ついにストックが尽きてしまったので更新が遅くなります。
この後はネイチャGⅠ編、オグリ菊花賞編のあと最終話までやりますので、よろしくお願いします!
ゲートが開いて、まず最初に飛び出したのはツインターボだった。
『各ウマ娘、綺麗に揃ったスタートになりました。ハナに飛び出したのは、もちろんこのウマ娘ツインターボ……えッ!?』
序盤のスタートダッシュの最中、その様子を伝える実況の声に動揺が混ざった。レースの展開を見ていたファンも同じように度肝を抜かれた。
真っ先にものすごい加速力を出してハナを奪ったのはツインターボだった。そこまではいい。問題はその背後。メジロマックイーンとライスシャワーの二人が迫り、距離を離さずにいることだった。スタミナを完全無視して逃げるターボに『三強』の二人が完璧に張り付いている。
『っ……失礼しました。続いてメジロマックイーンとライスシャワー。この三名で先頭を争っています!』
もとより二人は先行が得意なウマ娘だ。ハナを取ろうとするのはおかしなことではないが、大逃げをする気でペースを考えずに突っ走っているウマ娘に張り付いているのは異常事態だ。
ターボもそれに気付いていて、必死に『ターボジェット』の
「嘘でしょ!? あの二人、完全にターボを追いかけてる!!」
「まさか同じ作戦で勝負する気なのか……!?」
ターボに最初からついていくのが、とんでもない暴挙だということは骨身に沁みている。序盤の加速用
まさか二人もこのまま『大逃げ』で最後まで競り合ってくる気なのか。
共にスタミナ切れで共倒れになってしまうというのではないかと考えたが、しかし二人の予想は現実にはならなかった。詰まったままになるかと思われた距離が、数秒後に徐々に離れていったからだ。ターボは最初のコーナーに入るまでに、先頭のまま一定のリードを確保することができた。
最後まで張り付かれるのではないかと思った二人は、心配が現実にならなかったことに揃って胸を撫で下ろした。姿勢も『ターボジェット』の前傾からもとに戻って安定した。諦めてくれたおかげで、とりあえず逃げきれた。
「やられた……ッ!!」
しかしトレーナーの表情は真逆だった。思わず柵を握りしめて、歯をギリリときしませる。レースを見ていたウマ娘二人は意味がわからずに困惑した。
「トレーナー、どうしてそんな顔をしているんだ……? ターボはちゃんとリードを稼いだじゃないか」
「いえ。そうはいかないのですよ」
事態の深刻さを理解しているネイチャトレーナーの表情は険しい。ネイチャとオグリはコースから視線を外して、今度は彼の言葉にウマ耳を傾けた。
「確かにオグリさんの言う通り距離は稼ぎました。しかし全体を通して見た時、失ったもののほうが大きいのです」
「失ったもの……とは?」
「ターボさんの序盤の加速は、それ専用に適した
「うん。でもそれがどう繋がるの?」
「あの
「……体に合っていないから、長時間は続かないってコト?」
その言葉に頷いた。何度もトレーニングも共にしている二人は『ターボジェット』の弱点をよく知っている。それは、元々はターボの脚質に合っていない走り方だということだ。
「あれは私の
「その通りです。より正確に言えば、加速に適していても、長く走り続けるのに適した走り方ではありません」
「だから二つの走り方を使い分けているんだったよね。トレーナーさん」
「ええその通りですよネイチャさん。そして肝心なのは、
ターボジェットの土台はオグリキャップの末脚、もとい前傾姿勢のストライド走法だ。それで加速しきった後に体を持ち上げて元の姿勢に戻り、もともと得意なピッチ走法で最高速度を維持する。これが今のツインターボの戦術だ。
そして改めて考えると現状の不味さが浮かび上がってくる。それに気付いたオグリは答えを求めるように自身のトレーナーを見た。トレーナーは柵を握りしめ、強い感情をあらわにしながらレースを睨んでいた。
「そういえば。トレーナーはレースのたび、姿勢を変えるタイミングを何度も繰り返し練習させていた。もしかしてあれが……」
「あれがターボを最後まで全力で走りきらせてやるために、唯一できる調整だったんだ……!」
ツインターボは常に全力で走ることしかできない。しかしターボを最速で、かつ安定して最後まで走らせるためには調整が必要だった。ペース配分を決められない代わりに、
「序盤の『ターボジェット』は脚の筋肉を。中盤以降の
中央に入ってから、トレーニングをしている姿をオグリは何度も見ている。なんとなく必要な練習だということは理解していたが、意味を言葉にして聞くのは初めてだった。
ペースを一切緩めずに全力で、かつ安定して最後まで走りきる唯一無二の方法だ。全く新しい作戦は功を奏した。ツインターボはこの戦術を成立させるため、これまでのトレーニングで徹底的に仕込まれてきたのだ。
「なるほど。それがターボのスピードの秘密か」
「ちょっと待って。じゃあ、そのタイミングがずらされたら……」
ネイチャも遅まきにターボが失ったものと、この先の展開に気づいて青ざめた。
この作戦が緻密なバランスによって成り立っているのなら、それが崩された時の末路は火を見るよりも明らかだ。ネイチャトレーナーはあえてその疑問に明瞭に答えた。
「間違いなく、ターボさんのスタミナは最後まで持ちません」
「そんな……」
バ体の小さいターボは体重が軽いため、負担は小さいもののスタミナがない。中距離を走りきるのがギリギリだ。オグリキャップのように怪物じみた素質を持っているわけではない。
さらにもう一つ。スタミナ以外にも性格面での弱点がある。
元々なのか、あるいはジュニア・クラシック級時代に負わされたトラウマが原因なのか。他のウマ娘に囲まれるとその時点でターボは冷静さを失ってしまう。背後から迫られたり、追い抜かれたりすることを極端に恐れている。それゆえに序中盤で大きなリードを稼げなければ自滅してしまうのだ。
この弱点だけは克服することができなかった。だからバレないように立ち回ってきたつもりだったのだが……二人は
「ターボ……!」
悔やむ気持ちが滝のように溢れ出る。
観客席から見てもターボに余裕がないことはわかった。リードは取っているのに、レースを楽しむどころか苦しげだ。周囲をほかのウマ娘に囲まれている時みたいに歯を食いしばっている。ターボエンジンの燃料を使い切ってしまえば、この速度は維持できなくなるだろう。
(一度でも先頭を奪われた大逃げウマ娘になすすべは……打てる手は、ない)
単なる逃げウマ娘なら逆転の機をうかがうこともできた。しかし『大逃げ』は相手に一度でも抜かれれば、そこまでだ。トレーナーとしての冷静な分析が、刻々と敗北が迫っていることを俺に理解させてくる。
メジロマックイーンに明確に意識されていると分かった時点で、この展開を予測するべきだった。対策を打てなかった俺の失策だと考えて、血反吐を吐くほど胸が苦しくなる。
そうやってトレーナー達が絶望している一方、観客席は真逆に膨大な熱気と凄まじい興奮で沸いていた。普段と大きく異なるレース展開を目の当たりにした東京レース場は、声援の嵐に包まれた。
『さあ逃げ切って距離を引き離すツインターボ。6バ身後方にメジロマックイーン、その後ろにライスシャワー。2バ身離れてカミノブラウン、ホワイトリューオー、イクノディクタスが続きます』
『全員が、あの『三強』までもが! 大逃げに引っ張られる形で、例年より速いペースでレースを進めています! このハイスピードに振り落とされず、何人がついてこられるのでしょうか!!』
ウマ娘ファン達は、このかつてない状況を作り上げたツインターボに向けて「がんばれーっ!!」などと、腕を振り上げて口々に応援していた。カラフルな勝負服で駆け抜ける小さなターボに大きな期待を乗せていた。『三強』相手にも大きなリードをとってみせたターボは、最も勝利に近いように見えていたのだ。
しかし、レースに参戦しているウマ娘側は惑わされない。
先行リードを許したメジロマックイーンとライスシャワーは、ファンの視線を奪っているターボの背中を遠くに見ていた。スピードの世界の中で極めて冷静に思考する。考えているのは、二人同じくツインターボのことだ。
(ツインターボさん、あなたは脅威でした。ですがこれで最後に必ず落ちてきます)
(前みたいにはいかないよ……!! ライスは、マックイーンさんにも。ううん。もう誰にも負けない……!!)
序盤で『大逃げ』相手に攻めるという二人の戦略は、最も厄介な
やはり厄介なのは……と、全力疾走しながら互いに視線を飛ばした。
マックイーンは背後にぴたりと張り付いて離れないライスシャワーに意識を集中させ、ライスシャワーはその背中を風避けに虎視眈々と差すタイミングを狙っている。
ここから意識すべきは
そして序盤の『大逃げ』合戦から、その後のハイペース展開に巻き込まれた後方のウマ娘は苦しんでいた。ツインターボが率先して作りあげて、メジロマックイーンとライスシャワーがそれに乗った。あの時点から彼らのペースは大きく乱された。ターボの出方に予想がついていても、『三強』の二人ともそれに乗るのは完全に予想外だった。
「くうっ……!」
出遅れたイクノディクタスも、無茶をした他のウマ娘に囲まれて動き辛い位置に囲まれてしまった。前に出なければならないと分かっているのにそれができない。それなのに脚はジリジリと削られている。
(オールカマーの時とは全く違う展開ッ……全体がターボさんに引っ張られて、乱れた。あの走りがこれほど厄介だったとは……!)
これが『大逃げ』の真価だというのか。イクノは先行策を取らず、作戦を見誤ったことを歯を食いしばって後悔した。おそらく他のウマ娘も同じだろう。だがこうなっては道が開くのを待つことしかできない。無為に体力が削られる状況にも耐えて、チャンスを待つほかにできることはなかった。
後方のウマ娘は苦しんでいたが、しかし最も苦しんでいるのは……ツインターボだった。
「ハァッ、ハァッ……!! ハッ、ハァッ!」
滝のように背後に汗を流しながら、死力を尽くしてターフを走り抜けている。
いつも通りやれば勝てるはずだった。スタートダッシュも完璧で、大逃げをなんとか成功させてリードも確保した。直前にトレーナーに見てもらったから脚も万全だとわかっている。勝負服だって着ている。それなのに、少しずつうまく走れなくなっているのを感じた。
ターボの視界はいつしか闇に染まっていた。必要なもの以外は見えなくなっている。見えるのは足元の芝生とレーン柵のみ。実際にレースを走っていることは分かっているけれど、酸素がうまく取り入れられずに意識が薄れていた。
全力で逃げている中で背後から蹄鉄の音が迫ってくるのを感じた。それは今朝見た自分が敗北する夢の光景そのままだった。
自分は必死で逃げているのに、途中で体力が切れてどうしようもなくなって。そのまま追いつかれて飲み込まれる。そして永遠に這い上がれない。あの悪夢が現実になりかけているのではないか。その可能性を恐れたターボのインナーの内側に氷のように冷たい汗が滲んだ。
そしてそれは、単に内なる恐怖心からくるイメージではない。実際に背後からプレッシャーがかけられていた。マックイーンとライスが先頭を走るターボを睨み続けている。
オールカマーの時のような奇跡を起こすかもしれない。限界を超えさせまいとする意志をぶつけて、奇跡を起こす余地を与えさせない。後を追う二人がターボを意識し続けていたことが、うまく走れない原因になっていた。
『3、4コーナー中間地点を過ぎました。先頭は変わらずツインターボ。颯爽と飛ばしていますが表情が少し苦しいか。7バ身後ろにメジロマックイーンとライスシャワー。タイミングを図ってジリジリとリードを詰めております! さらにその後方9バ身、ホワイトリューオーが続く!』
『おそらく最後の直線で競りかけてくるでしょう。先頭三人以外のウマ娘は、変わらず苦しい展開が続いています』
あっという間にレースは半分を過ぎて最後のコーナーに突入した。しかしターボは、残しておかなければならなかった燃料の大半を使ってしまった。
(いきが、苦しい……。もう、げんかい、近いぞっ)
脚を動かすたびに呼吸ができなくなって、意識が薄暗く染まっていく。どんなに一生懸命息を吸い込んでも足りない。胸が痛く、脚が徐々に重たくなってくる。今はまだギリギリ走れているけれど、ゴールまで持たないことは自分の身体が一番よく分かっていた。
それでも、絶対のルールだけは守り抜く。
(目線は、ぜったいコーナーの先。どんなに苦しくても頭を上げないっ。背筋には、いつも棒が入っているみたいに伸ばすっ……!!)
燃料切れという限界点が見えて、酸素不足でろくに頭が回らなくなっているターボは、その言葉だけを脳内で復唱しながら走っていた。
何があっても全力で走り抜く。そして
しかし、そこまでの覚悟を持っても、ターボを追いかけている『三強』には及ばない。
二人にはターボと比較にならないほどの余裕があった。全く呼吸を乱していないのは段違いのスタミナによるものだ。ステイヤー気質の二人にとって2000メートルという距離は短く、だからこそ初手にターボの後をつけるような無茶をすることができた。
もちろんそれは数週間で練習しただけの付け焼き刃の戦術だ。無茶をしたことで無駄に体力と脚を削っている。
しかし──コーナーを曲がりきった時。それに見合った価値を生み出した。
『さあコーナーを曲がり切って、残り500メートルの直線コース……あっ!! な、なんと! ここにきて! ツインターボが少しずつ減速していきますッ!!』
序盤に打った作戦の成果が、ファンの前にもあらわになった。
これまでのトゥインクルシリーズで一度も減速せずにゴールに飛び込んでいた。今回も圧倒的な大逃げでハナを奪い続けるかと思われていたツインターボの速度が少しずつ鈍ってゆく。まるで徐々にブレーキをかけているみたいに、確実にスローペースに落ちていった。
そして、それは機を伺っていた二人にとって絶好のチャンスでもあった。
直線に踏み込んだ瞬間、メジロマックイーンの表情が変貌。勝負服の白いブーツでターフを踏み込んで、深くまで歯を噛み締めて……極限まで鍛え上げたウマ娘の力を解き放つ。
「はあああああああッッッ!!!」
マックイーンは考えうる限り最高のタイミングで、高らかに叫びながら思い切り土を蹴り飛ばして末脚を解き放った。その瞬間、身体が弾かれたように一気に前に飛び出す。この瞬間、ターボにばかり視線をやっていたファンの視線を、マックイーンが一気に奪い返したのだ。
その瞬間に勝負を仕掛けてくると予想していたのは、背後で機を伺っていたライスシャワーだけだった。その時を待っていたと言うみたいに、気配が鋭く研ぎ澄まされる。ライスはバネを縮めるみたいに足を曲げた。そして──跳ぶ。
「やあああああああああっっ!!!」
絶対に勝利を得んとする必死な形相で、その脚の細さからは考えられない暴力的なパワーで地面を踏みこむ。マックイーンに抜き去られまいという感情があらわになっていた。スリップストリームの位置取りを止めて、全く劣らない爆発力を見せて彼女の真横に躍り出る。
他の背後のウマ娘は、うまく走ることができずに全く最終直線の勝負に間に合っていない。横一直線に並んだ、二人の競り合いの形が形成された。
『ここできたッ!! メジロマックイーン、ライスシャワー共にものすごい速度で競りかけてくる! 残り400を通過!! 先頭はまだツインターボだが、リードがみるみる縮まっています。これは厳しいかっ!?』
かろうじて残った力を振り絞って
「ハァ、ハッ! ハァッ……!!」
この時点で、出せる限界はとうに超えていた。
燃料は尽きてエンジンが空回りしている。視界もチカチカと白み始めて呼吸もままならない。これ以上は胸が痛くなるだけだと分かっていたが、それでもターボは諦めずに逃げていた。本人は減速していることさえも気付いていなかった。
残り350メートル。
背後の暗闇と蹄鉄の足音はもう耳元まで迫っている。
残り300メートル。
両隣。真横に二つの気配を感じて──二人はターボに視線を向けることもなく抜き去った。限界を超えているターボは、明滅する意識を半ば闇に蝕まれながら。トレーナーに言われた言葉を思い出していた。
『大逃げは追い抜かれたら終わりだから、レースでも死ぬ気で逃げるんだぞ』
前のトレーナーは絶対に認めてくれなかった。
とれーなーは、信頼している人は。全力で逃げる背中を押してくれた。約束通りトゥインクルシリーズで勝たせてくれた。そのことが、ツインターボにはどうしようもなく嬉しかった。
『ツインターボの先頭はここで終わりッ、先頭争いはこの二人! メジロマックイーン! 2番手ライスシャワーも負けじと上がってくる!! 最後の一騎討ちだ!!』
自分を抜き去った蹄鉄の音とともに、頼りにしていた言葉が絶望に変貌した。
意識が暗闇に飲まれた。限界を超えたターボの意識は、自分が起きているか寝ているかさえもあいまいなほどに落ちていた。もはや
闇に飲まれて周囲の景色は何も見えず、まるで果てのない荒野を走っているみたいだった。
ターボは自身の心臓の鼓動の音を聞いていた。限界まで脈打っていて張り裂けてしまいそうだ。それは今まで感じたことのない感覚だ。限界をさらに超えた、極限の世界に脚を踏み入れていた。
(だめ、だ……ターボ、もう。はしれ、ない……)
いっそこのまま倒れて楽になりたい。脚を止めてしまいたい。辛くて苦しいこの世界から逃れたいという気持ちがたちまちにツインターボの弱い心を支配する。
「諦めるなあああぁぁぁぁッッッッ!!!」
限界だと思っていた心臓が大きく高鳴った。
何も聞こえないと思ったウマ耳が、誰かの声を捉えた。諦めかけていた心が、意志とは無関係にかろうじて踏みとどまる。すると間髪入れずにもう一度。
「がんばれええええッッッ!! ターボ全開でッ、いけえええっっ!!!」
心臓の高鳴りがますます大きくなる。
枯れた叫び声が闇の中に届いた。いつかの未勝利戦で同じ言葉を聞いたから、誰の声なのかは考えなくても理解できた。自分を信じてくれる、世界で一番信じているトレーナーの声だ。
(ま、だ……まだ、あきらめっ、ないッッ!!)
限界だと思っていた全身に力が漲った。
まるで外から燃料を注がれたみたいに、焦げつきかけていたターボエンジンが音を立てて脈打ち始める。夜明けに太陽が昇るみたいに薄れかけていた意識が明瞭になり、グンと一気に現実に引き戻された。
そして自分でも気付いていないうちに力一杯絞っていたウマ耳に、興奮した声が届く。
『残り200メートルで二人完全に並んだ!! 最後はやはりこの二人の一騎討ちだった!!』
(違うっ……!!)
視界が戻るよりも先に聞こえてきた実況の声。それでまだ自分がレースを走っていること。そして追い抜かれたことも──全部思い出した。
現実は、もう追い抜かれている。
だがツインターボは敗北を受け入れず、サメのように尖った歯を力の限り食いしばった。
無意識だった。
ターボは踏み込んだ脚にありったけの力を込めて、いつの間にか
『勝つのはメジロマックイーンか!! それともライスシャワーかッ!!』
勝負服の黄色いブーツに異変が起こった。地面を深く踏み込んだ瞬間、飾りでしかないジェットエンジンの二つの排気口が輝きはじめた。
まるで何かのエネルギーを貯めるみたいに、鮮烈な虹色の
(違う!! だって、だって勝つのは……ッ!!)
苦痛のあまり閉じかけていたオッドアイが開いた瞬間。
闇が晴れて、覚悟が蘇った。
「勝つのはッ、ツインターボだあああああああああああああッッッッ!!!!!」
ツインターボが吼えた。
思い切り踏み締めたターフが爆ぜた。観客席からは見えない何かに背を押されたみたいに見えていた。限界を超えたターボのスピードは、さっきまでの減速が嘘のように最高速度まで戻って、それをさらに超越した。
すでに先頭争いから脱落したと勘違いしていた実況も目を白黒させた。汗ばんだ手で焦ってマイクを握りしめる。
『っ……!? 違う!! まだ終わっていない!! ツインターボが伸びる、戻ってきたッ!!』
実況解説や一般のファンだけでなく、育てのトレーナーやライバルまでもが目を疑った。
ターボは見覚えのある前傾姿勢の
「あれは、まさかッ。『ターボジェット』の
「2回目ッ!?」
目の前で展開されたレースは、常識を超えていた。
体力はとっくに切れているはずだ。最初ならともかく、途中で
トレーナーの瞳にはハッキリと、鬼気迫る表情のツインターボの身体がキラキラとした虹色のオーラを纏っている姿が映っていた。
残り100メートル地点。
前を競り合う二人は、遅れて背後で起こっていた異変に気づいた。
「ッ、なにが、っ!?」
「えっ……!?」
気づいて、そして──追い抜かれた。
マックイーンとライスシャワーの隙間に、ツインターボが差し込んだのだ。
二人は驚きのあまり意識を逸らしてしまった。思わず視線を横向けて乱入者の姿を見る一方、ターボは二人を全く意識していなかった。視線をゴールから絶対に外さなかった。
『抜けた!! 残り50メートル、ツインターボが差し返した!!!』
しまった、と。
二人は慌てて前を見据え直した。しかしそれよりも早くツインターボが飛び込んだ。
その小さな顔面が誰よりも早くゴール板に届いた。
掲示板を待つまでもない。勝者は誰の目にも明らかだった。
観客や実況解説。育成に携わったトレーナーにライバルのウマ娘。スカウトしたマルゼンスキーや、勝負は決まったと思い込んでいたVIP達。そして何人ものレジェンドを育成した初瀬トレーナーでさえ驚きのあまり腰を浮かせた。
『か……勝った。勝者はツインターボッ!!! 秋の天皇賞の栄光を掴んだのは、ツインターボだぁーーーー!!!!!』
実況の声から一秒も経たないうちに割れんばかりの大歓声があがった。最強を相手にしても、劣勢に追い込まれた状況さえも乗り越えて。新たなGⅠウマ娘が誕生した。
ツインターボは、奇跡を起こしたのだ。
息が、できない。
走り終えた直後も視界が真っ白に明滅している。体を動かすのもままならず前後も上下も分からない。数秒とはいえ限界を超えて、さらにその先の危険なラインまで踏み超えてしまったせいだ。
「かひゅーーーっ、かひゅうっ……!!」
それでも、かろうじて体を持ち上げて、トレーナーに教わっていた減速の動作をやりきった。
そして、力尽きてぶっ倒れた。
多少の衝撃はあったけれど痛みはない。仰向けに倒れ込んだターボには体の感覚さえなかったのだ。それでも必死に肺に息を送りこんだ。普段なら動けなくなるだけで済むのに、今は苦しい時間が永遠のように続くような気さえした。
頭の中がチカチカと輝いている。耳鳴りもひどい。限界を超えた代償はとても重かった。
「──さ──ん、──ボ、さ──!」
呼吸以外でピクリとも動かなくなったターボを、誰かが呼んでいた。
呼ばれ続けているのは分かっていたけれど、なかなか意識がもとに戻らない。しかし息を続けているうちにホワイトアウトしていた視界が少しずつ元に戻ってくる。大の字でぶっ倒れている自分を、上から誰かが覗き込んでいた。そのウマ娘は焦ったように必死にターボに呼びかけていた。
「へぁ。ハアッ、ハア……?」
「ターボさん! あなた、大丈夫ですの……!?」
「ハアッ……あ、にが……ぁ?」
どうやら自分を呼んでいるらしい。絶え間なく肺に酸素を送り込みながら、なんとか無理矢理返事をする。くぐもって聞き取りづらい感じになってしまったけれど聞き取ってもらえたようだ。
「なん、で。たーぼ、たおれ、て……る?」
「え? 何故と申されても……そうですわね。きっと限界まで使い果たしてしまったのでしょう」
薄く白く歪んでいた輪郭も徐々に形を帯びてくる。
視界いっぱいに広がるのは青空と、レース後に勝者を称える紙吹雪だ。覗き込んで呼びかけているのが倒したかった相手。白い衣装を着たメジロマックイーンだと分かった。
さらにターボは耳鳴りのほかに、歓声のような甲高い音を聞いた。ウマ耳の聴覚が戻りきっていない最初のうちはハッキリとは聞こえなかった。しかし音をとらえているうちに気づく。
『タ・ア・ボ!! タ・ア・ボ!!』
みんなが、自分の名前を呼んでいた。ターボは状況を理解しきれずに混乱して、空を見上げた。
なぜ自分はレース場で倒れているのか。
倒したいと思っていたメジロマックイーンが、自分の傍にいるのか。
観客みんなが自分の名前を呼んでいるのか。
息を整えているうちに、一時的に失っていた記憶が糸を引くように戻ってきた。そして遠くにいるはずのトレーナーの涙声がはっきりと聞こえた。
ターボ、勝ったぞ、と。そう言ったのだ。
「えっ……」
ようやく静まり始めていた心臓が、とくんと。今までとは違うリズムを刻んだ。
いまだ体力切れで起き上がれないターボは、顔だけを動かして掲示板を見た。そこにも絶え間なく紙吹雪が散っている。勝者を示す一着の頂点には、このGⅠ、秋の天皇賞でウマ娘・ツインターボに与えられた番号があった。
「あ……」
掲示板のいちばん上に自分の番号がある。
それに気付いた瞬間。白んでいた視界も耳鳴りも、曇っていた頭の霧も吹き飛んだ。
『奇跡を起こした勝者の名前はツインターボ!!! ツインターボです!! 大逃げウマ娘がやりました!! この東京レース場では、前代未聞の未勝利GⅠウマ娘の誕生を祝福しています!!』
一生懸命な声が伝えているのは自分のことだ。レースを見に来てくれたファンが、みんな自分の名前を呼んでいる。
首を傾けて視線をさらに下に向けると、自分に向かって何かを叫んでいるトレーナーを見つけた。柵を掴んで泣いているのが見えた。
「ファンの皆さんがあなたを祝福しています。さあ、起き上がるのを手伝いますわ」
目の前にいる最強ウマ娘のマックイーンが、悔しそうに微笑みながら自分に手を差し伸べている。
そのとき。
立ち上がれなくても体はギリギリ動いたかもしれない。マックイーンに手を差し伸べられたことは、ちゃんと分かっている。しかしターボは動けなかった。
「う、ぁ……ぁ……っ」
「え、ターボさんっ……!?」
ボロボロと。信号機のような色のオッドアイから、大粒の涙が溢れ出した。
視界が歪む。
勝った。
GⅠで、自分が。ツインターボが。
慌てるマックイーンの姿も、紙吹雪も、青空も。涙に歪んでとらえられなくなっていく。
「あ、あ"、あぁぁ……っ」
ターボの心の中には思い出を閉じ込めた記憶の箱がたくさんある。ずっと思い出さないようにしていた辛い記憶の箱だ。それらが何の前触れもなく次々に開いていく。
未勝利戦でボロボロになって、負け続けて泣いた。
どんなに一生懸命トレーニングしても強くなれなくて、涙を呑んだ。
ついにトレーナーに捨てられて、夜中にひとりぼっちで大泣きして、最後のチャンスも掴めなくて。2着で負けた電光掲示板を呆然と見上げて。退学が決まって、二度と夢を追いかけられないんだと自分に言い聞かせた。
トレセン学園には、辛い気持ちを一人で吐き出すための大樹のウロという場所がある。
前のトレーナーに契約を解除された日。耐えきれなくなって、辛い気持ちを一人で吐き出すため、トレセン学園の大樹のウロで気持ちを解放した時があった。
あの時は口から恨み言ばかりがでてきた。
でも、本当は悔しくて苦しかった。あんな嫌なこと本当は言いたくなかった。思い出しているものは同じなのに、あの時とは全然違う感情が目頭に集まってくる。
どんなに辛いことがあっても我慢していたのに耐えられなかった。
勝負服姿で大の字で倒れたまま、耐えられなくなったターボは洪水のような涙を流した。まるで子供に戻ってしまったみたいに、腹の底から感情のままに叫んだ。
「諦めなくて、よ゛かったあ゛ああああぁぁぁ!!!」
日本中に見られていることも忘れて声をあげてわんわんと泣いた。
そしてそんな、幼いGⅠウマ娘の姿を見たファン達はあっけにとられたが……少しすると、会場は歓声の代わりに拍手に包まれた。
ターボの走りは観客の心に暖かい気持ちをもたらした。中には貰い泣きをしているファンの姿もあった。特にツインターボの
勝負に敗れたマックイーンは呆気にとられた。しかしすぐに子供を見るような優しい表情を浮かべて、一度は差し伸べた手を戻す。彼女は自分の胸に手を当てて敗北を受け入れた。
ライスシャワーも、負けた瞬間こそ悔しげな表情で立ち尽くしていたが、ターボが号泣したときは目を丸くして……ちょっと悔しげに、しかし微笑んで拍手に加わった。
レースに参加していたイクノディクタスも、他のウマ娘も。全員がライスと同じように惜しみない拍手を贈った。
東京レース場にはしばらく、GⅠを制したツインターボへの祝福の拍手が鳴り響いた。
秋の天皇賞の後、記者会見が始まった。
会場では俺とツインターボの二人で座っていた。担当ウマ娘が歴史に残る快挙を成し遂げたあとだが、気を緩めずにしっかりと構えるべき。それが分かっているのに表情が緩んでしまう。
「ツインターボさん、トレーナーさん。優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます。これも皆様が、応援してくれたおかげです……!!」
オールカマーの時よりもさらに多い記者と、全国に生中継されているカメラの前で深々と頭をさげた。トレセン学園の制服に着替えたターボも空気を読んで一緒に頭を下げてくれた。実際、感謝の気持ちでいっぱいだった。
一度は負けると思って絶望したこともあって、レースが終わっても気持ちがふわふわとおぼつかない。人生でこんなにも充実した気持ちに満たされたことはない。また涙が出そうになったが、レース後に恥ずかしい姿をたくさん晒してしまったことを思い出して……なんとかこらえた。
「未勝利バのターボさんですが、それ以外の公式レースを無敗で勝ち進んで、ついにGⅠウマ娘となりました。担当ウマ娘が歴史に残る戦績を残された今のお気持ちはいかがですか」
「正直。胸がいっぱいで。こんなこともあるんだって。ぐすっ。ほんとに諦めなくてよかったです……っ」
「とれーなー、なかないで……!」
だめだった。思わずまた泣いてしまった。
天皇盾と優勝レイの授与式では二人で大泣きする姿が全国中継され、ウィニングライブではセンターで踊るツインターボの姿を見てティッシュを二袋も使い切った。ターボも途中までわんわん泣いていたけれど。GⅠ後の会見会場に座っている今はもとに戻っていて、俺の背中をさすっていた。
さすがにこれ以上は、トレーナーとして恥を晒せない。ハンカチで涙をぬぐった。
「うぅ。質問の途中で、すみません」
「いえいえ、構いませんよ。それで次の目標についてはいかがでしょう」
「えっ、次……?」
「はい。次のレースの予定を、もし決まっていれば教えていただけないでしょうか」
しまった、何も考えてない。
問われて口ごもる。これまでGⅠに勝つことだけを必死に考えていたから、達成した後のことなんて全く考えていなかった。どう答えようかと頭を真っ白にして固まっていると、真横のターボが意気込んだ。
「はいはい!! ターボね、やりたいことあるぞっ!!」
「えっ」
記者会見に集まった百人以上の記者たちの視線が集中する。俺も同じように驚いて、急に立ち上がってカメラに向かって手をあげたターボを見た。全員に見られている中。今日の勝者となったツインターボは堂々と胸を張って宣言した。
「ターボはねっ。オグリと同じ三冠ウマ娘になる!!」
記者会見会場が大きくざわついた。
担当トレーナーの俺も口をあんぐりと開けていた。なぜなら、完全に初耳だった。
「ターボ、それは……」
「それはっ!! 秋シニア三冠を目指すと、そういうことでしょうか!?」
「しにあ……?」
それは無理だと小声で囁こうとした途中。すると色めき立った他の記者の一人。白いジャケットを着た女性記者が手を上げて意気込んだ。
質問をかえされたターボは、どうもよく分かっていない様子で首をかしげている。どうやら秋シニア三冠の存在を覚えて言ったわけではないらしい。
秋シニア三冠とは、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念。
秋のGⅠレースを全勝したウマ娘に与えられる称号だ。これからオグリが撮ろうとしているクラシック三冠と同じ。それを成し遂げたウマ娘は永遠に歴史に名前を刻むだろう。
ツインターボはその一つ目。秋の天皇賞の冠をかぶった。
そして目を輝かせた記者が、身体を声を震わせながら質問を続ける。
「つまりジャパンカップと有馬記念の出走表明と、そういうことですね!!」
「え、いや。それは待って……」
「そうだぞ!! オグリが三冠を獲るからターボもとるんだ!! ターボが最強ウマ娘になるには、それしかないもんっ!」
ターボは最後の最後で、思わぬ方向に突っ走ってしまった。
シニア三冠を知らなくても、同じ三冠に挑戦できるらしいと確信したのだ。距離が長すぎるから諦めてたのに……と、俺は頭を抱えたくなった。浴びるようなフラッシュの中で動揺しながら、これ、どうしようと必死に考えた。
(どうしよう。そんなの無理……じゃない。違う……そうじゃないぞ)
諦めかけていたとき、脳裏にツインターボが諦めずに走った光景が蘇る。
未勝利戦の時も今回も。最後の最後で必死に走って、追い込まれた状況も悪夢も打ち破った。敗北の結果を覆した。それを成し遂げられたのはすべて夢を叶えたいという一心からだ。
(そうだ。俺はターボに勝たせてやりたい。一緒に勝ちたい……っ!!)
最強で最高のウマ娘にすることが俺とターボの交わした約束だ。
どんなことがあっても、その夢を支えたい。
俺はツインターボと勝ちたい。
確かにGⅠの舞台でメジロマックイーンとライスシャワーを倒した。最強と呼んでも差し支えない快挙を成し遂げたことは間違いない。しかしターボにはまだ倒すべき相手が残っている。
ツインターボと共に成長して、本気のレースで敗北をもたらした
諦めかけたターボをずっと支え続けた恩人、
まだツインターボは、
「トレーナーとして、今の質問にお答えします」
ターボの隣でマイクを握り直し、心を落ち着けながら前を向いた。
わくわくした様子で、かつ若干狂気を感じる表情をした女性記者とバッチリ視線が合った。どういうわけかプレッシャーはまるでなく、汗でマイクを取り落とすこともなかった。そしてはっきりと口にした。
「俺は、ツインターボと一緒に三冠を取ります」
宣誓は、そのまま全国に中継された。ツインターボのみならず日本中に約束をしたのだ。
夢の道はまだ終わらない。距離が長すぎるから諦めるなんて、妥協する選択肢は俺たちにはない。だからこそ堂々と胸を張って言うことができた。
その『最強』になるために倒すべきウマ娘が、もう一人存在していた。
質問をした雑誌記者が『素晴らしいですっ!!』と大声で叫んで、そのあと気絶するように倒れ込んで大騒ぎになった。その記者会見会場付近。開いている扉の影で腕を組んで、一連の様子を見ていた鹿毛のウマ娘がいた。
「……いいね。でも、最後のレースにはボクがいる」
一部始終を見ていた彼女は、ターボの宣誓を聞いた時から挑戦的な表情で笑い、いつになく闘志を燃やす。そして誰に言うでもなく、ニッと笑いながらつぶやいた。
「残念だけど。キミにその称号は譲らないよ、ツインターボ」
長いポニーテールを翻した彼女は背を向けて、その場を立ち去った。