走る速度を緩めて失敗したら後悔する、と。そんな直感があったのかもしれない。夢を諦めない心を推進力にして、トゥインクルシリーズ・GⅡの舞台まで走ってきた。
だがGⅠに至る最後の壁で現れたのは、ターボを追い込んだトレーナーだった。正直なところ、俺はターボが調子を崩すと思った。しかしその予想は大きく外れた。
『とれーなー、勝つから』
勝つと。そう言い切った。
普段は子供っぽい表情と仕草を見せるターボの表情は鬼気迫っていた。先頭を突っ走ってレースを楽しむ、いつものツインターボはどこにもいなかった。勝たなければいけない。ただ勝つと、決意したことが伝わってきた。
オールカマーは、ツインターボにとって勝たなければいけないレースだ。
勝つことは夢の舞台に登ることを意味しており、そして過去の因縁を完全に断ち切ることを意味する。
だから俺もターボに勝ってほしいと心から願う。いつだってそうしてきたけれど、今日は特別だ。遥か遠いと思っていたGⅠのウマ娘。そして因縁のトレーナーと真っ向からぶつかる時が来た。
ターボを地下バ道まで送り届けたあと、控室で待っていたオグリを連れて上の観客席に向かった。オグリは廊下の外で何かがあったことに気づいていたようで、移動中に聞きたそうに俺を見ていたが、俺は何も言わなかった。それほど時間がなかったのと、どこで誰が聴き耳が立てているか分からないからだ。
観客席に登ると、大勢のファンがオールカマーの観戦にやってきていた。見渡す限りの人の波。かつての未勝利戦とは別格。GⅢよりもずっと観戦者は多くて圧巻だ。
そして当然のようにファンはオグリキャップを認知していた。一般客のいるエリアに姿を見せたとたんに、またしても、わっと大勢に囲まれた。おしくらまんじゅうのような人混みができあがって、カメラ付きのウマホを向けられたり、「握手してください!!」と迫られた。
「すみません通してください! 今日は別な子のレースなので、撮影は遠慮してくださいっ……!!」
俺は必死に声を張り上げた。すると今度も混乱が起きる前に、マナーの良い一部のファンが両腕を広げて、わざわざ体を張って道を開けてくれた。俺は頭を下げながら、オグリと一緒になんとかトレセン学園関係者用のエリアにやってきた。
「や、お疲れ様です、トレーナーさん。オグリ先輩もどもです」
たどり着くと、そこにはトレセン学園の制服を着たナイスネイチャがいた。ああ、そういえば今日はターボだけじゃなくイクノも出るもんな。軽く手をあげて挨拶をかえした。
「お疲れさん。はぁ、去年まではガラガラだったのに。今年のレースは全部この調子で参った……」
「慣れた方がいいですよ。これからも間違いなく引っ張りだこですし。てか去年のテイオーの時より大きなブームになってるんで。引退以降も覚悟しておいたほうがいいと思います」
「うへえマジか。ところでネイチャは一人みたいだけど。今日はイクノの応援だよな」
「それもありますけど……どっちかっていうと、ターボのことが心配で」
そう言うネイチャは腕を組んで不安げな雰囲気を出している。彼女も今日のレースでぶつかる相手が、親友の心を傷つけた因縁の相手だと知っているのだ。あからさまにソワソワと指先を動かして不安をあらわにしていた。
「あの時以来の中山レース場。しかも戦う相手がこれとは、できすぎてるよな」
「なんならトレーナーさんと一緒に未勝利戦を見ていたのも、ちょうどこの場所でしたね」
「なんの因果だろうな、ほんとに」
俺は準備中のコースを見下ろしながら、ネイチャとともに一年前を思い出した。
この中山レース場で、ターボと最後の未勝利戦を走った。苦しみながらも最後の直線で巻き返したが、差しきれずに、指先まで触れた希望は掴み逃した。
あの日、ツインターボは敗けた。掲示板を見上げながら動かなくなったターボの姿を思い出すと、今でも胸が絶望で満ちるような嫌な感覚が蘇る。俺が表情をしかめていると、とうとうオグリが耐えきれずに尋ねてきた。
「トレーナー。ターボは大丈夫なのか……?」
「大丈夫と言いたいところだが、今回ばかりは分からないな」
「分からないってどういうことだ」
「さっき、元トレーナーにバッタリ会ったんだ。少しだけ話もした」
「っ──」
横で聞いていたネイチャは息を呑んだ。オグリは薄々勘づいていたようだったが、沈痛な面持ちでうつむいた。
ターボの元トレーナーは今も所属は変わらない。罰も受けていない。いまだに納得のいく解決には至っていないのだ。そんな相手と出走レースがかぶったうえに、扉を出たら偶然出くわすなんて想像できなかった。
そしてターボの反応は未知だった。勝利に執念を燃やす姿は、どこか危うさを感じさせるものだった。例えるなら、暖炉にガソリンを撒いて燃やしているかのような状態だろうか。その精神は極限状態にあり、今日のターボがどんなレースを見せてくれるのか、正直全く予想がつかなかった。
「あからさまに悪い状態ってわけじゃないが、いつもの調子でもなかった」
「……こうなったからには勝って欲しいです」
「ああ。応援は俺たちに任せてくれ。君はイクノを応援してもらって……そういえば君のトレーナーはどこにいるんだ?」
あたりを探したが、そういえばネイチャとイクノのトレーナーがどこにも見当たらない。
「どうしても外せない用事があるとかで、別な場所からレースを見ていると言ってました」
「用事? こんな時に……?」
自分の担当ウマ娘が出走するGⅡレースを観戦する以上の重要な用事とはなんだろう? 俺が首を傾げたのを見て、ナイスネイチャが何かを言おうとしたが……しかしそれを遮るように中山レース場にファンファーレが鳴り響いた。
いよいよオールカマーが始まる。
あたりを見回すと観客席は大半が埋まっていた。やはり本日のメインレースであるこの回を目当てにやってきたファンが多いようで、会場の盛り上がりが一気に高まったのを感じた。そして実況に合わせて、地下バ道から続々とウマ娘が歩いて姿を表してくる。
『続きまして第11レース、芝2200メートルのGⅡオールカマー。天候曇り、バ場は良。十三人のウマ娘が出走します』
地下から登場したウマ娘は全員、体操服にゼッケン姿だ。まだ中高校生である彼女達に数万人のファンの視線が突き刺さる。
俺はまずその中の一人に着目した。
今日一番人気を勝ち取り、最も警戒すべきと考えている黒毛のウマ娘。ジャージ姿でありながら青い薔薇飾りのついた帽子をかぶって髪で片目を隠している。小柄なのに他のウマ娘より目立っている。彼女こそ『三強』の一人、ライスシャワーだ。
『1番人気はこの子、6枠8番、ライスシャワー』
『菊花賞や春の天皇賞などを制したことのある長距離最強ウマ娘。昨年度にはこのオールカマーと同距離のGⅠ・宝塚記念も勝利した実績もあります。今回も素晴らしいレースを見せてくれることでしょう』
観客の多さにも関わらず、ライスシャワーは特に動揺した様子もなく、応援しているファンのほうに向き直って小さく頭を下げることで声援にこたえていた。ターボと同じくかなり小柄で可愛らしい顔立ちをしている。礼儀正しくて、特に大観衆に怯んだり無意味に身構えている様子はない。
「……あんなに堂々として、大したもんだな」
こんな子と、ターボがぶつかるのか。今日は好調とも不調とも言い辛い微妙な調子だが……オグリと同種類の強者のオーラを纏っていて、俺には全く隙が見えなかった。……ターボは大丈夫だろうか。俺の胸の内に渦巻いた不安は大きかった。
『3番人気、5枠7番。イクノディクタス』
『昨年度のオールカマーで見事一着を勝ち取ったウマ娘です。表情も引き締まって気合い十分といったところ。多くのファンの期待を集めています』
合宿を共に過ごしたイクノディクタス。彼女もライスシャワーにならったのか、「がんばれイクノー!!」と応援してくれる観客席のファンに振り返って一礼した。さらにイクノは、俺たちのいる場所を見る。正確には俺ではなく、チームメイトのナイスネイチャに視線を送ったのだろう。
「イクノ、がんばって」
ネイチャが隣で小声でつぶやくと、それが伝わったのかイクノはふっと笑った。ああ、万全だ。やはり四年目のウマ娘。いまさら気負った様子もない。そのまま背を向けて進んでいく。
それからも名前を呼ばれたウマ娘から順にゲートへ向かう流れが続いて。いよいよ今日戦う、因縁の相手が育成している担当ウマ娘の順番が訪れた。
『7番人気、5枠6番ヒビノブラック』
呼ばれたのは深い黒毛のウマ娘だ。気だるげな表情を浮かべた彼女はゲートに近づくとゆっくりと結った髪を一撫でして──瞬間、まるでナイフのような鋭い気配を発した。視線の先は、当然ライスシャワーだ。
(ライスシャワーの後ろにつけて走る気か。あからさまだな……まあどのウマ娘もそんなものか)
ライスシャワーをマークするつもりなのが傍目にも分かったが、まあしかし今日出走するウマ娘はみんなライスシャワーただ一人を意識している。あのイクノディクタスでさえ鷹のような目でライスを見ている。ターボの元トレーナーは差し戦略を取るウマ娘の育成経験が豊富なので、その戦略で来るだろう。
誰もが一人のウマ娘を意識する、重々しいプレッシャーの最中。ただ一人だけライスシャワーを見ていないウマ娘がいた。ツインターボだ。
『8番人気、7枠11番ツインターボ』
ターボはゲート向こうの芝を見据えてゲートに歩いていくところだ。
だが、やっぱり様子が変だ。普段と違って俺たちのほうを振り向くこともしない。緊張しているのかと思ったが……それなら動作にぎこちなさが出るはず。周囲の気配を完全に無視して、ひたすらに目の前のレースに集中しているように見えた。
「ターボ、やっぱりなんか変だ」
「緊張してるのか。いや、あれはどうなんだ……?」
明らかに普段と違う様子にネイチャもオグリも戸惑っていた。その一方でターボの普段の姿を知らない初見の観客は、堂々としているように見えるその様子を好意的に捉えた。
「あれがオグリキャップのトレーナーが育成してるもう一人のウマ娘か」
「なんか凄い集中してるな。これは相当期待できるんじゃないか……?」
「相手がライスシャワーじゃなきゃ推してたんだけどなぁ」
ほぼ全員ライスを強く意識している中で、堂々と自分のレースをしようとしている姿が好印象だった様子。しかし期待をかけたのは一部のみで、多くの観客はライスシャワーが勝つとほぼ確信した様子でレースを見ていた。出走バの中でイクノディクタスを除いて、頭一つも二つも抜けているウマ娘だ。無理もない。
全員がゲートインすると観客もその瞬間を待つために静まっていく。全員が構える。
(俺から言えることは、もうない。勝ってくれ……!)
今までも勝つためにやってきたけれど、これほど勝って欲しいと願ったのは初めてだ。俺は祈りながらその瞬間を待った。
ゲートが開いた瞬間、出走した十三人のウマ娘がいっせいに飛び出した。そして注目を集めたのは、当然のようにツインターボだ。
『各ウマ娘、綺麗なスタート。先手を取ったのは11番ツインターボ……おっとすごい加速だ。グングンと後続を引き離していきます。13番ミラノシャドウ、10番ミリオンハート。1番シルバーストームと8番ライスシャワーが縦に続きます』
『先頭は随分と早いですね。掛かってしまっているのでしょうか』
誰一人として後をついていかない。どうやら『逃げ』戦略を取ったのはターボのみだった。まるで見えない誰かと競り合うかのようなスピードで、ターボはペース配分を完全無視して突っ走っていく。その様子に背後を走るウマ娘数人があからさまに動揺した表情を見せた。
それでもライスシャワー、イクノディクタスをはじめとした多くのウマ娘は動じない──ターボを追いかけなかった。俺はひとまず初手で潰される展開にならず、ほっと息をついた。これで『大逃げ』の大半は成ったようなものだ。あとは、ターボがどれだけ自分のレースを展開できるかにかかっている。
俺が胸を撫で下ろす一方でターボのレースが初見のファンはその突飛な戦略に驚かされていた。特にレースを熟知している者は怪訝そうな表情を隠さない。
「おいおい、GⅡでサイレンススズカの真似か。あれで本気でライスシャワーに勝つつもりなのか?」
「いや勝算がないわけじゃない。確かあの青いウマ娘、直近2回のGⅢで大逃げを成功させて勝っている。つまりあの走りは戦略、勝つつもりで走っているのは明らかだ」
「マジで!? 大逃げで高グレードレースを走ってたのか!」
「ああ。だがそれでも今回の距離は2200mと長すぎる。あの素質はスズカだから成立したもの。このまま逃げ切りが成立するとは思えない。あの小柄なウマ娘では無謀と言わざるをえないだろう」
一部、早口で喋っている声が聞こえてきた。レースに詳しい一部のファン達はターボの置かれている条件を極めて厳しいと見ていた。破滅的なハイペースを繰り出すターボが最後まで走り切れると判断しているのは、その指示を出したトレーナーのみだ。
そんな大逃げレースを、誰よりも冷ややかな目で見ている者がいた。スーツ姿の元トレーナーは、薄暗い通路からレースの様子を見下ろしていた。先頭をひたすらに突っ走る青毛のウマ娘の姿を腕を組んで見下ろし、哀れみと嘲りの感情をはっきりと面に出して嘲笑う。
「目立ちたがりの愚かしい子。一般人でも分かるような単純な話を、ついに理解できなかったのね」
口にした呟きは、誰にも聞かれない。
彼女にとってターボが出走するのは青天の霹靂だった。だが、未勝利戦にどうやって勝ったのかは興味もなかった。所詮ろくなウマ娘ではない。このレースは奇策と運で勝てるほど甘くないことを知っている。一見リードをとって突き放しているように見えるが、必ずどこかのタイミングでボロが出ると確信している故の嘲笑だった。
ツインターボに2200メートルを走り切る能力はない。
それが出走ウマ娘を含めた全員の統一した見解だ。そうであれば、いないものとしてレースを扱うべきだ。元トレーナーは自視線を10バ身以上後方を走っているウマ娘のバ群に戻した。
そしてバ群に属しているウマ娘の視点では、大丈夫だと分かっていても焦燥感があった。開けられた差が大きすぎて、背中が見えなくなっていたからだ。彼女たちの心の支えになっているのは、漆黒の衣装に身を包んだGⅠウマ娘・ライスシャワーだ。彼女が落ち着いて走っている限り大丈夫だろうと、胸を撫で下ろしていた。
そしてターボの元トレーナーの指示通り、ウマ娘・ヒビノブラックはライスシャワーの背後にぴたりとつけて、風避けとしてうまく利用していた。いわゆるスリップストリームだ。ポジションを獲得できたおかげで体力を温存できている。レース展開について思考を回す余裕があった。
(もう見えない。でも、問題ない。あの青いウマ娘は必ず落ちてくる。考えるのは自分が仕掛けるタイミングだけでいい)
現在は6番手。やはり背中も見えないことに不安は残ったが、トレーナーから有象無象と言われていたことや、また『大逃げ』の先駆者・サイレンススズカとの対戦経験のあるウマ娘が冷静に走っている故に問題ないと判断。ならば勝負の鍵はやはりライスシャワーだと、前を見据える。
(今日のライスシャワーは絶好調って感じじゃない。あの未勝利ウマ娘のおかげでペースを乱しているやつも多い。後ろの緑のやつが厄介だけど、それだけなら……!)
ブラックは他のウマ娘ほど末脚に自信があるわけではないため、慎重にならなければならない。だが今日はツいてると、そう考えた。一番の障害であると思っていたライスシャワーに、GⅠを連勝してきた時のような怖さが感じられなかったからだ。傍目には分かりづらいが、不調だったということだろう。
ならばトレーナーの言う通り
さらに、そのブラックの背後をとった古参ウマ娘のイクノディクタスも意識しつつ距離を測る。一ヶ月半の合宿でターボのことを知ったイクノは、様子がおかしいことを感じていた。しかし今は自分の走りを冷静に貫いた。
実況解説や観客の歓声は、風切り音とレースの足音に紛れてほとんど聞こえない。彼女たちは呼吸の調子などからペース配分を守れていることを確かめて、緩やかなカーブが続くコースを疾走した。
ブラックは通り過ぎたハロン棒の数字で残り距離を確かめる。1000メートルを切った。ここまでレース展開は極めて順調だ。あとは仕掛けどころを見計らうだけだが……ここまできて、ある違和感を覚える。
(あの青いヤツが見えてもいい頃だと思うんだけど。どこにいる?)
あの目立ちまくっていた青い毛色のウマ娘の姿が、いつまでも見えない。カーブの最中でバ群が縦に伸びてしまったため、先行ウマ娘の影に隠れて見えなくなっている可能性が濃厚。ぶつかることだけは避けたいので位置だけでも意識をしておきたかったのだが……まあ見えないものは仕方ないか。ラストスパートに向けて集中力を高めておこう──
「っ、はっ、はぁっ……なにっ!?」
思考を中断され、慌てて声を出した。それは前を走っていたライスシャワーとの距離が、何の前触れもなくぐんと離れたからだ。末脚を発揮してスパートをかけてきたのだ。
(なんでこの残り距離で!? 終盤に差し掛かってもいないのに……!!)
あまりにも早すぎる。彼女らしくない不合理なタイミングだ。ライスシャワーの判断ミスという線は、ありえない。まさかこちらのペースを乱すためか。いや、意図が読めない……しかし分からなかったとしても判断を迫られる。
予想外の動きに、舌打ちしたい気持ちになったが悠長なことは言っていられない。他のウマ娘は間違いなく来る。ここで動かなければ前に出るのは厳しくなる。
(くそっ、今の早仕掛けのせいで前が詰まった……!! 走り辛いけど、でも脚は十分残ってる。これなら戦える。入着狙いには問題ない……!)
落ち着け。焦るな、大丈夫。
予定は狂ったが幸運もあった。もう一人注意するよう言われていた、背後のイクノディクタスが大きく動かなかったおかげで、ブラックは冷静でいることができたのだ。
他の数人のウマ娘は完全に焦ってライスシャワーを追い、不利な外側を通ってまで自分を追い抜いていく。だがそのペースで走るのはそれこそ破滅だ。ブラックはライバルが脱落したことを確信した。
『せ、──うッ! 残──ハ──ない!!』
ホームストレッチが近づいてくる。観客の歓声と実況解説の声がぼんやりと大きくなっていくのを感じる。風と息切れのせいで音までは聞き取れない。だが、終盤が近くなってきたため過熱しているのだろう。
(よしッ。ここから、本気で一気に全員──)
最後の直線手前。予定通り。ここから本気を出して、あとはゴールまで駆け抜けるだけだ。
『きたッ、ツイン──バ身、──いるッ!!』』
耳鳴りの中で、実況の声が断片的に聞こえてくる。
普段ならレースに集中するためにまったく聞き流しているところだ。しかし僅かにとらえた内容がウマ耳が言葉の意味をとらえた。ツイン……なんだって? 無視しようとしたが、脳裏に何かが引っかかる。
「何だ、この興奮した声色──ッ!? しまった……!!」
意識を逸らしたのは一瞬だった。瞬間、それまで背後につけていたイクノディクタスが滑り込んで、真横を抜き去った。慌てて残していた末脚を使って後を追うが──集中は乱れた。先にスパートをかけたライスシャワーとの距離がさらに離れていく。
真っ向からの末脚勝負では追いつけない。避けられる失敗をしたことを悔やんで、歯噛みした。
(いや待て。ライスは、いい。だが、あのウマ娘はどこにいる──?)
視線を前に向けたまま直線に入ると、視界にはペースを乱され、ライスシャワーの早すぎるスパートで体力切れに追い込まれた他のウマ娘が下がっていく。その途中で、青い毛色をとらえた覚えがないことにやっと気づいた。自分より背後に落ちて戻れなくなったほかのウマ娘の中に、あの大逃げウマの姿はない。
ありえない。そんなことがありえるはずがない。
だが、不自然なタイミングでスパートをかけたライスシャワー。最後の直線まで走っても見えない青い背中。その二つの要素が最悪の想像を掻き立てる。集中力が奪われることも無視してウマ耳を澄ませて、ブラックは本気で実況の声を聞いた。
『ツインターボ先頭で200メートルを切った! ライスシャワー追いかけるが、まだ大きく離れているッ!! 未勝利ウマ娘ツインターボ、新たな大逃げ伝説を携えて、GⅡに王手をかけたッッ!! 残り100メートル──』
やっと、見えた。
前を往くウマ娘はライスシャワーとイクノディクタス、さらにほかに二人。その遥か遠くの先頭に青い毛並みが見えた。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
ブラックの感情が激しく乱れ、全身の毛が逆立った。保つはずがない。だって、あの距離をあんな破滅的なペースで走り切れるなんてありえないってトレーナーも言っていた。認められない。認めてたまるか。焦って一着を奪いにかかるが、これ以上の末脚を発揮するのは不可能だ。
数秒後、観客がわっと歓声をあげたのが聞こえてしまった。
『ツインターボ!! 堂々の逃げ切りがあった! ツインターボ、先頭ゴールインッ!!』
決着がついた。
悠々とリードを取って先着したウマ娘の姿に、全ての観客は空いた口が塞がらなくなった。遅れてコースを走り終えてスピードを緩めたウマ娘たちも、わけもわからず唖然としていた。それは王者として君臨していたライスシャワーでさえも例外ではない。信じられないという表情で目を見開いていた。
驚くべきレース展開で、歴戦のウマ娘から勝利をもぎ取った
観客達は、かつての伝説を思い出した。
「本物だ。サイレンススズカの再来だ」
「嘘だろ、この距離を逃げ切ったのか……」
かつて同じ戦法でレースを圧倒して、人々の心を掴んだウマ娘がいた。空を見上げながら立ち、ほかのどのウマ娘よりも激しいペースで胸を上下させている小さなウマ娘を伝説と重ねた。
いまだ我にかえることができていないウマ娘たちの最中で、実況解説が結果を告げる。
『着順が確定しました。1着は11番ツインターボ、勝ち時計2分11秒2でレコード勝ち。2着1番シルバーストーム、5バ身差。3着は2バ身差ライスシャワー。4着、クビ差でミラノシャドウ。5着、1バ身差でイクノディクタス』
『大逃げでレースレコードが出ましたか。これは新しい伝説の誕生ですよ。言葉もありません。あのサイレンススズカを思い出させる、とても見事なレースでした』
勝者を讃える声は間違いなくそこにあって、しかし何かの間違いだと叫びたかった。
聞いてない聞いてない。こんなの聞いてないッ……!!
ブラックは認められなかった。ライスシャワーは悔しさに伏せた表情を歪ませた。イクノディクタスは精根使い果たしていたが、達観したように微笑んで勝者を見つめていた。そしてそれ以外。レースを見ていたトレーナーやウマ娘たちは、信じられないという気持ちを隠しきれないでいた。
恐ろしいほどの圧勝を達成したターボは、膝をつくことなく観客席のほうを向いた。そして勝者が自分なのだと示すかの如く片腕を上げる。
スタンディングポーズ。
レースウマ娘の存在証明であり、ここで勝ったのだと主張する示威行為。その仕草を見た観客は、新しいスターウマ娘の誕生を知った。
「なぜっ!! こんなことはあり得ない!! あの屑ウマ娘に、あんな実力があるはずないッ!!」
予想を裏切られたトレーナーは、持っていたタブレットを握る力で軋ませた。行き場のない怒りのようなものが湧き上がってきて手が大きく震える。断じて認められない。認めてなるものか。
元トレーナーはメガネフレームの裏側で青筋を立てて歯をギリリときしませる。
ツインターボは退学になって当然の弱者だった。すぐに駄々をこねてワガママ放題。それを貫き通すだけの実力なんて持ち合わせていない。トレセンの合格基準スレスレの実力の持ち主。それだけの名前を覚える価値すらない存在で、そうでなければならなかった。
「あの新人トレーナー……っ。あれが余計なことをした。あれさえいなければ、今日のレースは勝てていた内容だった!!」
くぐもった歓声から背を向けて、関係者エリアの通路の壁を拳で叩きつける。屈辱だ。
オグリキャップのトレーナー、あれが邪魔をした。あんな新人に自分が妨害されたという事実がプライドを傷つける。こんなことなら、オールカマーの出走表でツインターボの名前を見つけた時に潰す計画を立てるべきだった。
元トレーナーの瞳の内に、鬼が宿る。こうなったら手を考えるしかないと。このまま野放しにしておくものか。
「潰す。あの恩知らずウマ娘、必ずこの手で……」
「いいえ。そういうわけにはいきません」
「……っ!?」
唐突に、背後に現れた人の気配。振り返るとそこにいたのは二人。
特異な緑の衣装を着た女性のほうは、トレセン学園理事長秘書の駿川たづなとすぐに分かった。男のほうは……今日走っていたイクノディクタスのトレーナーだ。彼は不気味な笑顔を浮かべている。
しまった、失言を聞かれたかと口をつぐむ。トレーナーの建前上不味い発言だったが……しかし、このくらいならなんとでも誤魔化せる。すぐに深呼吸して冷静になった。鬼の本心を奥底に隠して表情を取り繕い、無感情に飄々と言葉を返す。
「失礼。私の担当が敗北して気分が昂ってしまったようです」
「それにしては物騒な言葉でしたが」
「自分の担当があれほどの大差をつけられたのです。トレーナーとして平静を乱されるのは当然かと」
口を回しながら、脳内でこの状況について思案する。彼女のトレーナーがいるのは理解できるが、なぜ理事長秘書の駿川たづながここにいるのかと。トレセン学園が自分を嗅ぎ回っているのは知っているが、証拠がない以上は動けないはずだ……しかし、黙ったままこちらを見ているのが極めて不気味だ。
「そうですか。確かにあなたの担当されている彼女は優秀なウマ娘だ。GⅢを二勝、素晴らしい結果を残しています。深く想いを賭ける気持ちもわかる」
「……嫌味ですか? あなたのところの担当は、GⅠの常連でしょう」
「いえ、心からそう思っていますよ。才能、努力、運。この全てを求められるトゥインクルシリーズで結果を出せるウマ娘は限られている。ですが……その結果が、多くのウマ娘を切り捨てた結果であることが悲しくてなりません」
「…………」
元トレーナーはやっと本題に入ったかと警戒心を高める。なるほど、最初からこいつはツインターボの契約解除についての探りを入れるつもりだったのだ。この場には三人のみしかいないが、くだらない失言があってはたまらない。今までそうしてきたように、しらばっくれた。
「何を言っているのかわかりませんね」
「優秀なウマ娘をスカウトするために不正な方法で契約破棄をしましたね。契約時の指導も放棄されている。それもツインターボさんに限った話ではありません。この数年、あなたはトゥインクルシリーズに送り出した以上のウマ娘を見捨ててきた」
責めるような鋭い視線に睨まれるが、勘付かれないように飄々とかえした。
「確かに夢を諦めざるを得なくなったウマ娘がいたことは事実です、認めましょう。ですがその発言、言葉が過ぎますね。彼女は自分から走ることを辞めたのです」
「ツインターボさんは、諦めずにこうして走っていますよ」
「偶然今のトレーナーが拾って結果を出したようですが、それまではやる気など感じられませんでしたよ」
発言した瞬間、たづなさんの背後に黒い怒りのオーラが舞った。一瞬、ゾクリと背筋が凍えたが、気付かなかったふりをして無視する。やる気なんて客観的なものだ。当人のやる気の有無など傍から見て分かるものではないし、最後は結果を出せなかったことだけが重んじられるものだ。
そう、彼女には結果が必要だった。
クラシック級でありながら未勝利戦に勝てないウマ娘は、トレーナーの足を引っ張る。新人のやる気を削ぐうえに、未勝利のまま引退となれば経歴にも傷がつく。だから捨てた。これまでもそうしてきた。ウマ娘は力こそ強いが、無知な中高生だから騙すくらいわけない。
証拠など残していないのだから、これ以上の追求はできないだろうと笑みを浮かべる。
「自分から告白する気はない……と?」
「もう一度言いますが、何を仰りたいのか分かりませんね」
「私は担当のネイチャさんを通して、ツインターボさんを見てきました。ターボさんは傷つきながらも、あなたを最後まで信じていた」
「しつこいですよ。私には何の関係もありません」
「……本当に残念です」
イクノディクタスのトレーナーは表情に暗い影を落としながら、ポケットから何の変哲もないレコーダーを出してみせた。何だ。それで何をしようというのか。警戒して何も言わないよう口をつぐんでいると、彼は再生ボタンを押して音声を聞かせてきた。
『──努力せず才能もないウマ娘は勝てない。弱いウマ娘に構っている時間はありません』
『だからターボのこと騙したの!? ターボ、とれーなーと頑張りたかったのに。勝つために一生懸命走ったのに……!! なんでとれーなーやめちゃったの!?』
『勝てないあなたは不要だった、それだけのことです。あなたのようなウマ娘は、私には必要なかった』
笑みは消えて、表情が凍った。
再生されたのはツインターボと自身の声、レース前に関係者用の通路で言い争った時のものだ。録音は騙されたと訴えるウマ娘の発言を認めるものだった。
普段なら決して油断せずに言質を取られるような真似はしない。しかし自分が小馬鹿にしてきたウマ娘相手には別だった。だがなぜ、そんなものが録られているのか──
「っ、お前ッ! それは!!」
「実は私、このレースに出走しているウマ娘のトレーナーでして。ミーティング中に
彼は白々しく言った。すでに信頼を失いかけていて、証拠を求められていた彼女にとっては致命傷だ。必死に言い訳を考えたが、この状況を打開する方法を思いつかず冷や汗が流れた。
彼女が何かを言うより前に、それまで笑顔を浮かべたまま黙っていたたづなさんが前に出る。
「この件、学園で詳しいお話を伺ってもよろしいですか」
事務的な口調で、顔はまるで笑っていない。
仕事で使ってきたタブレットを固く握りながら恨んだが、全ては手遅れだ。トレセン学園側が欲していた証拠が取られてしまってはどうしようもない。
数々のウマ娘を道具として扱ってきたトレーナーは反抗的な感情をあらわにしたが、物陰に控えていた数人のURAスタッフと駿川たづなに連行されてレース場から姿を消した。
その日から学園に姿を見せることはなくなった。
育成実績を持つ彼女は、二度とウマ娘に関係する職につくことはなかった。