宝塚記念までの間、GⅠレースに本気で勝つために覚悟を決めたネイチャの生活は一変した。今までにないリスクを取ることで、決して負けないという『覚悟』を持つ。ツインターボやトウカイテイオーのような不屈の精神を求めた。この一戦のために怪我を恐れずに、自分自身を追い込んだのだ。
しかし現実はそう甘くはない。というのもハードトレーニングは厳しいものだという印象を持っていても、具体的にどんなことをするものなのかを知らなかった。
……まさか、山ごもりをすることになるとは思っていなかった。
「嘘でしょ?」
ジャージ姿で、木々に囲まれた山中に放り込まれたネイチャは唖然とした。
森の向こうの空でトンビが旋回して飛んでいるようなど田舎。誰もいない場所にぽつんと連れて来られたときは、さすがに冗談だと思った。そりゃあトレーニングジムで1日を過ごして、運動後に気持ちよくベッドで眠れるような贅沢な生活を送れると思っていたわけじゃあないけれど。ここには本当に何もない。少なくとも、うら若き乙女が青春を過ごす場所じゃない。
「トレーナーさん、ここでやるってマジ?」
「マジです。安心してください、最低限の環境は整っていますので」
ここまで連れてきたトレーナーの目は本気だった。
どうやらここはハードトレーニングを行うトレーナーの間では伝統ある場所らしく、焚き火やテント跡など他のウマ娘が過ごした痕跡もあった。つまり、こんな場所では過ごせないという言い訳はきかない。すでに誰かが通った道なのだ。
ネイチャは早々に諦めて、言いたいことをこらえて、トレーニングを始めた。
「……OKです。では次のセットまであと一分、息を整えておいてください」
「はっ、はひぃっ……!!」
ひととおりのセットを終えると、茶色土の地面に汗だくでぶっ倒れた。倒れながらも、かろうじて見てくれているトレーナーに返事をした。
いつもの赤いジャージ姿だが腰には太いロープが巻かれていて、辿っていくとロードローラーよりも大きな極大タイヤが積み上がっている。これを引っ張って一定距離動かすのが今日の目標だが……あまりにもキツすぎる。絞った雑巾を、さらに強い力で絞って体力を捻り出すような所業だ。今までもレースや練習で力尽きたことはあるけれど、これほどに限界を間近に感じたことはない。
「はぁ、はあっ。トレーナー、先輩ウマ娘って、こんなヤバいトレーニングをこなしてたの?」
「ええ。仲良くさせて頂いている専門のトレーナーがいまして。ジュニア級から二年、このメニューをこなしたそうです」
「怪物じゃん……」
いくら天下のトレセン学園とはいっても、あまりにも狂気的だ。走り込み、タイヤ引き、瓦割りに崖登り。全てを終えた時には全身の筋肉が悲鳴をあげて立ち上がれなくなっていた。しかも全部こなせば目標達成というわけではなく、全工程をいかに早くこなせるかタイムを測っている。とてもじゃないが無理だ。
実のところナイスネイチャはそれほど頑丈なウマ娘ではない。本来ハードトレーニングをやり遂げる見込みのあるウマ娘のような素質がないゆえに、相応にレベルを下げている。だというのに目標タイムには及ばない。初回を終えた感想としては、無事に終えられる気が全くしなかった。
「ごめんトレーナーさん。目標タイムどころか、暗くなったのに全然終わらなくて……」
「いえ、このトレーニングは本来特別に頑丈な成長期のウマ娘に課すものです。期間も短いですし
条件も諸々違います。私のことなら気にしなくて大丈夫ですよ」
「ありがとう。はぁぁ……こんなトレーニングをしてるウマ娘もいたんだねぇ」
土の地面に倒れたネイチャは、田舎の夜空を見上げながら思う。一体どこの世界のどんなウマ娘がこんな正気の沙汰じゃないトレーニングをやりきれるというのだろうかと。やりきったウマ娘の顔が見てみたいと心底思った。
「さて、ちょうど一分です。次のセットに移ってください」
「ひ、ひええっ……!! う、うううっ。がんばらなきゃ……!!」
ゆっくり休む暇もない。自分の体に鞭打って立ち上がった。天才がこのトレーニングをこなしているということは、逆に言えば、これを全てこなせるようになれば見違えるほど成長できるということだ。
ナイスネイチャはもはや根性だけで動いていた。同じトレーニングをこなせば成長できると信じて突っ切ろう。立ち上がって再び巨大タイヤを引くために地面に踏ん張って力を込めるが、うまくいかない。体力が落ちてくるたびに辛くなる。しかし、それでも。
「うぐぐぐぐぅぅ……!! 3着ウマ娘なんて、もう言わせない。負けてたまるかぁ……っ!!!」
ハードトレーニング適正の薄いネイチャはすぐに伸びることはなかったが‥…しかし亀のような速度で、タイヤが動き出す。まるで今までの人生の歩みのよう。遅いが、重石を引き摺りながら着実に前に進んでいた。
GⅠ勝利強化期間では、食生活も大きく変わった。
泊まり込みはほどほどに、ネイチャは定期的に中央トレセン学園に戻る生活を送っていた。というのも、学生なので山籠りばかりしているわけにはいかなかったのだ。授業には出なければならず、ボロボロになった自分の姿を見せることになった。友人から大変に驚かれて、さらにに昼食の際にも多くのウマ娘の視線を奪った。
トレセン学園では、ほとんどツインターボと一緒に昼食を食べている。しかし今日目立っているのは、目立ちたがり屋のターボが原因ではない。ネイチャは目元をヒクヒクと動かし、自分で持っているお盆を見てドン引きした。
「おー。ネイチャ、それ自分のぶんか?」
「そう……みたい……」
ナイスネイチャの持ってきたお盆には、確実に胃袋におさまらない量の料理が積んであった。
油断すると倒壊しそうなほど山盛りにされた炒飯と、一皿に大量に積み上げられた餃子のセットが専用のメニューらしい。自分のことながら、これにはドン引きだ。これを全部食べろというのか。確かに日頃のトレーニングで体は栄養を求めているのがわかるが、しかしこれは……
(これがハードトレーニングウマ娘専用メニュー……エグすぎでしょ!?)
トレーニングの一環とはいえ、これではテレビ番組のフードファイトじゃないか、と。
ちなみにターボは普通の量だ。中央に復帰してからは以前よりも食べる量は増えたが、それでも常識的な大盛りの範疇を出ない。食堂ウマ娘の視線を奪っているのは、やはりネイチャの富士山盛り定食だ。
ええい、ままよ。ネイチャはやけくそ気味に箸を動かしながら、タイムアタックの如くかっこんだ。満腹になるまえに食べ切るのだ。しかし、それも圧倒的な物量に押し潰される。改めてGⅠウマ娘になるための道の厳しさを思い知って、途中で涙目になった。
「き、きついっ。いくらウマ娘とはいえ、こんなの食べきれるわけないでしょ……!」
「そっか! ネイチャ、オグリのまねっこをして強くなろうとしてるんだな!」
「違うわよ。え、オグリ先輩もこんなヤバい量を食べてるの?」
「そうだぞ。これも限界ギリギリの勝負だな!! がんばれネイチャ!」
ちなみにオグリが大量に食事をとっているのは日常的なことで、しかも今ネイチャが食べている十倍以上を余裕で胃袋におさめていることを知るのは、もう少し先の話であった。
GⅠに勝つと決めてトレーニングを始めてから、瞬く間に日々が過ぎていった。
山ごもりのハードトレーニングと合同トレーニングで鍛えて、失ったエネルギーを食事で補う。学園の授業もしっかりとこなしていく。シニア級どころか人生の中でも、かつてないほどキツい日々を過ごした。普通のウマ娘のように折れなかった。ネイチャの心にあり続けたのは、かつて親友と交わした約束と、今まで涙を呑んできた敗北の味だ。
ツインターボが中央を去る時、トゥインクルシリーズで待っていると約束した。だからターボがGⅠに挑む前にどうしても勝ちたかった。本気の勝負で迎え撃ちたかったのだ。
そしてもう一つはGⅠに勝ちたいという一心だ。敗北は、もういらない。疲労困憊でフラフラな状態が続いても、そのときの気持ちを思い出すことで頑張れた。トレーナーが限界を見極めてくれたおかげもあって、綱渡りのようなギリギリの道を歩き続けることができた。
(ターボやテイオーは折れなかった。だからアタシも折れるもんか……っ!!)
人生で一番頑張ったと胸を張って言えるようになる。それがナイスネイチャにブレーキを踏ませない。同時に、トレーニングを重ねるたびに心中に確かな自信が根付いていくのを感じた。
雨の日も風の日も、トレーニングを決してやめなかった。
親友に励まされ、仲間に見守られながら──最終日までやりぬいたのだった。
宝塚記念の当日。
GⅠ宝塚記念は阪神レース場で行われる2200メートルのレースだ。日本のGⅠレースの中でも有馬記念と同じく、ファン投票で選ばれたウマ娘が出走する、上半期最強のウマ娘を決定する戦い。シニア級1年目の星・ナイスネイチャも出走が許された。
しかし他に選ばれるウマ娘もまた人気者であり、トゥインクルシリーズで実績を積んできた強者だ。当然、簡単に勝つことはできない。ファンにとっても自分が推したウマ娘が出走することになるため、その注目度から必然来場者数は多くなるというプレッシャーもある。
緊張しているウマ娘をよそに、ファンは推しているウマ娘について熱心に語り合っていた。
「俺、今日のレースをずっと楽しみにしてたんだよ……!!」
「去年はテイオー、今年はオグリが三冠取りそうだけど。マックイーンの活躍も見逃せないよなあ」
「ライスシャワーが出走しないのは残念だな。今日一番の対抗バだったのに、もったいない」
客席の彼らはレースの前に、おのおのが想いを打ち明けていた。
近年の世間からのレース界への興味度は極めて高い。なんといっても今日のレースの目玉である『三強』の一角、令嬢・メジロマックイーンについての話題が絶えなかった。
マックイーンはメジロ家で唯一天皇賞春秋連覇という偉業を達成したウマ娘。黒基調の勝負服でターフに姿を表した。彼女にファンは大きな関心を示した。煌びやかなGⅠの舞台に登場すると、大半のファンがいっせいに腕をあげて声援を送った。
その一方。GⅠでクリスマスカラーの勝負服を着たネイチャは、日の当たらない地下道からその光景を見て、一人青ざめていた。
「うわぁ、すごいわ。うう、なんか緊張してきたかも……」
何度もGⅠは経験してきたけれど、気合を入れてきたぶんプレッシャーも比例して大きくなっている。今日はいよいよ努力の結果が試される当日だ。マックイーンは軽くスカートをつまんでカーテシーで優雅に礼をすることでファンサービスをしているが、とても自分にそんな余裕はない。手が震える。そこで自分の心が弱気に動くのを感じて、慌てて首を横に振った。
「違う! 大丈夫。アタシはやれる! 勝つために頑張ってきたんだからっ!!!」
いつだって、心の中で言い訳をしてきた。今日はそれは無しだ。
これまで「今一歩」のところで負けてきたのはわかっている。今日は絶対に緩めない。おなじみ三着、なんてもう言わせない。言わせてたまるか。このメンツの中で一着を奪い取ってやる。
グッと拳を握りしめて震えを止めてから、地下道からコースに歩み出た。
出てきた瞬間に光に包まれ、音が爆発する。
ファンである観客たちが声をあげたのだ。有マ記念以来の応援の声が注がれて身が震えた。ついでに観戦に来ていたターボが身を乗り出して「ネイチャーーーー!!」と、誰よりも大声で叫んだのをはじめとして、次々に熱い歓声がかかる。
「頑張れナイスネイチャ!!」
「今日こそ一着取れるぞ! いいレースを見せてくれよっ!!」
「ネイちゃん、一番に応援してるからね!!」
ネイチャ自身が思っていた以上の多くの声援が響いた。特に『ナイスネイチャ応援団!!!』と書かれた垂れ幕を掲げた大人が印象的であり……地元の商店街の人たちだ。ネイチャの顔見知りの、家族のように思っている大切なみんな。
しかし今はネイチャは視線をそらし、神妙な顔つきで黙々と待ち位置まで歩いていった。そんな姿に老齢の彼らは顔を見合わせた。
「ネイちゃん、どうしたんだろうな。緊張してんのか」
「バカね、あの子はあんたより場数を踏んでるんだよ。レース直前だから集中してるのさね」
「あの表情。気合い十分……ってことだな!」
やんや、やんやと大人たちは顔を見合わせながら勝手に盛り上がっている。ファンの声を聞いていたネイチャトレーナーは微笑みを崩さない。担当バの様子が普段と違っても彼に動揺はない。かわりに隣にいたターボトレーナーが怪訝そうに尋ねた。
「ナイスネイチャ、いつもと様子が違いませんか?」
「ええ。ネイチャさんは今日のGⅠに勝つために過酷なトレーニングを行いましたから。全てを今日のレースのために注いできた。乗り越えたぶんの自信をつけて、もう後に引けないように追い込んだんです」
「あの超ハードなメニューですか。俺は一部しか知りませんけど、よくアレを乗り切りましたね……」
体験したネイチャのみならず、トレーナー側から見てもあれは相当狂ったトレーニングだ。山籠りに崖登りって一体何なんだ。しかし、自分が狂わなければ番狂わせを起こすことができないと自ら言い聞かせ、やりきってしまうのだから大したものだ。そういうところは、ものすごくナイスネイチャらしいと彼は思った。
一方でウマ娘側。隣にはイクノとターボ、そしてオグリが並んでいた。世間でも人気のウマ娘である彼女たちは今日のレースには参加していない。一応ファン投票である宝塚記念に参加できる実力の持ち主だが、各々事情があって不参加だ。
「イクノ〜なんか難しい顔してるぞ?」
各々が思いのままにネイチャの応援をしている最中。ターボとオグリの二人は、イクノの様子がおかしいことに気づいた。前から覗き込んだターボの問いに、前で腕を組んだイクノは難しい表情で答える。
「緻密な計画に基づいているとはいえ、今回ネイチャさんが取り組んだトレーニングは故障確率が高すぎました。すみません……私としては気が気ではなかったので、今も落ち着かない気持ちになっているみたいです」
「失敗だったということか?」
「いえ。今のは私の感想に過ぎません。最終的に決めるのはネイチャさんですし、決断の結果、目的通り肉体面と精神面で大きく飛躍されました。目的は達成した。ならば、あとは勝つのみかと」
自身の方針と相反するからこそ微妙な表情を隠せないでいるが、想いとは別に成果も認めていた。怪我をしやしないかと心配していたイクノだが、ひとまずそこは杞憂に終わったのでよかった。もとより注意深い性格で、かつネイチャ自身が見たという予知夢の件もあったためだが……心配し過ぎたかもしれない。もちろんレース中に何かあるかもしれないので、油断はできないけれども。
一緒にトレーナーとウマ娘の五人が横並びで観戦していると、ファンファーレが響く。全ウマ娘がコースに出たのを確かめた後。いよいよ宝塚記念の実況がはじまった。
『10万人に迫るファンが阪神レース場に集いました。宝塚記念、GⅠ芝2200m。選ばれた14人のウマ娘が夢の舞台に立ちます』
『一番人気はなんと言ってもこのウマ娘、メジロマックイーン。今年も春の天皇賞を制覇し、上半期の最優秀ウマ娘として選ばれました』
コース上のネイチャは、はじめてちらりとライバルを見た。
今日の一番のライバルはもちろんマックイーンだ。このGⅠに勝つためには、最強の名を欲しいままにする彼女を超えなければならない。これまで何度も戦い、敗れてきた相手の一人だから実力はよく知っていた。だからその難しさは身を持って知っている。
さらに今日は、ほかのウマ娘も強敵揃いだ。よく言われる『三強』のライスシャワーや、同期最強のテイオーこそ不在であるものの、マイル界の覇者や、GⅡ連覇ウマ娘など、名声を勝ち取ったウマ娘がゾロゾロといる。ウマ娘ファンが認める実力者達を相手に勝つことができるのだろうかと、やはりに引け目に思ってしまう。
しかし会場の様子を伝える実況は、ナイスネイチャを彼女たちよりも高く評価した。
『三番人気は2番、ナイスネイチャ。シニア級1年目世代にしてGⅠ入賞数ダントツの実力派ウマ娘。今日はいちだんと気合の入った表情をしていますね』
『彼女はこれまでのGⅠレースで全て3着という異例の成績を出しています。今回こそは1着を取ってやるぞと言わんばかりの沸る意思が、この実況席まで伝わってきました。好走を期待しましょう』
そうだ、実況の言う通り。自分だって決して負けてはいないのだ。ネイチャも思い直した。
今日の自分は一味違う。やる気は充実しているし、今までなかった自信も会場に持ってきた。マックイーンに及ばないもののファンの数は非常に多く三番人気まで推して貰っている。応援にこたえたい。勝って、応援してくれたみんなに恩返しがしたい。それが自分の原点。
(いつも通りやる。いや、いつも以上の走りで、勝ちに行く……!!)
胸に片手を置いてひとつ深呼吸して、一度気持ちを落ち着けてからゆっくりとした足取りでゲートに向かう。覚悟を決めた顔をしたネイチャの動きはすでに美しく、一切の澱みはなかった。
ほかのウマ娘も実況解説を受けながら一人ずつゲートインしていく。やがて全員の準備が整って数秒後。緊迫感の中、ゲートオープン。全員が揃ってスタートした。
『全員綺麗なスタートを切りました。いよいよ始まりました宝塚記念、先頭はルーブルベガ、ビワシーザー。少し離れてメジロマックイーン。ゴールデンアラシ、アイルトンサーバス、インターライナー。一バ身後方にチトセステージ、ナイスネイチャ──』
レース開幕、出遅れたウマ娘はいなかった。
横並びのバ群は前後にばらけて、徐々に内側に収束して最初のコーナーに向けて狭まっていく。ネイチャの先には7人のウマ娘がいた。後方に控えるのは作戦通りだ。前すぎず後ろすぎない、得意を活かせる良い位置だ。
(これなら……! ここなら前を狙えるし、体力も温存できるっ)
ネイチャはこの展開に、平静を保つように心がけていた感情を僅かに高揚させた。どれほど努力を積んでも相性や時の運によって結果が左右されるのがウマ娘レースだ。それゆえに、得意な位置取りを取れたのは大きい。ターボと一緒に走るときは番狂わせが多かったのだが、ほぼ想定通りだ。
しかし若干の想定外もあった。唯一気になったのは、強く意識していたメジロマックイーンの位置どりだ。想定よりもやや早いペースで先行している。客席のトレーナー達も、普段のマックイーンとの違いを感じていた。
「マックイーンは普段より先行気味か。勝負を仕掛けてくるタイミングを測るのが難しくなるな」
「ですが他のウマ娘はほぼ予想通りの動きです。ネイチャさんは差しウマの作戦を活かせる良い位置につけている。ネイチャさんの前で固まったバ群が気になりますが……どうなるか」
もとよりメジロマックイーンは先行適性の高いウマ娘だ。今回の動きも想定外というほどではない。ただし予想外だったのは、今回のレースでは先行したいと考えたウマ娘が多かったことだろう。序盤から牽制のしあいが発生して若干バ群がもたついていた。
この状況は前に出られない懸念を生み出す。しかしそれと同時に、勝ちウマになれずに停滞しているネイチャにとって勝利の突破口ともなりうる展開でもあった。
(っ、前が詰まった。でもマックイーン先輩にとっても苦しいはず。春天の疲労が抜け切ってない中で、この状況……この隙を突いて勝つ……っ!!)
早すぎれば体力が持たないし、遅すぎれば機を逸する。バ群に巻き込まれたらそれで終わり。差すタイミングが重要だ。感覚を研ぎ澄ませばタイミングは分かるはず。
勝機はかならず来る。余計なことを考えないように、心を無にして全力で走り続けた。ネイチャは奇跡を信じて、極限まで目の前の景色に集中した。幸いハードトレーニングをこなしたおかげで調子はすごぶる良い。逆にトレーナーの予想通り、先行したほかのウマ娘も何人かは若干動きが鈍かった。
(きたっ、今がチャンス!!)
ネイチャは耐えた。そしてある瞬間、目の前に光明が差した気がした。
コーナーを曲がっている最中、バ群に道ができた。普段は見えない道筋。しかしターフに光が見えた気がした。艱難辛苦を耐え続けたナイスネイチャのために、刹那の間開かれた扉のように思えた。
極限までレースに集中していたネイチャは勘を信じた。一秒たりとも迷わず、今までにない最大の賭けに出た。
『第三コーナー曲がりましたが順番ほぼ動きません。先頭はルーブルベガ、ビワシーザー、リードは一バ身。三番手メジロマックイーンは終盤に向けてじりじりと差を詰めている……おっとここでナイスネイチャ動いた! 中段後ろから五番手まで上がってきた!!』
『早い段階で外に回ってきましたね。賭けですが大きな差もありませんし、ここで勝てば取れるリードは大きいですよ』
遠心力にふられるようにバ群が外に出て、その外側にいち早く位置取ったのがネイチャだった。
「なっ……!」
「ここでスパートっ!?」
そして、それはマックイーンを含めた他のウマ娘に大きな動揺を産んだ。全く不意打ちで抜け出したため、タイミングを図っていた他のウマ娘は抑えられて動き辛くなった。意図したものではない。しかし、最高のタイミングで先行していた他のウマ娘はペースを乱す。
(勝ちたい、絶対に、ここで勝ちたい──!!!)
絶対に譲るまいとする、普段のナイスネイチャにはない力強い走りで猛追する。
その鬼気迫る表情に、ファンのみならず出走バも動揺を見せた。ターボをはじめとした他のウマ娘は楽しげにはしゃぎ、驚いた様子で見つめ、自分でもそうするだろうと腑に落ちたように頷いた。
「ようし、いけーっ! つっこめネイチャーー!!」
「あんなパワフルな走り方ができるなんて。すごいです、ネイチャさん」
「山にこもって崖登りとかしていたのだったか。ネイチャのトレーナー。前にメニューを見せてもらったが、あれはどこまでやりきれたんだ?」
「最後までやりきりましたよ。最後の最後で、定めた目標タイムも達成しました」
ナイスネイチャを支える絶対的な自信の源。ここに来るまでに積んだ過酷な山籠りのトレーニングを、ネイチャは完遂してきた。最初は一日かけてやりきるのがやっとだったのに、最後の最後は根性で目標タイムにギリギリ手を届かせた。
もともと鍛え続けていた肉体に、地道なトレーニングの成果が現れた。
差しウマとしてのキレる脚が今までにないほどに仕上がっていた。ターボが喜んでいる間に、ネイチャは一気にまごついているウマ娘を抜き去った。想定以上の走りで突き抜けていく。強靭なパワーで集団をついに抜き去り、一陣の風のように、外側から押し通ってみせた。
『第四コーナーから直線コースに向かいます。ここでメジロマックイーンが一気に加速ッ……! 先頭変わった! そして前の二人にナイスネイチャ並んだ! そして抜いた!! 二番手がナイスネイチャに入れ替わった!! これで先頭との差は二バ身ッ!!』
最後の直線。わずか350メートル程度の直線で王者メジロマックイーンの背中を捉えた。彼女はネイチャが動いている間にすでにスパートをかけていて、後続のバ群を突き放して先頭に立っていた。
(っ、まだ……!! まだ勝負はついてないッ!!)
ネイチャは睨みつけるようにゴールを見据えつつ前との差を測る。目測の結果、このまま進めばきっと間に合わないと悟った。だがまだ諦めることはできないし、ここから巻き返す可能性があることを知っている。
阪神レース場にはゴール手前に罠が待ち構えている。僅かに残った体力を奪い去る急坂。走り終えて気を抜いたウマ娘を例外なく追い詰めてきた難所だ。
まず最初に、その『罠』の入り口を踏み締めたマックイーンの表情がわずかに濁った。すでに体力を失っている彼女には厳しい状況だ。それに続けてナイスネイチャも踏み込み、そして急に脚から重さが伝わってきた。
「くっ、この程度……!!」
「ううっ。負ける、か……ぁっ!!」
実際に数字にした角度はそれほど大きくない。しかし、脳内での感覚は斜め30度の急坂だ。それほどに死力を尽くしたウマ娘にとっては絶望的なほど脚に負担をかけてくる。
第三コーナーから脚を使ってきたネイチャにとっても重すぎる負担だ。しかしマックイーンの脚もこの坂道で鈍らざるを得なくなる。これこそが逆転の可能性。差をつけられ、ギリギリまで追い詰められたネイチャにとって、最後の200メートルは希望の光だ。
(限界ギリギリッ……! でもこの程度、ターボなら笑って走ってるッ!!!)
息も切れて視界がチカチカと白く染まっている。限界ギリギリのネイチャを支えたのは、さまざまな極限状況を乗り切ってきたツインターボの姿だ。限界寸前のネイチャを、想像の中の親友が全力で応援した。
『燃料切れ寸前で走るときが一番楽しくて力が出せるぞっ!! がんばれネイチャ!!』
まだ自分は力を出せる。今回のGⅠのためだけに、そういうトレーニングを積んできたから。そしてもしここで負ければ道標を失ってしまう。だからここで少しも緩めてはいけないのだ。
(諦めない諦めないぜったいに、諦めないッ!!)
ネイチャはこれまでの日々を思い出して自分自身を鼓舞した。
三着でも、二着でもだめだ。
欲しいのは最高の舞台、GⅠの一着のみ。
このレースは運に恵まれた。一着との差もほんの僅かしかなく、逆転を可能にする千載一遇のチャンスが巡ってきている。勝利の女神の後ろ髪はすぐそこだ。ここで掴めなければ二度と届かないと思うような状況にあった。
──勝ちたい。
全てを使い果たしたっていい。ネイチャは今にも尽きそうな体力を無視して根性で力を振り絞る。脚にパワーを巡らせて、最後の全力を叩きつけた。
「はあああああああああっ!!!」
坂の途中、マックイーンのウマ耳と視線が僅かに動く。気迫、あるいはオーラ。纏う雰囲気が別物だ。普段とのネイチャとは明らかに違う、なりふり構わない泥臭い疾走が先頭を追い詰める。
マックイーンも速度を維持して、さらに加速しようとするが、不可能。これ以上のスピードでは走れない。疲労が実力を最大限まで発揮させない。
視界が白黒に明滅する中、薄い意識の中で唐突にネイチャは思い出した。
トレーナーが応援してくれていること。商店街や、ファンのみんなが支えてくれたこと。自分は普通のウマ娘だけれども、それを言い訳に今のままではいられない。
アタシだってターボみたいに。
テイオーみたいに、
勝ってキラキラ輝ける一番に……
『なれるぞっ、ネイチャはすごく強いからなっ!!』
最後の最後で、再び親友の顔が浮かんだ。想像の中で、キラキラの輝きをまとって這い戻ってきたツインターボが寄り添った。その小さな手でネイチャの背中を押した。
アタシの夢。目標。
(キラキラ輝くウマ娘に、今、なるッッッ!)!
幻聴に後押しされたネイチャは、死ぬ気で、壊れんばかりの力を絞った。
坂を登り切った二人は、同時にゴールラインに到達した。
「っ……!!!」
「くッ──」
ゴールイン。その瞬間を目撃した客席が大きくざわついた。
衆目から見ると完全に同着で、どちらが勝ったのか全く見分けがつかなかったのだ。続々とほかのウマ娘がゴールインしてくる中、ネイチャは汗をポタポタと滴り落としながら、その場で膝をつき、そのままゆっくりと仰向けに倒れた。
「はっ、はぁっ! はっ、う……はあっ」
マックイーン含めたほかのウマ娘も疲れ果てていたが、ネイチャの疲労はそれよりも上だ。これまでにない全てを使い果たしてしまった感覚に支配され、いつものように息ができない苦しさと脱力感があった。必死になりすぎて、リミッターが外れていた。燃料の一滴まで燃やし尽くしてしまったのだ。
しかし、ともかく勝負はついた。結果はどうだったのだろう、
頑張って首を傾けると上位2段に自分の番号はなかった。そのかわりに『写真』の文字が記されていた。どうやらかなり難しかったようで判定中のようだ。
(勝ったか、だめだったか……どっち!?)
走ったネイチャ自身にも勝敗は分からず、緊張で嫌な汗が流れた。いつ判定が出てもわかるようにウマ耳を澄ませたが耳鳴りがひどい。お願いだ。このままだとモヤモヤして耐えられない。
息を整えることも忘れて、ネイチャは大の字に寝転びつつ涙ながらに祈った。敗北がジリジリと迫っているような気がして泣きそうだった。
(頼む頼む頼む頼む、頼みますっ……)
さっきまでの熱心な気合いはどこへやら。怖すぎて目尻に涙が浮いている。狭間の中で焼かれている時間はほんの僅かな間だったはずだが、誰より望んでいるネイチャには十分以上の長時間に思えた。
ざわり。
固く目を瞑っているネイチャは、会場に驚きの気配があふれたのを感じた。
怖すぎて掲示板を見られない。ネイチャは勝利を祈りつつも、一方で絶望しきらないように、あらかじめ心の中にと予防線をたくさん張った。レースが終わったから多少は自分を許してもいいだろう、いざとなったら「ここまでいけたんだから負けてもすごかった! 2着でも頑張った!」と思い込もう。
たっぷり言い訳してから、おそるおそる目を開けて掲示板を見た。ハッキリと着順が決まっていた。
スクリーンには判定写真がうつしだされている。何本かの白線が引かれていて、ゴール到達時点の自分とマックイーンの姿が映し出されていた。
同着ではない。差は僅か1ライン、前に出ているのは自分だ。
それは、つまり──
「あっ……」
へなへなと力が抜けた。倒れていなければ、崩れ落ちていたと思う。遅れて実況の声が届く。
『やった、やったぞ! ナイスネイチャがやりました!! 執念のGⅠ初勝利! 王者メジロマックイーンを僅か10センチ未満の僅差で破って勝利だ!!』
声援が聞こえる。自分を讃える声だ。呆然と紙吹雪の散っている空を見た。綺麗な青空は歪んでうまく見えなかった。
全部出し切った。
ターボのようになりたくて、後悔しても構わないとフルスロットルで突き進んだ。
「勝てた……?」
まるで実感がなかった。全身が人形になったみたいに力が入らなくて、信じられなかった。
今のレースは負けていた。一人で頑張り続けていたら届かなかった勝負だった。ここが自分の限界だったんだと一生胸を張ることができたレースだったので、もし負けていたとしても納得していただろう。しかし最後の最後。ナイスネイチャは自分の限界を、ほんの少しだけ越えられた。
みんなのようにキラキラできたわけじゃない。しかし今まで遠くにあった星を、ほんの一欠片だけ掴んで自分のものにすることができた。
「あ、あはは……やった。やったよ。アタシだって、やれたんだ……っ」
ネイチャはボロボロと泣いた。
とめどなく子供のように泣きながら、嬉しくて笑った。泥にまみれた今の自分は、やっぱりかつての憧れには遠かったけれども。
ようやく自分の手で触れられた嬉しさは、言葉にならなかった。
ナイスネイチャはその後、4年目以降もトゥインクルシリーズで現役を続けた。
結局GⅠに勝利できたのは、長い選手人生の中でその一度きりだった。しかしGⅠに最も多く入着し続けたウマ娘としてテレビ番組に出演することも多くなり、その人気は時の三冠ウマ娘にも匹敵した。
──ナイスネイチャさんにとって、最も印象に残ったレースを教えてください。
とある特番でそんなことを聞かれた時。大人になったネイチャは恥ずかしがりながら、「やっぱりシニア1年目の宝塚記念ですね」と答えた。納得の空気が流れたので、ネイチャは慌てて付け加えた。
「あ、単にGⅠに勝ったから……ってだけじゃないんですよ!」
「と、いいますと?」
「アタシみたいなウマ娘でも、届くんだってすごい自信になったんです。商店街の生まれで、今までずっと普通の生活をしてきたけど。あの日、ずっと願っていた憧れに指先が届いたんです」
「長年の念願が叶った、大切なレースだったということですね」
「まあ、でもあの後は余韻に浸る暇もなかったんです。ウィニングライブが終わった後にすぐにターボが押しかけてきて、『ネイチャ、GⅠでしょーぶだ!!』って言いにきて。慌ただしかったんですよ?」
椅子に座った和服姿のナイスネイチャは、その時のことを思い出しながら、苦笑いしつつそう語る。さらにテレビ出演者の一人が興味深げに問いかけた。
「ツインターボさんは親友でしたね」
「いつかGⅠで勝負したいって話はしていたので、その前にどうしても勝ちたかったんです。もっともあれはターボが頑張っている姿を見たから、自分もやらなくちゃって気合いが入ったおかげで取れた勝ち星なんですけどね」
「なるほど。そこから、あの伝説の勝負に続くわけですか」
「はい。その後は怪我を治して、それから最後のGⅠ、年末の有馬記念で約束を果たすことになったんです」
あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。
入学した当初はお互い何も持っていなかった自分とターボが、最後に最高の舞台で戦えることになるなんて。紆余曲折あったけれど、本当に運に恵まれたと思う。
(諦めなくてよかった。あの時、頑張り続けてよかった)
ナイスネイチャは他愛もない記憶をテレビカメラの前で愛想よく語りながら、改めて人生で最も至福を感じた頃に思いを馳せた。
オグリキャップ菊花賞編に続く。