夢のGⅠレースが始まる直前。
コース上が次レースに向けた整備を行っている最中、観客席では今日のレースのためにやってきたファンが、みんなわくわくとした表情でその時を待っていた。今回の秋の天皇賞の勝敗について、激しく議論が交わされていた。
「春の天皇賞ぶりの三強対決か。今日のレースは熱すぎる!!」
「ツインターボとライスシャワー、どっちが勝つんだろうな」
「ターボって、クラシック三冠候補のオグリキャップの姉妹弟子なんだろ。ここで勝ったら『三強』の顔ぶれが変わるかもしれないな!」
幾度となく戦ってきた『三強』のメジロマックイーンとライスシャワーの衝突。そして日本中の注目の的となった大逃げウマ娘・ツインターボの参戦。話題の中心は、その三人でほぼ決まりきっていた。
そして激論を交わしているのは一般席にとどまらない。
東京レース場、最上階の特別観客席。限られた者のみしか立ち入ることの許されない、URAや中央トレセン学園の関係者のようなVIPの集う間がある。ホテルのロビーのような温かみのある雰囲気の大部屋、テーブル席は大半が埋まっていた。杖をついてソファに座るシックなスーツ姿の老人と、実業家の青年が言葉を交わしていた。
「お久しぶりです、社長。前回のダービー以来でしたか」
「今回のレースはなかなか盛り上がっているね」
「ええ。久しぶりの『三強』対決ですし、その二人も引退が近いですからね」
二人は映画館のように壁に並んだ額縁に飾られている、数十のポスターに視線を向けた。その多くがメジロマックイーンとライスシャワーの対決を意識して、二人を正面から撮影したような構図だ。
滅多に混むことのない特別観客席がほぼ埋まるのは、本当に珍しいことだ。
明らかに一般客より身なりのいいスーツの男女や、現役で要職についている役員陣。すでに引退したレジェンドウマ娘などだ。ワインなどのアルコール類を楽しみながら言葉を交わしている。忙しい彼らが足を運んでいるという事実こそが、このレースに対する関心度の高さを示していた。
「あの二人ももうじき引退か。時が経つのは早いの」
「ええ。ですが新世代も育っていますよ。トウカイテイオーの他にも盛り上げ役がいます」
「聞いているよ。何でも、久方ぶりの面白いウマ娘が参加しているそうじゃないか」
彼らの視線が次のポスターにずれる。ポスターの構図はマックイーンとライスのものばかりではない。数ヶ月前まで影も形もなかったシニア級ウマ娘・ツインターボが、ニイっと微笑みながら走っている様子をうつしたものもあった。
「面白いですよ。あんな走りをする子はサイレンススズカ以来です。オグリキャップと同じトレーナーで、オールカマーではライスシャワー相手に圧勝しています」
「確かに珍しい。なんにせよレース界が盛り上がるのは、よいことだのう」
若い男の言葉に、身なりいい高齢の男性は満足げに何度も頷いた。実業家である彼らの望みはレース界を盛り上げることだ。レースを通して人々を幸福にすることこそが役割。その世界を支えるウマ娘が出てきてくれるのは嬉しいことだ。
さらにその席のすぐそばのテーブルでも、別なVIPの一組がガラス窓越しにターフを見下ろしていた。優雅にワインを嗜んでいるウマ娘が満足げにつぶやく。
「ターボちゃん。いよいよ、この舞台まで登って来たのね」
栗毛のウマ娘は、日本の誰もが知るレジェンドウマ娘・マルゼンスキー。URAに所属している多忙な彼女がわざわざ足を運んだ理由は、もちろんツインターボだ。
「あなたはターボちゃんとトレーナーちゃんをよく知っているそうね。今回のレースをどう見るかしら?」
「個人的にはマックイーンさんが強いかなと思いますけど……ははあ」
マルゼンスキーは開催前のコースから視線を外して対面の女性に問いかける。意見を求められた金色の蹄鉄トレーナーバッジを胸につけた女性は苦笑して答えを濁した。
中央トレセン学園所属とはいえ、単なるトレーナーがこの場に招かれることはない。だが彼女はこれまでGⅠウマ娘を何人も育成している、VIP席に招かれるに足る能力の持ち主だ。
「マルゼンさんは、ターボさんとお知り合いなんですよね」
「ふふっ。すごく面白いレースをする子なの。今日のレースでどんな走りを見せてくれるのか楽しみね♪」
そう語るマルゼンスキーの機嫌は見るからに良い。
知り合いどころかスカウトした相手だ。ローカルシリーズでたまたま出会い、特別に目をかけてきた。ターボは期待通りの才覚を発揮して、何と天皇賞という最上位の舞台まで登ってきた。それは自分の目が正しかったということに他ならない。嬉しくないはずがない。
「こんなに早くこの日が来るとは思っていなかったわ。だから語り合える相手がルドルフちゃんくらいしかいなくて。直接知っているあなたの意見が聞きたいの。初瀬トレーナー」
対面に座る人物はポニーテールがトレードマークの初瀬トレーナー。ツインターボのトレーナーに深い関わりのある先輩で直にターボとも接している。ツインターボに関する情報を持っている数少ない相手だ。
「正直なところを聞かせてくれないかしら。誰よりも多くGⅠにウマ娘を送り出したあなたから見て、ターボちゃんはどう?」
「……はぁ。なら正直に言いますね。あの子にはまだ、この舞台は早い」
上機嫌なマルゼンスキーとは対照的に、初瀬トレーナーは表情を曇らせていた。
「未勝利ウマ娘の復活劇というのはまだいいですよ。でもサイレンススズカの再来とか、オグリキャップと姉妹弟子の関係だとか。実力以外の要素で注目されすぎです」
「まだ実力が届いていないということね」
「ええ。あの子の走りは強いけど、あまりにも脆すぎる」
ポスターでは肩を並べている。だがその実力が『三強』を倒すほどかといえば、一歩至らない。それが初瀬トレーナーの見立てだ。
「今までのレースは奇襲で何とかなったかもしれません。でもライスさんを倒した以上は全員が警戒しています。たとえ大逃げでもレースは一人で走るものじゃない。その弱点がある限り、勝てる可能性は低いでしょう」
「そうね。あなたの言う通りかもしれないわね」
その考察はターボの勝利を否定したも同然だ。しかしマルゼンスキーは分かっていた風に微笑むばかり。その弱点は当然のごとく彼女も見抜いていて同意見だった。
そしてマルゼンスキーは隣にいるもう一人、中央トレセン学園の制服を着た鹿毛のウマ娘にも尋ねた。
「……ふふ。あなたはどう思う?」
「ボクも同意見かな。ライスはともかく、マックイーンには勝てないよ」
初瀬トレーナーの隣に座っている、同じポニーテールで長髪を束ねたウマ娘。彼女は腕を組んで自信満々にこたえた。
「あら。勝負はいつだって分からない。あなたのトレーナーの口癖じゃなかったかしら」
「そうだね。だけどマックイーンは練習とはいえ、最強のボクを負かした唯一のウマ娘だよ? ほかのウマ娘に負けることはないね。天皇賞ならなおさらさ」
「彼女を信頼しているのね」
「そうさ。なんせ、ボクと戦うまで頂点の座に居続けるって約束したからね」
自信ありげに胸を張ってふふんと鼻を鳴らした。それから青い瞳を細めて、マックイーン・ライス・ターボの三人のウマ娘が並んだ壁際のポスターを射抜いた。自分のほかにマックイーンを倒せるウマ娘は存在しないと確信していた。
「だから最強のボク──トウカイテイオーがいない以上、勝つのはマックイーンだ」
トウカイテイオーは、断じる。そしてそれはほとんどのファンの共通見解でもあった。
三強と呼ばれるウマ娘は現役ウマ娘の頂点。その中でもメジロマックイーンは天皇賞の栄誉に執着している。人生を賭けてきているウマ娘が、奇策を打つことしかできないポッと出のウマ娘に負けるはずがない。ターボの実力を知らなくても、テイオーにはそのことがよく分かっていた。
「だからさ。
気を緩めたような軽い調子で最後にそう言った。それを聞いた初瀬トレーナーが小さく笑い、するとそれを目ざとく見ていた隣のテイオーはすぐに突っ込んだ。
「って、なんで笑うのさトレーナーっ! ボクは真面目に答えてるんだけどっ!」
「ごめんごめん、元気になってくれたのが嬉しくてさ。ずっとマックちゃんと戦いたいって言ってたものね」
「そうさ。勝ち逃げされるわけにいかないもんねっ」
テイオーは腕を組んで鼻を鳴らした。そんな担当ウマ娘の姿を初瀬トレーナーは微笑ましく、そして嬉しそうに見ていた。マルゼンスキーも対面で微笑みながら思考を巡らせる。
(二人の言う通り、今日のレースは厳しいものになるでしょうね。ターボちゃん。あなたが勝つには奇跡を起こすほかにないわよ)
二人の言う通りターボには弱点がある。カサマツトレセンの時点で『全力で走れない』という弱点を克服したが、他にも克服すべき課題は存在しているのだ。GⅠという舞台で勝ちうる実力がついた今、警戒したウマ娘がターボを自由にさせておくはずがない。
会場に、ファンファーレが鳴り響いた。
勝負服を着たウマ娘が一人ずつターフに姿を表した。今回は厳しいレースになるだろう。しかし理性では勝てないと分かっていても、今までそうしてきたように『奇跡』を起こしてほしい。マルゼンスキーはそう願ってしまうのだった。
ファンファーレが響くとともに、客席や中継をみているファンが一斉に声を張り上げた。そして一足早く秋の天皇賞の実況解説が始まった。
『20万人を超えるウマ娘ファンが見つめる中、今年も始まりました天皇賞・秋。GⅠ芝2000メートル。17人のウマ娘が火花を散らします』
『一番人気を紹介しましょう。今回のレース、まずはなんといってもこのウマ娘、メジロマックイーン』
一番最初に東京レース場のコースに姿を表したのは、現在最も有名で最強と名高いウマ娘の一人。メジロマックイーンだ。
今日は白と薄緑色をベースに作られた清楚、かつ清楚な雰囲気の勝負服をまとっていた。また紫がかった芦毛のロングヘアの上に小さなシルクハットのような帽子をかぶっている。彼女が声援に応えて小さく手を振ると、客席のほぼ全域でいっせいに、黄色い歓声があがった。
『やはり天皇賞の主役。すごい人気ですね』
『今回のレースに勝てば前人未到の二度目の春秋連覇達成になりますからね。ほかのウマ娘に比べても実力は頭ひとつ抜きん出ています。彼女を中心に熱いドラマが展開されることでしょう』
『なるほど。では続いて二番人気を紹介しましょう。ライスシャワーです』
マックイーンに続くように地下から出てきたのは、ライスシャワーだ。
小柄な彼女の勝負服は、マックイーンと対極のドレスのような黒い衣装だ。余裕のあった前回のオールカマーとは大きく雰囲気が違っている。腰に携えている短剣のように、その雰囲気も切っ先のように鋭い。和やかな表情で観客に手を振るマックイーンと違って、これからのレースに集中している。
『ライスシャワーといえばGⅠの現役最多タイトルホルダー。さらにメジロマックイーンを倒した実績もあります』
『ステイヤーの彼女にとって、今回の2000メートルは短めの距離で少し厳しいかもしれません。しかし『三強』の名は伊達じゃない。今回マックイーンを倒すとすれば、最も有力な候補は彼女でしょう」
『ええ。ですが今回は、その彼女に迫る人気を集めたウマ娘がいます。今何かと話題に欠かないのがこのウマ娘。三番人気は、ツインターボです』
集中していたライスシャワーと、観客席に手を振っていたメジロマックイーン。二人同時に自分たちの歩いてきた地下バ道に視線を向けた。
暗い陰の中から現れたのはツインターボだ。先にコースに出た二人の令嬢のような衣装とは、雰囲気がまるで異なっていた。
カラフルなパーカーに、作業服のような吸排気口。ジェット型のブーツ。何より胸に青白のウサギ型ぬいぐるみをぶら下げているのが異質だ。ツインターボの勝負服は独自色が強い。ただでさえ珍しい青い毛並みのこともあって目立ちまくっていた。ターボを知っているファンは大喜び。知らなかったファンは困惑していた。
しかし今までのレースと大きく違うところがあった。コースにあがってくるターボの動きはぎこちない。腕と足が同じタイミングで前に出ている。表情もガチガチで、かなり緊張気味なのが見てとれた。
『彗星のように復活を果たした異色の『大逃げ』ウマ娘。その成績は未勝利戦を全敗して以来、その他公式レースを全勝しています』
『確かGⅢを二勝、GⅡを一勝でしたね。ローカルシリーズでは超新星オグリキャップを倒したこともあるとか』
『はい。そんなツインターボが、いよいよGⅠ・天皇賞の盾の栄誉に挑みます』
満を時して現れた時のウマ娘・ツインターボに、多くのファンからの熱い声援が集まった。「がんばれ」「期待してるぞ!」「俺に構わず逃げてくれ」など。続々と声が聞こえてくる。活動年数の長いマックイーンやライスほどではないが、それでも会場中から絶え間なく聞こえてくる。爆発的にファンは増えた証だ。
そして実況解説は、続々と登場するウマ娘を紹介していく。俺はオグリと一緒にそれを聞いていた。実際のコースに一番近い一般の観客席に立って様子を心配する。
「ターボ、緊張していたな」
「ああ。ずっと夢だったGⅠだからな。正直俺もめちゃくちゃ緊張してる」
「トレーナーは私のレースで慣れているだろう」
「それはそうなんだが……」
夢を懸けた挑戦がいよいよ始まるのだと思うと、やっぱり落ち着かない。勝負服を着たターボが東京レース場という大舞台に立っている姿は感動ものだが、それ以上に実感が迫ってきて足が震えた。心臓も鳴りっぱなしである。
「調子はどうですか、トレーナーさん」
「あ……ネイチャ。それにトレーナーも」
じっと立っている俺たちに近づいてくる人影にオグリが気付いた。やってきたのは制服姿のナイスネイチャ。側に寄り添うようにトレーナーもついている。普段より二人の距離感が近い。ネイチャの脚に白い包帯が巻かれているのが理由だろう。
「怪我のほうは大丈夫なのか……?」
「全然平気ですよ、こんなのすぐ治るやつですし。今まで怪我はほとんどやらなかったのになー、とうとうやっちゃいましたって感じですわ」
普段と違う姿を見たオグリは、不安げにしながらオロオロと尋ねた。ネイチャは苦笑しながら、かるく笑い飛ばした。
俺も連絡を受けていたので状況は知っていた。なんでも練習中に脚の痛みを訴えて治療することになったとか。脚はレースウマ娘の命だから、そりゃあ包帯を巻いている姿を見たら心配にもなる。
「イクノにも色々教わってたし怪我には注意してたんですけどね〜たはは」
「復帰できるのはいつ頃になりそうなんだ?」
「すぐに包帯は取れるみたいです。とはいえ一ヶ月は様子を見ることになりました」
「そうか一ヶ月か。不幸中の幸い……いや、時期が悪すぎるな」
「今回のレースも出たかったんですけどね。ターボとの勝負もお預けになっちゃいました」
入学時から一緒だったターボとの真剣勝負が実現したかもしれなかったのだ。ネイチャは笑っていたけれどちょっと悔しそうだった。今年中にGⅠで勝負するのは難しいだろうな。俺も思うところがあったが、こういう事情ならどうしようもない。
「それにしてもターボ、めっちゃ睨まれてますね……」
トレーナーに付き添われながら前に出たネイチャが見たままをつぶやいた。すでにコースには勝負服を着たウマ娘が全員出ていて、そして殺気立っていた。
中でも視線を浴びているのがメジロマックイーンとツインターボだ。注目度はダントツだ。特にライスシャワーはターボのことを意識しているのか、レース前からバチバチに睨みつけていた。ターボは緊張していることもあってか、身を縮めながら涙目で顔を逸らしていた。
一方でマックイーンは堂々とした態度を崩さず、周囲の視線を気にしないとばかりに目を瞑って集中している。出走ウマ娘の中には緑色のスーツ調の衣装をまとったイクノの姿もあったが、彼女も周囲を気にせず。マックイーンと同じような様子で深呼吸を繰り返していた。
「今日のレース、ターボは相当やりづらいだろうな」
「ここまで最短で連勝してきたから警戒されるのは仕方ない。大逃げするとバレている以上、厳しいレースになるのも承知の上だ……それでもやるしかないんだ」
オグリの言うように今回ばかりは一筋縄ではいかないだろう。他のウマ娘を意識した練習も、結局うまくいかなかった。だから他のウマ娘を意識した戦略などを一切与えることができていない。
しかし作戦は変えられない。最後までぶっちぎって逃げ切るのが俺たちのやり方だ。ひたすらに磨き上げてきた一本の剣が、未来を切り開くことを信じるしかない。組んだ腕で自分の体を強く抱きながら、観客席の四人でレースが始まる時を待った。
憧れていた勝負服で夢の舞台に立った。しかし遠い世界に来たみたいに感じた。
心臓はうるさいくらいに鼓動して耳鳴りが響いているのに、コースに出てきた時は気持ちがふわふわして夢の中にいるみたいだった。GⅠのファンファーレもどこか遠くで鳴っているように聞こえた。
最強で最高のウマ娘になる。その目標を叶えるために必死でもがいてきたのに、胸の中は薄暗い不安で満たされて万全ではなかった。例の夢を見てからずっと、勝てない運命を背負わされているような感覚が付き纏っていた。
(違う……! 勝つのはターボだっ。ちょっと緊張しているだけだもん……!!)
勝てなかったらどうしようかと手が震える。悪いほうにばかり考えてしまう。トレーナーの力も借りて振り払おうとするけれど、やっぱり消しきることはできなかった。
目をつむって俯いて、必死に自分自身と戦っているターボに近づく影が一つ。足音がすぐそばで立ち止まる。その気配に気付いたターボが見ると、黒い勝負服を着たウマ娘が自分を睨んでいた。
「ひっ。お、おまえは、えっと確か。ら、ライス……ええとっ……」
敵意を向けられていることに気付いたターボは、それはもう泣きそうなくらいビビって、名前を最後まで言いきれなかった。
「ライスシャワー、だよ」
「あ、うん……」
ライスシャワーの気配はますます鋭くなって、ターボは口ごもった。同じくらいの身長のライスは真っ向からターボを睨んだまま宣誓する。
「今日のレースは負けない。今度は絶対にライスが勝つから……!」
「ふえっ。う、うん」
気圧されて、思わず間抜けな返事をしてしまった。自分の意志を伝え終えたライスは、そのまま背を向けて去っていく。とりあえず何とかなった……と胸を撫で下ろそうとしたが、そうはいかなかった。
「う"ぇっ」
ライスの去って行った方向にいるウマ娘が全員、自分を見ている。
トレセン学園の中でも頂点に君臨する実力を持つウマ娘たちが、明確にツインターボを意識していた。睨んでいたのはライス一人ではない。注目を浴びるのが大好きでも、こんなふうに囲まれるのは大の苦手だ。あまりのことにターボは卒倒しそうになった。
そしてウマ尻尾を逆立てて怯えまくっているターボを、イクノディクタスは心配そうに見ていた。
(ターボさん……いえ。今は集中しなければ……!)
結局声をかけることなく目を瞑って意識を集中させる。この舞台に登ったからには、仲間ではなく打倒すべきライバルだ。ライバルに優しく声をかけることは絶対にしなかった。
メジロマックイーンも今の二人のやりとりを見ていた今日のレースで特に脅威になると考えているウマ娘が何人かいたが、その中の一人がツインターボだ。
(ターボさん、あなたはわたくしの予想を遥かに超えた。前回のレースは本当にお見事でした。だからこそ……あの時と同じように走らせるわけにはいかない)
マックイーンは目をつむって呼吸を整える。調子は十分で今出せる最高の状態にあることを確かめた。レース展開をいくつか思い描きながら、黙して静かにその時を待つ。油断の気配は皆無だ。
そして、いよいよゲートインの時が来た。
係員に誘導されたウマ娘が、一人ずつ割り振られたゲート内に入っていく。今までのレースではこんなことはなかったのに、枠が埋まっていくにつれてターボの心臓はさらに大きく鼓動を打った。腕が大きく震えだす。
「ではツインターボさん、こちらへ。あとについてきてください」
帽子をかぶった係員が近づいて声をかけられてもターボは固まったままだ。行かなければいかないと分かっているのに、足がすくんで動けなかった。
「ツインターボさん」
もう一度呼びかけて少し待ったが動かない。係員は察したように軽く息をついた。いざレース前になって動けなくなるウマ娘は珍しくないからだ。
動かないターボの背中を押すために、やむを得ずに背後に回った。そして押し出そうと背中に手をかけようとした、そのとき。
──パンッ!!
乾いた音が響いた。
背後のスタッフを驚かせて、すでにゲートインしたウマ娘を何人か振り返らせた。音の元は当然ツインターボだ。震える手をもとに戻したターボは顔をあげてゲートを見た。叩いた両頬がほんのり赤く染まっていた。
「とれーなーを信じる。絶対に、ターボが勝つ……っ!!」
ターボは自分自身に言い聞かせるように小声でつぶやいた。背中はまだ小刻みに震えていたけれど、怯えきっていた目は、勝負前の目つきに戻っていた。
「あ、ツインターボさん」
スタッフが何かを言う前にターボは自分の足でゲートに向かっていった。一連の様子をゲート内から見ていたマックイーンとライスシャワーも、改めて視線を前に戻した。
(とれーなーを、信じる。ターボを勝たせてくれるって約束したから……!!)
自分だけでは勝てないと薄々感じているターボは、トレーナーを信じることで心を繋ぎ止めた。レース直前までターボの頭の中にあった恐れを追い払って目の前に集中する。勝つことだけを考える。
恐怖を完全に消し去ったわけではない。心のどこかにある箱の中に無理やり押し込めて、気づかないふりをしているだけだ。しかし僅かな間だけで十分だった。走り出してしまえば、いつものように走れるとツインターボは信じた。
『全ウマ娘、ゲートイン完了。出走の準備が整いました』
盛り上がっていた会場も水を打ったように静まりかえった。ゲートに入ったウマ娘は静寂の中で恐ろしいほど集中していた。門が開くその時を待っている。
最も早くゴールに辿り着いて盾の栄誉を得る。誰もが夢見る瞬間を我がものとするために、体勢を低く構えている。ウマ娘ファンは、わくわくした表情で出走の時を待っていた。
観客席のトレーナー達も固唾を飲んで見守っていた。腕を深く組むか、あるいは祈るように手を組んでいる。
『──今、スタートが切られました!!』
シニア級最後のGⅠ、秋の天皇賞の始まりだ。