【完結】ツインターボは諦めない   作:クロ

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第34話 GⅠ

 

 

 

 ターボは生まれてからずっと見てきた夢がある。

 

 学校や遊びで体力を使い果たして、実家でぶっ倒れて疲れ果てて眠っているときに特に多い。ずっと繰り返して同じ夢を見ていた。夢の景色は、決まって全力でレースを走っているところから始まった。

 

 夢の景色は決まって何も見えない。真横のレーンと地面の芝生以外は何も見えず闇に包まれている。何度か景色を見ようとしたことがあるけれど、普段と違うものが見えたことはなかった。

 

 前方に太陽のような光が見えて、後方からは闇が迫ってくる。闇の中からは走行音が近づいてくる。姿は見えないけれど、たくさんのウマ娘の蹄鉄の音だ。ターボは毎回そこから追い立てられるように、限界ギリギリで体力の限り逃げ続けていた。

 

 

『ハッ、ハアッ……!! ハッハッ……!!』

 

 

 迫ってくる『何か』から逃げる。脚を必死に動かして心臓が張り裂けそうになっても逃げ続ける。

 

 ほかのウマ娘が同じ夢を見たのなら、悪夢と認識するだろう。ターボも同じように感じている。しかし限界ギリギリで走っている時の快感もある。闇に飲み込まれたら良くないことが起こり、逃げ切って光の中に届けば幸せになれると分かっていたが、いつも途中で夢が終わってしまうので『悪夢』とも『楽しい夢』とも言いきれず。好きと嫌いが混在して毎回微妙な気持ちで目覚めていた。

 

 中央トレセン学園に入ってからこの話をしたのは、寝坊したターボを説教しに来ていた寮長のヒシアマゾンだけだった。悪夢のことを自分から話すのは何となく嫌だったし、ただの夢だと割り切っていたのだ。小さな頃から何度も見ている夢だったので慣れきって、誰かに相談したいと思うほどの不安も感じていなかった。

 

 

 

 

 夢の結末が変わったのは、トゥインクルシリーズを走るようになってからだ。

 

 

 最初は復帰して最初のレース、GⅢ・福島ウマ娘ステークスの前日だった。

 

 いつものように全力でコースを走って暗闇から必死に逃げていたのだが、その日は特に現実感があった。全然知らないコースのはずなのになぜか懐かしくて。普段よりも背後から近づいてくる足音を突き放せていたのだ。

 

 ターボは闇を置き去りにして最後まで逃げ切って、生涯届かなかった光の中に飛び込んだ。

 

 

 身体が溶けるような解放感が全身を包んだ。胸がポカポカして興奮が冷めない。現実のレースで勝利をおさめた時と何ら変わらない心地よさだった。ベットで目覚めたあとしばらく寝ぼけたまま、まだレースが始まっていないことに戸惑ったくらいだ。

 

 そして次の七夕賞、オールカマーも同じ夢を見た。

 

 最後まで逃げ切ってレースに勝利する夢を見て、その後で実際に勝ったことで、ジンクスの存在をヒシヒシと感じたターボは「勝てる夢を見たらレースに勝てるんだな!」と考えた。夢のおかげなのか、レース当日は日常の時よりも体の調子はすこぶるよく、トレーナーの想定以上のパフォーマンスを発揮することができていた。

 

 だからターボは、レース前にこの夢を見るのが楽しみになっていた。

 

 

 

 

 

 そして、最終目標であるGⅠレースの出走前日の夜中。 

 

 ツインターボはまるで現実のような、いつもと同じ夢を見た。いつの間にか殺風景なレース場を全速力で走っている。背後の闇に紛れて迫ってくる無数の蹄鉄の足音から逃げていた。

 

 

『ハッ、はひっ。ハッ……はぁっ、はぁっ……!』

 

 

 夢の景色は同じでも、今日は普段と全く調子が違っていた。

 

 まず脚がトレーニング用の重りが取り付いたみたいに重くて、思ったように動いてくれない。どんなに呼吸をしても楽にならなくて心臓が張り裂けてしまいそうだ。胸で鳴っているはずの心臓の鼓動が耳元でバクバクとうるさく響いている。

 

 背後から迫ってくる闇も普段よりもずっと近い。引き離そうと必死に逃げているのに、距離は全然離れてくれない。いつもみたいに悠々と逃げられない。このままだと捕まってしまうかもしれないと感じて、生々しい恐怖心が芽生えた。

 

 だから無理をした。無茶をして逃げた。そして身体に限界がきた。

 

 

『あ、ぁ……っ』

 

 

 必死に逃げ続けたことが祟って身体が動かなくなっていく。カーブを曲がりながら急激にスピードが落ちていくのを感じる。減速が止まらないのに、背中のウマ娘の足音がどんどん迫ってくる。

 

 諦めたくないのに、もう体は動かない。

 

 背後から迫ってくる足音に飲まれて『闇』に全身がとらわれた。自分を置き去りにして数えきれないほどの足音が過ぎ去っていく。手の届く場所にあったはずの『光』は見えなくなった。幸せが、手の届かない場所へと遠のいていく。

 

 夢は、二度と取り戻せない場所へ消えた。

 

 

 

 

 

「っ──!?」

 

 

 寝巻きを濡らすほど冷や汗を流していたターボは、飛び起きた。そして胸に手を当てて懸命に呼吸を整える。まるで全力疾走した後のような体調だ。まずここが中央トレセン学園の美浦寮の自室だと思い出して、ようやく今のが夢だったのだと自覚した。

 

 

「はっ、ハッ、ハッハッ……!!!」

 

 

 ターボの心臓はバクバクと鳴っていた。どうしようもなく息が苦しくて辛い。そして余裕が出てくると、少しでも恐怖から逃れるために、一緒に布団の中で寝ていたツギハギウサギのぬいぐるみを強く抱きしめた。

 

 前日まで楽しみで寝れないくらい興奮していたのに、それが一転した。

 

 大切なレース前日の夢で負けた。子供の頃から見てきた夢が符号したことも運命と感じていただけに大きなショックだった。しかしそれだけでは済まない。

 

 

「ターボ、負けるの?」

 

 

 実際に負けてしまうのかと。恐怖のあまり、目尻に涙を溜めた。

 

 三度のレースで勝ったジンクスがあるぶん、いまさらただの夢だと否定することはできなかった。忘れようとしても、夢で敗北した時の絶望感が胸にこびりついて離れない。ぬいぐるみを抱きしめながら心細い気持ちを吐き出した。

 

 

「やだ。やだっ。とれーなー……たすけて……」

 

 

 最高の大舞台を前に、ターボの心の中は不安の闇に包まれた。

 

 しかしその助けを聞きつける者は誰もいない。

 

 

 長年の夢を叶えるための、秋の天皇賞の当日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GⅠ・秋の天皇賞。

 

 日本の象徴たる名前を冠した、トゥインクルシリーズ最高グレードのレースだ。オグリキャップの名前を日本中に広めた日本ダービーと同じ東京レース場で行われる。長年の夢を叶えるための舞台としてこれ以上にふさわしい場所はないだろう。

 

 

「よし。そろそろ到着するから準備しておいてくれ」

 

 

 俺はバイクでも普段借りているワゴン車でもなく、高級感のある黒い専用車にオグリとターボの二人を乗せて会場まで走ってきた。すると助手席のオグリが首をかしげた。

 

 

「トレーナー、人だかりができていて通れなさそうだぞ」

「本当だ。何かあったのか?」

 

 

 駐車場に入る直前の道に肩で背負うような巨大なカメラや、手にマイクを持ったメディア陣が並んでいたのだ。今日のレースの取材だろうが、どうしてこんなところにいるのだろう。のんきにそんなことを考えながら車を入れようとする。

 

 そこで空気が変わった。メディアの彼らは俺たちを見たとたん、まるで磁石に引かれる砂鉄のように一斉に、そして大量に車に詰めかけてきたのだ。全員が一目散に迫ってくるものだからめちゃくちゃ驚いた。

 

 

「なんだこいつら!?」

 

 

 彼らは外から必死な形相でこちらに何かを訴えていて、俺はたいそうビビり散らかした。ガラスが厚いおかげでくぐもった音しか聞こえない。だが熱量は全部伝わってきてすごく怖い。

 

 

『今日のレース──ツイン──少し、お話をっ──』

『──キャップさん、今のお気持ちは──』

 

 

 彼らはどうやらガラス越しに俺たちを見つけて、あわよくばコメントを貰おうと押しかけているようだった。一部だが、二人の姿を一目見ようと身を乗り出しているファンの姿もある。彼らの目当てはターボとオグリだ。ハンドルを握っている俺はドン引いた。

 

 

「う、うわあ。走りづら……」

「おお。レースで、ほかのウマ娘に囲まれた時みたいだな」

 

 

 助手席に座っているオグリが、分かるような分からないような感想をぼんやり口にした。これがオグリキャップの見ている景色なのか……と俺はブレーキを踏み続けながら現実逃避した。レース中にこれと同じような景色が見えているのなら、さぞ走り辛いだろう。

 

 幸いなことに、すぐに駆けつけたURAのスタッフがメディアを誘導して道を開けてくれた。おかげでなんとか問題なく前に進むことができた。関係者専用エリアまで来て停車。エンジンを切ってホッと胸を撫で下ろす。

 

 

「やっと着いた……まいったな」

「トレーナー。手、震えているぞ」

「えっ。ああ……そうだな」

 

 

 オグリがハンドルを握る俺の手を指差した。確かに小刻みに震えている。

 

 

「緊張しているのか?」

「……まあ。今日のレースに勝ちたくて、今まで頑張ってきたわけだからな」

 

 

 手の震えを誤魔化すように抑えた。何せ今日は生涯で最も特別なレースの日。全てを失う覚悟で一緒に人生を賭けて身を投じて、歴史上誰一人歩いてこなかった茨道を二人三脚で歩いてきた。全て夢を叶えるためだ。そして今日がその最後の一歩。

 

 中央トレセン学園復帰も、オールカマー勝利も奇跡だが途中経過でしかない。文字通り死ぬ気でやってきたのは今日このレースに勝つためだ。

 

 

 しかし一番に緊張しているのも、重圧を感じているのも、俺じゃない。

 

 ルームミラーに視線を向けて確認する。トレセン学園の制服姿のまま後ろに乗ったターボがいた。神妙な表情のまま黙ってそこに座っている。今日のレースに集中しているようにも見えるが……今日は何かを我慢しているみたいで、ぜんぜん顔をあげようとしない。

 

 

「ターボ、行かないと。勝負服に着替える時間がなくなっちゃうぞ」

「え……あっ。わ、わかったぞっ!」

 

 

 声をかけると慌てて勝負服の入ったスーツケースを手に、車から飛び出した。

 

 一見すると元気なように見えるけれど、どうにも様子がおかしい。

 

 変なのは、まず目線が合わないことだ。下を向いて、何か別のことを考えているみたいに唇を結んでいる。今朝からこういう弱気な顔が見え隠れしている。メンタルは不調。いや、絶不調と言ってもいい。

 

 昨日まで「マックイーンを倒す!」と言い張っていた勢いと自信をすっかり失ってしまっている。

 

 

(これは……良くないな)

 

 

 単に本番直前でナイーブになっているだけなのか、それとも何かがあったのか。控室に向かっている間もずっとそんな感じだったので、さすがのオグリも心配して声をかけていた。その時だけは笑顔を作って「大丈夫だぞ」と言いはった。

 

 そして勝負服に着替えたのだが、やっぱりだめだった。大好きなカラフルな衣装をまとったあとも黙り込んでしまったまま。胸からさげたぬいぐるみを抱いたままうつむいている。

 

 

「ターボ、本当に大丈夫なのか……? 何か私にできることはないか?」

「大丈夫。ターボ、ちゃんとやるからっ」

 

 

 強引に言い切ったが、どう見てもちゃんとやれる雰囲気ではない。ぬいぐるみを抱く腕が震えていた。当然オグリも心配したが、だからといって何かができるわけでもない。

 

 ……こういう時は俺の役目だ。何があったのかは分からないけれど、このままレースを走らせるわけにはいかない。

 

 

「よし。作戦会議をしよう」

 

 

 俺はそう言ってすぐにオグリに目配せした。別に他のウマ娘の対策を本気でしたいわけじゃない……というか、取れる作戦が大逃げだから対策できない。だから、この提案は時間稼ぎの意味合いしかない。

 

 

「オグリ。すまないが、少し二人にしてもらえないか」

「……分かった。私は先に行って待っているよ」

 

 

 オグリは少し寂しそうだったが、俺にこの場を任せて部屋をあとにした。これ以上ここにいても自分には何もできないと感じて任せてくれたのだ。

 

 

 二人きりになって、ターボは小動物のように唇を噛んでいた。両手を膝の上に置いたまま動こうとしない。俺やオグリに心配をかけまいとして、怖いと思う気持ちをこらえているのだろう。

 

 俺は緊張したターボの拳を覆うように手のひらを重ねて震えを抑えた。

 

 

「とれーなー……?」

「まだ時間がある。脚を見せてくれるか。全力で走れるように調子を確認しよう」

 

 

 ターボはぽかんとした表情を浮かべたが、頷いた。

 

 俺は椅子に腰掛けたターボの勝負服の黒インナーに触れる。生地越しに、指先で脚の筋肉を押して確認を進めていく。昨日の晩にも確認したので当然だが違和感は伝わってこない。こんなことを提案した理由は、ターボと話す時間が欲しかったためだ。

 

 

「うん。バッチリだ。これなら完璧に走れる」

「…………」

「こうやって脚を見るようになったのは、一緒にカサマツに移籍してからだったっけな」

「う、うん。そうだね、とれーなー」

 

 

 脚から手を離して見上げると、ターボは気まずそうに視線を横にそらした。俺はあくまで優しく語りかける。

 

 

「凄いよな。始めた頃はまだ一勝しただけだったのに、今日はトゥインクルシリーズのGⅠだ。この間トロフィーを並べた時にも、あんなにたくさんレースを走ってきたんだって、びっくりしたよ」

「うん……ターボ、たくさん走った」

「さっき入り口で待っていた人だかりを見てたか。みんなターボ目当てだ。コースには何万人のファンが待ってると思う? 宣伝看板にもターボの写真が使われまくってたし、すっかり有名ウマ娘だな」

 

 

 全く無名だったツインターボの注目度は、これまでが嘘のように跳ね上がった。

 

 それまでも兆候はあったけれど、オールカマーの勝利後から世間の流れが変わった。テレビは連日ターボのことを報道して、新聞記事には写真が掲載されて、天皇賞・秋の到来を告げる看板にはターボが胸を張って不敵な笑顔を浮かべるパターンの写真が採用されている。すでに名を馳せている『三強』に引けをとらない扱いだ。

 

 

「こんなに注目されたら、怖い気持ちが出てきて当然だよな」

「……でも、とれーなー」

「分かってる。今みたいな気持ちのままじゃターボ全開で走りきれない。そう思っているんだろう」

 

 

 泣きそうな顔で頷いて、ぐっと泣きそうになるのをこらえていた。

 

 今のメンタルの状態は退学がかかっていた未勝利戦の時にとても近い。ツインターボは、それで一度手痛い敗北を経験している。このまま走っても普段通りの実力を出すことができないと分かっているのだ。

 

 しかし逆に言えば場数を踏んでいるとも言える。色々なことを乗り越えてローカル重賞もGⅡも経験したターボが、感情面で突然つまづくとは思えない。性格は目立ちたがり屋ながら臆病なほうだ。しかし、苦境を乗り越えて強くなっている。

 

 

「今日ここに来るまでに何かあったのか?」

 

 

 だから何か原因があるに違いないと確信を持っていた。言い当てられたターボはわずかに体を揺らした。それでも黙っていたが、今の反応が何よりの答えだ。

 

 昨日はミーティング後夜に解散して寮まで送り届けて、その時は元気いっぱいだった。早朝に合流してからこの調子だ。僅かな間に寮で何かが起きたのだ。

 

 考えられることは限られている。レースでは臆病でも、いまさら他のウマ娘に惑わされるほどターボはやわじゃない。なら考えられる可能性は……

 

 

「ひょっとして悪い夢を見たか」

「えっ。とれーなー、なんでわかったの?」

 

 

 黙っていたターボは初めて顔をあげて驚いていた。

 

 言い当てた俺は驚きが半分。腑に落ちた気持ちがもう半分だ。いつだってターボのことを注意深く観察しているから分かったが、まさか本当にそうだとは思わなかった。

 

 GⅠに出走するレベルのウマ娘にまちまち起こる現象、予知夢。

 

 中央トレーナーが必ず注意するべき事象だ。今日走るレースに関する悪夢を見て、それがまるで現実に体験したかのようにリアルに感じたのなら納得できる。オールカマーが終わってすぐ後、ターボは自分が勝った理由の一つが『勝つ夢を見たからだ』と胸を張って教えてくれたことがあった。

 

 

「ターボのことなら何でも分かるさ。トレーナーだからな」

「とれーなー、やっぱりすごい……!!」

 

 

 ターボは目を輝かせて信頼を強めてくれた。そういう風に見てくれるのは嬉しいことだったが、今はそれを喜んでいる場合じゃない。

 

 

 ターボの言うそれが予知夢なら、かなり不味い状況だ。

 

 トレーナーの経験則で言うならば、ターボの見た夢は現実になる可能性が高い。夢を現実にしたくないのなら対策をしなくてはならない。オグリのときは対策をしていたので『悪夢』が現実になることはなかった。しかしターボの場合は何も手を打っていない。

 

 もし予知夢でなかったとしても、やはり良くない。勝つ夢を見たから勝ったと思っているということは、負ける夢を見た時には負けると思い込んでしまうということだ。

 

 

(くそっ。こんなことならトレーナー室で夢の話が出た時、もっとちゃんと聞いておけばよかった)

 

 

 これは心配事がありそうな様子に気づいていたのに、本番まで見逃してしまっていた俺のミスだ。しかし後悔するのは後回しだ。情報が必要だ。全てお見通しだぞと言わんばかりの余裕ありげな笑顔を見せたまま。動揺を顔に出さないように手汗を滲ませながら尋ねた。

 

 

「どんな夢だったのか、教えてくれるか」

「……ターボね、いつの間にか走ってるの。後ろからたくさんウマ娘がきて追いかけられて。でもゴールできなくて。追い抜かれて勝てなくなっちゃうんだ」

「レースに負けるってことか」

「最後まで逃げきれなくて、前のトレーナーと一緒にいた時みたいに負けちゃうの。それでみんなに置いていかれちゃうんだ」

 

 

 ターボは思い出すのも嫌だろうに、なんとか話してくれた。

 

 確かにそれは悪夢だ。ずっと立ちたかった夢のレースに出走する日にそんなものを見るのは、不吉すぎる。しかし良かったこともある。大怪我をしたり、二度と走れなくなるような致命的な夢じゃなかったということだ。

 

 

(今日の相手はメジロマックイーン。それにライスシャワー。イクノディクタスとも再戦だ。勝った以上、前回のような油断も期待できないだろうな)

 

 

 俺はターボを無条件で勝つと信じている盲目のトレーナーじゃない。レースが始まるまでは、負ける可能性を常に考えてそれを上回るようにトレーニングをする。だから誰よりも深く分析をするように努めているが……今回負けるのは十分にありえる未来だと分かっている。

 

 これまでのレースで対戦したウマ娘はターボの作戦を見誤った。それはターボがほぼ無名で、未勝利ウマ娘だと舐められていたがゆえのこと。しかしオールカマーはあまりにも印象深すぎた。注目度はぶっちぎりで一番だが、勝てるかと言われればかなり厳しいものがある。特に『三強』の二人はターボを研究してきているはずなのだ。

 

 

「確かに今日のレースの相手は今まで一番強い。ターボのことを警戒しているだろう」

「とれーなー、やっぱりターボ負けちゃうのか……?」

「ターボはどう思う?」

 

 

 俺は不安な気持ちを全部押し隠して真剣な顔で尋ねた。怖がっていたターボは何かを言おうとしたけれど口ごもった。結論は出ているけれど、口にしたくないのだろう。

 

 

「目をつむって」

「え……なんで?」

「いいから。最初に戦った未勝利戦のことを思い出すんだ」

 

 

 ターボは戸惑いつつも膝に手を置いて、その場で言われた通りに目をつむった。

 

 俺も未勝利戦の時を思い出した、あの時は何もしてやれないまま本番のレースに送り出してしまい、結局気持ちよく走らせてやることができなかった。しかし今は間に合った(・・・・・)。手も声も届く場所にいてくれる今なら、俺はターボを勇気づけてやることができる。

 

 

「あれが一緒に戦った最初のレースだったな。ラストチャンスだったのに大逃げに失敗して、失敗した時と同じように囲まれた」

「これで負けちゃうって思って、すっごく怖かった」

「でも、あの時は怖いのを振り切った。最後の最後でぶっちぎった」

「でも、ターボぜんぜんダメな走り方だったぞっ。それに負けちゃったし……」

 

 

 ターボのウマ耳が自信なさげにへにょる。だが俺はそうは思わない。

 

 

「ダメどころか、あれを見たからトレセンを辞める最後の決心がついたんだぞ。あれがなかったら理事長も説得できなかったし、きっと他のウマ娘にも応援してもらえなかった」

「負けたのに……?」

「ああ。あの時は死ぬほど悔しかったけど、同じくらいターボのトレーナーになってよかったって心から思ったよ。どんな時でも諦めないターボのことを、俺は好きになったんだ」

 

 

 退学寸前のウマ娘をスカウトするなんて正気じゃないと、周囲から何度も言われてきた。それでも迷わなかったのはあの時、ツインターボの走りに心底惚れてしまったせいだ。

 

 

「目を開けてみろ。誰がいる?」

「……とれーなーがいる」

「そうだ。俺は同じ夢を見られないけど、現実ではいつでも一緒にいてやれる」

 

 

 心を折られても何度も立ち上がって走り直した。ターボは奇跡を起こすべくして起こしてきた。

 

 

「だから現実で勝て、ターボ」

 

 

 悪夢ごときに俺たちの夢が阻まれてたまるものか。

 

 

「諦めなければやれるって今まで証明してきた。今日のレース、勝つのはツインターボだ」

 

 

 俺は今までの努力と成長を心の底から信じている。膝をついたまま両肩に手を置いてそこにしっかりと重さを乗せた。

 

 ターボの綺麗なオッドアイが流星のようにキラリと光った。涙をこらえるみたいに唇を噛み締める。すぐさま顔を伏せて、勢いよく両腕でツギハギウサギのぬいぐるみを抱きしめる。肩が小刻みに震えていた。

 

 

「……やっぱり怖いか?」

「こわいよ。でも負けたくない。勝って、最強で最高のウマ娘になりたい……!!」

「ああそうだ。辛くなって立ち止まりそうになった時は俺が背中を押してやる。怪我もさせない。勝たせてやるって約束したからな」

 

 

 ターボは怖がっていた。しかし最初と違って、ただ震えるばかりのプレッシャーに押し潰されたウマ娘ではなくなった。消えかけていた闘志が確かに戻ってきた。

 

 

「わかった! とれーなーを信じるっ……! 二人で勝って、夢を叶えるんだもん!」

「ああ、そうさ。俺たちは誰にも負けないんだ」

 

 

 ターボは多少無理をしてギザギザの歯を見せて笑っていた。最初のように他人を心配させまいとしているわけではない。自分を奮い立たせるための自分なりのメンタルコントロールだろう。しかし、どんな理由であれ笑えるのはターボの強さだ。

 

 

 正直、悪夢が現実になってしまわないか不安だ。

 

 しかし自信満々な態度で震えている小さな手を握りしめた。ターボも俺の手をずっと握りかえしていた。時間が来るまでそうやって過ごしていた。

 

 

 

 

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