12月25日。テレビ番組の解説者が興奮気味に語る声が、日本中の画面から響き渡る。
「ご覧ください、今年の有マ記念は、まさに過去最大級の盛り上がりです! 列車やバスはすでに大混雑、最寄り駅からレース場までの道は人で埋め尽くされ、交通は完全にマヒ状態です!」
クリスマスの当日に、ヘリコプターからの中継映像が映し出すのは、会場前に広がる人の森。中山レース場周辺に集った人々の波が、空から見てもその規模の大きさを物語っていた。例年とは比べ物にならないほど集った人々を迎えるのは、街中の巨大スクリーン。オグリキャップ、トウカイテイオー、ツインターボ。三人のウマ娘が描かれた広告が至るところに掲示され、圧倒的な存在感を放っていた。
「国を背負うウマ娘たちの勇姿を一目見ようと、ファンたちが日本中から集まってきています。まさに、これまで開催された有マ記念の中でも最大規模と言えるでしょう」
カメラは続いて、会場周辺の様子を映し出す。ファンたちは熱狂している。手に持つ応援グッズやプラカードには、三人のウマ娘たちの名前が書かれ、彼女たちへの期待が高まっているのがひしひしと伝わってくる。まさにこの瞬間を日本中が待ち望んでいたことが、映像から伝わってきた。
「皆さん、今回の有マ記念がなぜこれほどまでに注目を集めているのか、その理由は明白です! なんと言っても、新旧の三冠ウマ娘が出走するという、まさに夢のような対決が実現するからです!」
アナウンサーの声と共に、画面にオグリキャップとトウカイテイオーの姿が大写しになる。勝負服で真っ向から対峙し睨み合う二人。画面下に『クラシック三冠』と書かれた黄金の文字が浮かび上がる。
「クラシック三冠は並外れた偉業です。それが昨年のトウカイテイオーに続き、今年もオグリキャップが達成したという事実は、まさにウマ娘界の奇跡と言えるでしょう。そして今、その二人が同じ舞台に立つのです! ……さらに異例なのは、三冠という伝説に手をかけているのが、この二人だけではないということ!!」
三冠の頂きに立った二人に加えてもう一人。蛍光色の際立った勝負服をまとって腕組むツインターボ。新たなスターウマ娘が、二人に対等に並び立つように映像に姿を現した。
「異例の未勝利GⅠウマ娘ツインターボ!! 仮に彼女が有マ記念を制すれば、秋シニア三冠達成となります! サイレンススズカ以来の大逃げウマ娘としてその名を歴史に刻むことになるでしょう! これもまた、普通では考えられない快挙です!」
そして画面には、これから始まる熱戦に期待を寄せる現地ファンの興奮した様子が映し出される。中山レース場の入り口は人で溢れて、駅やバス停はあり得ない混み方だ。ヘリコプターの中継が、かつてない大変な事態に陥っている様子を見せてくれた。
「しかし、今回特別なのはこの三人だけではありません。その他のウマ娘たちも、いずれ劣らぬ強豪揃い。誰が勝ってもおかしくない、その緊張感と期待感が、ファンたちをさらに熱狂させているのです。だからこそ、このレースに勝利した者は、間違いなくウマ娘界の歴史に! そしてファンの記憶に永遠に刻まれることになるでしょう!」
どのチャンネルも有マの話題だ。別な番組では、熱狂するウマ娘ファンたちに接触してインタビューを行っていた。最初にインタビューに答えたのは、若い女性ファンの二人組だ。
「誰が勝つかって? やっぱり最強はオグリキャップですよ! 今年の三冠を見て、本当にそう思いました。今日は絶対にオグリが勝つって信じてます!」
「私はツインターボ推しです! ばひゅーんって加速する、ダブルジェットがもう大好きで!! あの子が逃げ切る瞬間を楽しみにしてます!」
小さなオグリキャップのぬいぐるみを抱きしめ、興奮した様子でカメラに向かって話し始める。一方でオグリファンの友人らしき女性はツインターボの青白ツギハギウサギのぬいぐるみを手に、仲良く声を弾ませた。
さらに画面は別のファンへと切り替わり、学生風の4人組がカメラの前に立った。彼らの応援しているウマ娘もそれぞれ全く違っていた。
「誰を応援してるって、もちろんトウカイテイオーです!! あんな怪我から復活して、またこうして大舞台に立つ姿を見られるなんて、感動以外の何ものでもありませんよ! ぜったい! 間違いなくテイオーがやってくれる!」
「いやいや、勝つのはトウカイテイオーでもマックイーンでもない! ライスシャワーだよ! 菊花賞の時だって応援してた! ずっと頑張ってたのを見てた! あの地道な努力が報われる日は今日だ!!」
「私? ナイスネイチャとテイオーの勝負が見たくて来たの。元々好きだったんだけど、今度は一着で勝てるんじゃないかって、もう昨日からドキドキが止まらない!!」
「みんな、オグリキャップとかテイオーの話ばっかりするけど……実はぼく、マチカネタンホイザが好きなんです。彼女の頑張り屋なところが、なんか自分と重なる気がして。あと、イクノさんも応援してます。なんていうか、彼女の真面目さが好きなんです…今日はふたりとも、いいレースをしてくれると信じてます」
ファンたちの熱い思いが画面いっぱいに広がり、それぞれの推しウマ娘に対する期待が伝わってくる。彼らの声は、これから始まるレースの大きな期待感を象徴していた。どのウマ娘が勝ってもおかしくない、そんな状況がファンたちをさらに熱くさせ、会場全体に熱気がみなぎっているのが画面越しにも感じられた。
日本一の興奮と熱気に包まれている中山レース場。地上の喧騒とは対照的に、薄暗い地下道には静寂が広がっていた。わずかに漏れる蛍光灯の光が冷たく反射している。
有マ記念の会場へと続く通路のひとつ。出走直前。ウマ娘たちが最後の準備を整えるための場所に足音が響く。トレーナーは灰色の壁を背に待っていた。通路の奥から衣装を整えた二人のウマ娘が現れる。担当のツインターボとオグリキャップだ。視線で互いの存在を確認し合う。
「一年前、ここに来ようと約束したな」
担当バのツインターボはトレーナーを見上げて、いつも通りの自信満々な笑みを浮かべた。オグリキャップも軽くうなずいた。共に流してきた悔し涙。汗。一生に等しい一年間、人生を捧げて走ってきた。本番を目前にしたいま余計な言葉は不要だ。
「二人とも俺の自慢のウマ娘だ。今日は最高のレースを、俺に見せてくれ」
トレーナーは二人に向けて真っ直ぐに拳を差し出した。最初にターボが、その次にオグリが歩み寄ってくる。順に拳をつき合わせて「任せろ」と意思を伝える。そして光の射す出口へと向かう。その先にはファンたちが待つ大舞台が広がっている。頑張れ、と。トレーナーは一人呟いて舞台から背を向けた。
ツインターボの視界が開けた。
瞬間、会場の喧騒が一気に耳に飛び込んできた。スタンドはぎっしりと埋め尽くされ、熱狂した観客たちが声を張り上げている。闇に染まったターボのオッドアイがキラキラと輝いた。その瞬間、実況の声が場内に響き渡った。
「さあ、ついに姿を現しました! 未勝利戦以外完勝! 異例も異例の大逃げウマ娘!! シニア三冠を成し遂げて伝説成るか! そのウマ娘の名前は、ツインターボッッッ!!」
ナレーションの煽りに応えるように、スタンドからはターボを応援する声が一層高まる。熱気と音の波は、空気を揺さぶる。ターボは歩きながら客席を見てポカンとした表情になる。見上げれば自分の名前が書かれた横断幕が揺れ、視界いっぱいのスタンドのファンたちが手を振り、声援を送っている。ターボはその光景に一瞬圧倒され、胸が熱くなるのを感じた。
嬉しい。みんなが見てる。口をわなわなと振るわせた後、ファンに向かって両手を振り、ピョンピョンと飛び跳ねながら「みんな見てるかーーー!!!」と叫んだ。
さらに盛り上がりはとどまるところを知らない。その背後。影から真剣な眼差しのオグリキャップが現れると、ターボ登場と同じくらいの大歓声が沸き起こった。実況もすぐに彼女を紹介する。
「ツインターボに続き、オグリキャップの登場だァッッ!!! ローカルシリーズが生んだ芦毛の怪物、クラシック三冠ウマ娘が最強を示すのか!! 人気投票一位!! ファンの声援に応えてターフに堂々舞い降りました!!」
オグリキャップの登場に合わせて、より大きな歓喜の声が響き渡った。彼女の名を掲げる横断幕が次々と掲げられ、ファンたちが彼女の名前を叫ぶ。オグリキャップはその熱い声援に応えようと、わずかに微笑みを浮かべながら、前で全身で大喜びを体現するターボより控えめに、スタンドに手を振った。
これまでに感じたことのないような歓声と視線に包まれ、ファンたちの期待を全身で受け止めていた二人。しかし歩き進めているうちに、その意識はコースへと引き戻される。
ターフには、緊張した面持ちで二人を見つめる他のウマ娘たちの姿があった。今日、この有マ記念で戦う勝負服を纏ったウマ娘達。戦場で戦うライバル達が二人を鋭く見ていた。その中でも、特に因縁を持つウマ娘はひときわだ。
ツインターボに鋭い視線を送っていたのは、オールカマーと秋の天皇賞でターボが白星を付けたライスシャワー。そして彼女の隣に立つメジロマックイーンだ。二人の視線には決して侮れない相手だという強い意志が宿っている。シニア級としての意地か、あるいは敗北の屈辱を返上する意志か。あまりの目力にターボは気圧された。
「う……な、なんだかめちゃくちゃ見られてるぞ……」
「そりゃそうでしょ。あんたら人気投票一位と三位よ?」
ウマ娘の威圧に怖がるターボと、それを感じていないらしいオグリに声をかけたのはナイスネイチャだ。久しぶりの友人の声に安心したように振り向き、そしてターボは嬉しそうにウマ耳をぴこぴこと揺らして迫った。親友の深緑色の衣装を間近で見るのは初めてで、テンションが戻ってきた。
「ネイチャ!! その服、近くで見たらもっとかっこいい!!」
「そうね。ターボ、あんたも勝負服、似合ってるよ。あとずっと聞こうと思ってたんだけどさ。胸につけてるぬいぐるみは何かのお守り?」
「これ? こいつはターボの大切な仲間だっ!! 今日が誕生日なの!!」
ターボは得意げに、両手で勝負服の青白ウサギを持ち上げてネイチャに見せつけた。ネイチャは記憶を漁るが、確か入学した頃は持っていなかったはず。これだけ特別扱いしているということは親しい人からの贈り物か。まあ普通に考えたらトレーナーだろう。
まあ、それはいい。それよりも勝負服を着て自分の前に立っていることが重要だ。本当に一年でとんでもない成果を上げてきた。親友の躍進が嬉しい。そしてウマ娘の走りたいという欲が、闘争心が胸の中で燃えあがる。
「アンタと、必ず勝負しようって約束したね」
「した!! ターボはここに戻ってきたぞ!!」
「最初にガチで走るレースが、有マ記念になるなんて思わなかったけどさ。今日のアンタはライバルで、勝ちたい相手。もちろんオグリ……アンタもね」
「分かっている。よろしく頼む」
ネイチャはオグリに投げかけると、素直に頷いてかえされた。オグリキャップは勝負服を着ているのに自然体で、普段トレーニングをする時と同じような面持ちでネイチャを見ていた。緊張を感じていないらしい。
本当に羨ましい才能だと思い唸った。ナイスネイチャは有マの舞台に立つのは二度目だが、表面上それなりに取り繕っているだけで、中身はしっかりと緊張しているというのに。素質だけでも並はずれているのにこれとは。負ける気はさらさらないが、やっぱり羨ましいと思った。
「残念だったなネイチャ。ターボが勝つぞ!! 勝つのはツインターボだっ!!」
絶対的な自信を持っているのは、オグリキャップだけではない。むしろターボのほうが絶対的な自信を持っているかのように、その場で自分を親指で示しながら、歯を見せて堂々と勝利を宣言した。それもターフに立ったウマ娘全員に聞こえるようにだ。
出走バ全員の刺すような視線がツインターボに集中したのを感じて、側に立っていたネイチャは背筋が凍えた。ちょっと、こんなところで……と慌てて止めようとしたが途中で止まる。ターボとて刺すような視線に晒されていることには気付いているはず。だが自信に満ちていた。
「……アンタ」
ネイチャは大きく目を見開き、しかし驚くことはしなかった。ここでも本気で全員から堂々逃げ切って勝つつもりでいる。そんなありかたがどうしようもなく、ナイスネイチャの知るツインターボらしいと感じたから。有マの大舞台に不釣り合いだと思いながらも思わず微笑んでしまう。
勝者は一人。それでも嬉しくなってしまうのは、大人から見捨てられて、負け続けても涙をこらえて戦っていた頃を知っているからだ。自分にできることは、互いの夢をこの舞台に懸けること。ナイスネイチャは赤緑色の胸元のリボンに手を当てて自分を示し、ターボに合わせるように笑みを作った。
「勝つのはアタシよ。アンタでもオグリでも、テイオーでもない。どっちが速いか勝負しよう」
「うん! やっとネイチャと勝負だっ!!!」
ターボとネイチャが拳を合わせた瞬間。かつて二人が交わした約束を果たす時が来たことを、ファンファーレと会場のファンの声が知らせてくる。ゲートに動きだす前、ツインターボはネイチャとの最後の言葉を胸に、オグリキャップとも視線を交わした。
オグリの瞳には独特の静かな闘志が宿っている。同じ釜の飯を食べて、同じトレーナーの指導を受けて成長した仲間。だが互いに言葉を交わすことはない。同じトレーナーを持つ者同士、手の内も心も知り尽くしている。いまさら宣誓は必要ない。二人は自然とゲートの方へ向かい始めた。
ツインターボはゲートの前にたどり着く。
立ち止まり、枠に入る前に見上げた。緑色の鉄柵が鈍く光り、目の前に立ちはだかる。それは何度も見慣れた景色のはずなのに、今日だけは違って見えた。ゲートの向こうには広がる芝生が淡い緑の海のように見え、そんな景色を見ていると心臓が少しずつ速くなってくる。
ほんの少し前まで平常心でいられたのに、勝手に呼吸のリズムが崩れ始める。大舞台だからなのか、それとも夢が懸かっているからか。ターボ自身にも分からない。心臓が昂り、目の前の景色が離れていく。
「……っ」
脳裏に蘇ったのは最悪。心に深く刻まれたトラウマが疼くのを感じた。これまでの重賞では感じなかった眼前のプレッシャーが、ターボの心の弱い部分に津波のように押し寄せる。ある意味ではあの未勝利戦と同じ。もう二度と巡ってこない。かけがえのないラストチャンス。ゲート前に立った瞬間に強く自覚してしまった。
「ツインターボさん、ゲートインお願いします」
スタッフに促されて肩を押されて前に出されそうになる。そこで、ハッとターボは思い出したように顔を上げた。このままでは困ったことになる。慌てて振り向いて声をあげた。
「ちょちょ、ちょっと。待って、5秒だけ待って!!」
「えっ。どうかしましたか」
ものすごく焦っていたものだから、レース場スタッフはビックリして両手を上げた。その前で深呼吸してから深く俯く。
『おや。ツインターボ、どうしたのでしょうか。ゲート前で立ち止まってしまいました』
ターボが突然不自然に立ち止まったことに、ファンやスタッフ達も戸惑い始める。まだゲートインしていない他のウマ娘も、怪訝そうにターボを見た。深く頭を沈めて頭を上げない。
勝負服にトラブルでもあったか。それともどこか調子が悪くなったのだろうか。どう見ても精神統一している様子だが、この時点で長くは待っていられない。これ以上は無理だとスタッフが改めて声をかけようとしたところでターボは再び顔を上げた。
宣言通り5秒。
遠目で見ているファンは分からなかった。近くでターボを見ていた者にとって、その変化は劇的だった。ゲートインするツインターボは笑っていなかった。冷静になったのか、それともかえって余裕を無くしたのか。
後ろの扉が閉められたターボはゲートの鉄柵に触れる。冷たい金属の感触が指先に伝わり、その表面にはかすかに錆びた跡が見えた。どこか懐かしい草の匂いが風に乗って鼻をくすぐり、蹄鉄に足元の芝が柔らかく沈み込む。風の音や草のざわめきがウマ耳に静かに響いてくる気がした。
(怖いって思うのも、辛い気持ちも。ターボは全部燃やして走れる)
トレーナーの言う通り。これまでを思い出すだけで、昂った心拍はすんなり落ち着いた。
歩んできた道は全て敗北に彩られている。この中山レース場で競争人生が終わった時の記憶は、一生拭うことができない。ゲートに立った時の恐怖。体の奥から背筋に、冷たい気配が張ってくるのを感じていた。
他にも怖いと思うことはたくさんある。スタートダッシュに失敗したらどうしようとか、後ろに沈んだら二度と夢が叶わないとか。何よりやり直しはない。ここで負けたらもう一生、こんなチャンスは巡ってこない。しかしそういう気持ちはターボエンジンの燃料に注げば、前に進む力に変換できるのだ。それがツインターボだけの特別な素質だとトレーナーは言った。
『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』
意識を集中させると、無人の芝が続くゲートの向こう側だけが見える。合図が来ると身体が勝手に沈んだ。気配は針のように一点に尖っている。ツインターボらしくない尖った気配に、周囲のウマ娘は一瞬警戒心を孕んでターボに意識を向ける。ターボは他のウマ娘を見なかった。
そして訪れる静寂。嵐が起こる直前のような時間、全員が前を向く。
『──スタートしました!』と。実況の声が響き渡る。
瞬間、ゲートが一斉に開かれ、全てのウマ娘が一斉に飛び出した。観客席が歓声で沸き立つ中、一目散に飛び出したのは当然、ツインターボだ。
「ターボジェットだ!」観客が一斉に声を上げる。青い彗星が現れたような、残像を残す領域のスタートダッシュ。ツインターボは猛スピードで芝生を駆け抜ける。初めて対戦する他のウマ娘たちがその後を追いかけようとしたが、誰もがすぐに理解した――このウマ娘を捕まえるのは不可能だと。その速さは、常識を超えていた。
『各ウマ娘一斉にスタート!! まず最初に飛び出したのはやはりこのウマ娘、ツインターボ!! ターボジェットは絶好調、オーバーブーストで突き進みます!!』
低姿勢でジェットエンジンを吹かしたターボは、極限まで磨いた一本槍戦法で突き抜けた。ツインターボの双玉の瞳はまっすぐ前を見据え、その先に見える景色だけを見つめていた。観客席の歓声が一層大きくなり、その歓声が彼女を後押ししているかのようだった。
『続いて先行するのはメジロマックイーンにイクノディクタス、その背後にオグリキャップと続きますが、ツインターボとの距離は開いていきます!!』
大逃げを潰そうとするウマ娘たちの影はなかった。前回は序盤で潰しにかかられたが、誰一人ツインターボを追いかけない。特に一度対戦経験のあるメジロマックイーンと、
悠々とターボがバ群から飛び出していく様を客席から見ていたトレーナーは「よしっ!」とガッツポーズした。まずは第一関門クリアだ。隣でレースを見ていたネイチャトレーナーが口を開く。
「なるほど。ここでツインターボさんを潰すために先行すれば、末脚勝負で勝ちきれなくなる。この展開は読まれていたのですね」
「ええ、まあ。他のウマ娘の立場に立てばそうなるかなと思いまして」
照れるように顔を背けた。トレーナーは『三強』相手に一度は破られたターボジェットを使って走らせる指示を出した。序盤から爆速を出すあの技は、崩れればレースが破綻する諸刃の刃だ。そのリスクを取らずに普通の『大逃げ』をやらせることもできたが、それでは勝てないと断行した。
だが一か八かのギャンブルをしているわけではない。それなりの勝算はあった。何と言っても、今回は秋の天皇賞と状況が違う。確かにこれまでのレースでツインターボは何をしでかすか分からない威圧感を与えただろうが、それ以上の実績を持つウマ娘がいる。クラシック覇者のオグリキャップ、トウカイテイオー。さらに長距離が主戦場のメジロマックイーンにライスシャワーを始めとした安定して強いウマ娘たち。より大きな脅威が控えている故に、ツインターボのために隙を晒すことはできない。
「ですが、まだ。これは勝負の舞台に立つための
十分に加速した末にターボのジェット噴射は終わって、滑空するような体勢が元に戻った。悠々と離れて、強豪相手に十バ身に近い先頭を駆けるツインターボを見た観客席は激しく興奮している。レースに無知な者であれば、圧倒的有利を取ったように見えるのだろう。しかし実際はまだ崖っぷちだ。
その証拠にターボは笑みを消し、真剣な表情でフルスロットルで駆けている。ナイスネイチャのトレーナーも、他のトレーナーも、ツインターボの取った大リードに全く焦っていない。長距離勝負で焦りは敗北に直結することを、彼女たちはよく知っていた。
「そうだね、ここまでは予想通り。だけど勝負は終盤……でしょ?」
隣でレースを見ていた女性が局面を見透かしたように言う。トウカイテイオーを有マに送り出した、俺の先輩の初瀬トレーナーだ。その一言は的を射すぎていて、思わず「うっ」とうめいた。
本来、大逃げウマ娘は競い合うことはない。逃げ切るか、追い抜かれるか。一度でも先行を許せば全てが終わる戦略。終盤に争う展開になると読むのは普通ではない。しかしツインターボは特別だ。初瀬トレーナーもそれを見越したうえで、テイオーに戦略を与えていたらしい。
「例の大技、今日のために仕上げてきたんでしょ。耳に入ってるよ」
「ええ。ターボも先輩ほどのトレーナーに意識されるウマ娘になったんですね」
「当然。それに情報収集は一番時間をかけたんだよ。うちのテイオーが一番意識しているの、ツインターボだからね」
「え……? それは、どうしてまた」
思わず目を丸くした。テイオーの対抗バといえば、同格のオグリキャップか、あるいは当時からライバル宣言をしていたメジロマックイーンではないのか。ツインターボは特に関わりがなかったはず。理由を尋ねたが、初瀬トレーナーは「秘密」と口を閉ざしてそっぽを剥き、レースを駆ける
そうして話していたのは僅か十数秒程度。レースはあっという間に中盤に差し掛かっており、バ群の争いが苛烈さを増していた。遮るもののないターボには順調な展開。一方で、先行するオグリは案の定、大逃げツインターボのようにはいかない。いや、かなり厳しくマークを受けている。
背後にライスシャワーとマチカネタンホイザが張り付いている。前方にはメジロマックイーン。完全に囲まれている。これは完全に警戒され尽くしている。さらにトウカイテイオーはすぐ後方で機を伺っていた。
「テイオーは好調。オグリと、マチカネタンホイザは、プレッシャーに当てられ気味か」
「今年の有マ記念は過去一番にレベルが高いと言われているそうです。確かに三冠の称号に、すでにドリームシリーズ入りが確定しているウマ娘も数人。しかしその世代とのレースが初経験であるにも関わらず、大きくは乱れていない。凄いことです。彼女達は間違いなく次の世代を担うウマ娘になる」
ここが時代の節目だ。マックイーンやライスシャワー、イクノディクタスらは既に引退を発表しており、そして入れ替わるようにジュニア級世代の新しい風が吹き込んできた。今走っているクラシック級、そしてシニア一年目のウマ娘は、時代を牽引していく立場になるだろう。
しかし世代は終わっていない。ここは
『さあ、先頭を行くツインターボは超ハイペースでリードを守っていますが、注目すべきは他のウマ娘たちが、軒並み速いラップタイムで追走している点です! この状況、かつて大逃げを得意としたレジェンドウマ娘を思い起こさせます!!』
実況解説が熱気を帯びた声でレースの展開を伝える。ツインターボの大逃げは予想通りだが、それに付随して着目すべき点があった。他のウマ娘たちも例年の有マ記念よりも速いペースで走っている。手元に届いた実際のデータを見て、解説者が驚いた声で続ける。
『スタート時から中盤まで、どのウマ娘もツインターボを無視しているかのような印象を受けましたが、実は逆です! 全体が大逃げのハイペースに引っ張られています! 慣れていないウマ娘にとっては非常に走りづらい展開のはずですが、どうやら多くのウマ娘が事前にしっかりと対策を立ててきたようです。ハイペースな展開が続くことが予想されます!』
ぶっ飛ばして中盤戦から離脱したツインターボだが、存在感は健在。むしろ後続に確かな影響を与えていた。いくらペースを落として垂れてくるのが分かっていても、視界の遥か先を走るウマ娘の存在は否応なしに敗北を想起させる。特に
熾烈な争いが繰り広げられる。その激流に身を投げているかのような、経験したことのないレースに特に苦しんでいるのは、やはりクラシック級の二人。オグリキャップとマチカネタンホイザだ。先頭集団に絡んでいるオグリは表情をこわばらせていた。
(これは、やはりトレーナーの言っていた通り……)
張り付くようにマークされているのをひしひしと感じた。青い焔を宿したライスシャワーの鬼気迫る威圧を直に受けて急かされた。だが前に逃げたくても道が塞がれている。さらに背後で気配を消しているトウカイテイオーの存在も忘れられない。いつ仕掛けてくるかわからない怖さがあった。
オグリはハイペースな展開には慣れているが、長距離で、これほどのプレッシャーをかけられながらレースを走るのは初だ。唯一幸いだったのは、このような状況になるとトレーナーからも聞かされて心構えができていたこと。動揺は少なく済んだおかげで無駄な消耗は控えられているはずだ。我慢すれば勝てる。しかし自由に走ることができない状況はひどく歯痒かった。
その一方で、オグリよりも長距離適性が高いタンホイザも、同じくウマ娘の狭間に囲まれて苦しんでいた。
(うわわっ! やっちゃったぁぁ……ううう。ぐぐぅっ!)
オグリに着いていこうという意識を持っていたタンホイザだが、そのまま自分のペースで走らせてもらえないオグリ用の檻に巻き込まれてしまった。「しまった」と、位置取りを変えておけばよかったと思っている顔を隠さない。致命傷ではないが、普段とは違う走り方を強要されてジリジリと体力を削られていく。幸いにも長距離が得意なので余力は十分だが、焦れるのがしんどい。
そしてウマ娘の牢獄を逃れ、彼女達の背後を追うこととなった王者トウカイテイオー。しかし彼女も余裕というわけではなかった。ちらりと背後を見れば、ピタリとナイスネイチャがマークしているのが見えた。真剣に。テイオーの影に身を隠して。磨かれた宝石のような鋭い眼差しで勝利を見ている。
(いい表情するようになったじゃん。このボクを利用してスリップストリームとはね。ま、今は好きにやらせてあげるよ……今はねっ)
などと不遜なことを考えるテイオーだが、かつてとの違いには驚いていた。以前にネイチャと戦った経験がある。その頃からレースでは自信のなさと、遠慮のような感情があった。今はそれが欠片もない。油断すれば持っていかねない。そう感じた。
それが分かっていてなおテイオーは笑う。どれだけ強くなったとしても、やっぱり勝つのはボクだと。油断ではない。元々『無敗の帝王』となった自分が追われるのは当然で、ウマ娘として更なる高みに昇るためにここにきた。強者が何人いようと、テイオーの心は揺らぐことはない。それに勝負どころは、もうすぐそこだ。
『さあ、レースは終盤に近づいています! 序盤で圧倒的なリードを取ったツインターボですが、後半に入ってからエンジンがかかってきたウマ娘たちの加速によって、その距離が徐々に縮まっています! 各ウマ娘たちがペースを上げ、ほとんど順位は動かないまま最後のコーナーに突入!』
実況の声が、会場の熱気と共にさらに高まる。声の通りツインターボと後続の差が徐々に狭まっていた。これはターボがスピードを落としたのではなく、スロースターターなウマ娘のエンジンに火がつき始めたのだ。そして観客の目で見ても分かるくらいの速さでリードが溶けていく。横断幕を掲げてターボを応援するファンから甲高い悲鳴があがった。このままだと、最後のカーブが終わる前に追い抜かれてしまいそうだ。
「っ……ハァ、ハァッ……!!」
ツインターボ自身、背後から迫りくる気配を感じ取っていた。蹄音が段々と近づき、まるで背中に迫る風のようにその圧力が重くのしかかる。最後のカーブで大量のバ群の足音を捉えるのは恐怖でしかない。そして長距離レース故にゴールに届くまでの距離はまだ残っている。
心臓が早鐘のように鳴り響き、視界が白く染まりはじめる。それでもターボは視線を前から逸らさなかった。絶対に姿勢は崩さない。背後の音は聞こえても、聞こえない振りをする。ゴールだけを見て走り続ける。究極の集中状態に到達しているターボの頭の中で、トレーナーとした会話が繰り返されていた。
時を少し戻して数週間前。自分達のトレーナー室でやった有マ記念の作戦会議が行われていた。ターボはオグリと揃って話を聞いていた。
『ターボ。有マで勝つために三つ。やってもらわなくちゃいけないことがある』
『えーーー、いつもみたいに走るだけじゃダメなのかーっ!?』
『ダメだ。それに三つだけでいい。他のウマ娘を意識した戦略を練らなくちゃいけないオグリよりも、考えることはない』
まずはターボの番だが、作戦を指示されるのは初めてで思わず声をあげた。しかしトレーナーは指し棒で、コツコツと中山レース場のスタート地点を指す。ホワイトボードには『ツインターボとオグリキャップの有マ戦略』と書かれている。そしてターボの欄に対して、オグリのほうには大量の書き込みや資料が添付されていた。難しい話が嫌いなターボは、納得いかなそうにむぅと唸りながらも、仕方なくという感じで受け入れた。
『難しい話じゃない。順に説明すると、まずは序盤のターボジェットを成功させることだ』
『いつものだな!!』
『ああ。これができれば他のウマ娘に対して有利に立ち回れるからな』
『む、だが前のレースの時のようなことにはならないのか?』
トレーナーの指示にオグリが首をかしげる。秋天でターボを潰しにきたウマ娘が出た以上、ここから先も同じことが起こりうるのは想像に難くない。
『その懸念はもっともだ。だが俺はそうならないと読んでる。有マ記念は長距離のレースだからな。ターボは派手だが長距離が得意じゃないのも読まれている。追いかければレース自体に勝てなくなるから、無理にリスクは負って攻めてこないはずだ』
『なるほど。確かに』
『ターボはどんな距離でもぜったい勝つぞ!!』
ターボは特に深く考えずにやるぞー!と叫んだ一方、オグリはレース展開を想像して納得した様子だった。短距離マイルならターボ潰しはむしろ必然だが、スタミナ必須な長距離で、わざわざ自分の身を削ってまで潰しにくるのは自殺行為。オグリ自身も進んでやりたいとは思わなかった。
『むしろ他のウマ娘を警戒するのはオグリだ。大逃げ一本のターボと違って安定した地力がある。恐らく他のウマ娘はマークしてくるだろう。ナイスネイチャのような、駆け引きに長けたウマ娘が五人はいると思っておいたほうがいい』
『むううぅ。それは、とても走りづらそうだな……』
『とれーなー!! じゃあいつもみたいに、ターボジェットができれば勝てるかな!?』
『それは一つ目だ。まだあと二つ、やらなくちゃいけないことがある』
『はいはい! ターボの必殺技っ。ダブルジェット!! あれで全員びゅーんってぶち抜くぞっ!!』
『お、二つ目は半分当たりだ。でもそれだけじゃ解答としては不十分だ』
『えーっ!? 他にやることなんてわかんないぞっ!?』
途中まで自信満々だったターボはショックを受けたように体を逸らした。
序盤に爆速でスタートダッシュをする
『いいか。有マ記念は2500メートルのレースだ、ツインターボが全力で逃げられる距離は平均約2000メートル。引き算すると何メートルだ?』
『ふぇ。えーっと……んー〜〜〜〜……あ! わかった、500!!』
『正解』
指折りで数えていたターボは、十数秒かけてウマ耳をピンと立てて手を上げ、答えた。頷いて作戦の前提を伝えていく。
『実際には調子に左右されるが、序盤のターボジェットで安定させれば2200メートル。つまり300メートル足りない。これを埋めるかが勝負だ』
『300メートルくらい根性でどーんと逃げるっ!! ターボ、限界ギリギリは得意だし!』
『全力で走り切ってヘロヘロになって、体力切れ状態。他のウマ娘は抜くか抜かれるかの末脚でレースをしている中の300メートルだぞ?』
『む、むむむ……だめかな……?』
トレーナーの指摘を受けてターボは腕を組んで唸った末、自信なさげに言った。到底無理であろうことは誰だってわかる。するといいタイミングで、横で聞いていたオグリが合いの手を差し込む。
『なるほど、そこでダブルジェットの出番か』
『そう。ダブルジェットは限界を引き伸ばしてくれる。見立てではおそらく200メートル。だが、その戦略も単にやったんじゃあ有マでは通用しないだろう』
当然、レース展開は楽観ではなく厳しく見積もる。ここは中央トレセン学園。トレーナーの手によって、弱点は研究されてしまっているはずだ。ジャパンカップ勝利は『三強』を筆頭とした有名なウマ娘は出走しておらず、ターボ研究がされていなかったことが大きく影響したが、次は厳しい。
『そんなことない!! ターボジェットは無敵! とれーなーと編み出した必殺技だから通用するもん!!』
『信じてくれるのは嬉しいが、もうターボは強いウマ娘として知られているんだ。頭脳派が対策を打ってこないと思うか? 自分の
『うぐっ。それは……』
『だから三つ目。あの方法で今のターボの弱点と、足りない残り100メートルをカバーする』
適正距離が足りない。まだ暴かれていないが、ターボジェットは大きな弱点を抱えている。ツインターボに今まで通り走らせるだけでは解決できない絶望的な壁。これを解決する方法が、たった一つだけ存在している。
『二人とも。オールカマーのレースは、覚えているか』
希望を匂わせるようなことを言ったトレーナーは、それに反して険しい顔で口にした。ワクワクしながらトレーナーの話を聞いていたターボの表情が、一転してこわばった。
笑顔が凍りついて、スローモーションのような動きで感情が抜けていく。当然だ。むしろ生涯忘れられない。一時期まともに走ることができなくなった原因を作った、前トレーナーとの因縁の勝負。それがGⅡのオールカマーだ。
『あの時はターボジェットだけを使った。中山の2200メートルをリードを守り切って勝つことができた。俺は秋の天皇賞に次いで、あのレースには驚かされたんだ』
『初めてGⅠホルダーのライスシャワーに勝ったからか?』
『いや。いつもは走り終わったら体力切れで倒れるターボが、走り終わっても立っていたからだ』
それが有マ記念において大きな意味を持つ。
ツインターボは一つのレースに全力を賭してエンジンを燃焼させ、燃料を最後の一滴まで燃やし切る。だから最後には体力切れで芝生にぶっ倒れる。あのレースは違った。ツインターボは余力を残し、普段以上のタイムでゴールまで走り切った。
倒れずに立っていた。だからこそオールカマーは異質なレースとして強く記憶に残った。
『あのレース。どうして最後に立っていられたんだ』
『……わかんない。でも、いつもより苦しくなかったぞ』
『仮に。あのトレーナーと出会わなかったとして。普通に学園生活を送っていたら、あれと同じレースができたと思うか?』
組んだ手を、絞るような音が鳴るほど固く握りしめつつ考えさせる。ターボは渋い表情で口を閉ざしたが、やがてふるふると首を横に振った。
多分、普通に学園生活を送って、中央でツインターボらしいレースを走っていただろうとトレーナーは考えている。もちろん今のスタイルとは全く違う形で。ターボジェットはオグリキャップと出会わなければ生まれなかったし、その先の必殺技ダブルジェットも、強いGⅠへの執念があったから開花したものだから。
『経験した不幸がよかったなんて思わない。あんな辛い思いをするウマ娘は、絶対に生み出しちゃいけない。だが逆境がウマ娘を強くするのも事実。一度も諦めずに突き進んできたことが、ツインターボを強く在らせたと思っている』
トレーナーは椅子に座ったまま黙り込むツインターボを見つめた。これまで進んでこの話をすることはなかった。だが今はどうしても必要だ。だから目を逸らさない。
『有マ記念に勝つために全てを使う。喜びも悔しさも燃料に。これは他の誰も経験したことがないターボにしかできないことだ』
つまり、ツインターボに求めるのは苦難の想起。それは笑顔で楽しみながら走るターボに不純物を混ぜるような指示だった。それはある意味非常に危険な賭けでもあった。
しかしトレーナーは信じていた。毒をも食らって前に進むことができると。負のエネルギーさえ飼い慣らして最善を尽くして走ってくれる。苦しみつつも諦めなかった。築いた土台が、最後に押し上げてくれるはずだ。しかしトラウマを思い起こさせかねない以上、真っ当な指示とは言えない。そう指摘する者もいるだろう。しかし、
『最後のチャンスに敗れても、走りたいと言った。あの時のターボの言葉を俺は忘れない』
これまでの歩みに王道などなかった。運命の女神に愛されなくてもいいと言い切り、がむしゃらに走ってきた。だからこそ前人未到の、泥に塗れた栄光の道が目の前に伸びている。
仮に王道を進んだターボの出力が1000%なら、今の最大出力は3000%超。トラウマさえも飼い慣らせば出力は10000%をゆうに超える。これは賭けだ。しかし共に苦しみ人生を失う痛みを知っている。だから必ずこの壁を乗り越えられると信じて、トレーナーはツインターボに全てを託した。
『さあ有マ記念もいよいよ終盤戦!! 最後のコーナーに差し掛かります。あっと!! ここでトウカイテイオー動いた!!』
実況席が沸き立つ。スタンドの観客も息を呑んだ。
ツインターボによって荒れた序盤、そして状況がほとんど動かなかった中盤戦を終えて、残すところあと僅かな有マ記念。その先頭集団が終盤のコーナーに差し掛かる直前、ついに様子見で膠着していたバ群が大きく動いた。
トウカイテイオーが一瞬でスピードを上げ、先頭集団との差を詰めていった。
『トウカイテイオーだ! 一気に前に出て、そしてタイミングを図っていたナイスネイチャ続いた!! これはかなり早いタイミングだが大丈夫か!? 大胆な戦略に誰もが度肝を抜かれているようです!!』
テイオーの動きが引き金となり、全体のペースがさらに加速する。ウマ娘たちはその流れに飲まれるように、一斉にスパートを開始した。コーナー中盤にも入らないタイミングで末脚勝負が始まってしまう。
必死に先頭を守るツインターボは、背後から迫る圧力を全身で感じていた。サメのように尖った歯を噛み締める。コーナーに入った途端から追い上げが迫ってくるのは感じていたが、さらに蹄音が近づき、無数の銅鑼を叩いたような振動がターボの背中に重くのしかかる。これまで守り続けてきたリードが、どんどんなくなっていくのを感じていた。
ターボは一度も振り返っていない。だが、背後に迫ってきたのがトウカイテイオーだと分かった。その存在感は圧倒的だった。テイオーはぐんぐんとスピードを上げ、あっという間にターボとの距離を縮めていく。ターボも必死に逃げ切ろうとしたが、末脚は残っていない。コーナーを抜ける前に、テイオーがターボのすぐ後ろに迫り。そしてついに、抜いた。
『ああ!! ツインターボの先頭はここで終わり!! 代わって先頭はトウカイテイオーだ!! 恐るべき速度、絶好のタイミングでッ!! 復活した帝王が、全ウマ娘を抜き去って先頭に躍り出たァ!!!』
ターボとすれ違う刹那。テイオーの口元が笑みを形作る。さあ来いと、挑発するかのように。そして逃亡者を抜き去って先頭に躍り出た。
ツインターボが陥落したのを皮切りに、レースを走るウマ娘達は動く。客席から爆発したような音の暴力が響いてくるのを肌でビリビリと感じた。コーナーを曲がり切る前に、後方から続々と、テイオーを追うウマ娘たちが2番手に落ちたツインターボに迫る。
『ツインターボ粘る! しかし後方集団が一気に追い上げてきた! 先行したウマ娘はまだ十分に末脚を残していたッ!!』
実況の声が緊迫感を帯びる。メジロマックイーンにライスシャワー、マチカネタンホイザ、イクノディクタス、そしてオグリキャップ。まるで押し寄せる波のようにターボの背後に存在していた。
ターボは全力を尽くして走り続けたが、逆らえない流れに飲み込まれていく。直線に差し掛かると一人、また一人とターボの横を抜き去る。リードがなければ大逃げは無力。大逃げウマ娘は一度抜かれれば沈むだけだ。
ツインターボ勝利の芽は無くなった──と、普通ならば思うところ。しかし観客から悲鳴はあがらない。ターボを抜いたウマ娘達も油断していない。むしろ秋の天皇賞で敗けた二人は、ここからが本番だと知っている。故に好戦的にターボを見た。
(さあ、ツインターボさん。あの時の走りをもう一度、私に見せてご覧なさい)
(ライス、今度こそ負けない。あなたの弱点はもう見切ってる)
(この展開。練習していた例の技を使いますか、ターボさん。それとも……)
(どっちだとしても、負けない。この勝負、絶対にアタシが勝つ!!)
二人はツインターボの隠し球を身をもって理解している。だがターボにばかり意識を向けてもいられない。末脚勝負でこの状況を作り上げたのは、メジロマックイーンとライスシャワーだけではない。筆頭は、先行集団をかわして隙間を一気に走り抜けたトウカイテイオーだ。このレース、最も恐ろしいのは場を支配したテイオーだ。
そのテイオーは先頭集団から半バ身ほど離れている。前を向いたまま、背後で僅かに速度を落としつつあるツインターボを意識した。これで条件は整った。したり顔をしながら、視線で語りかける。
(さあ使いなよ、ダブルジェット……!!)
ダブルジェットは明確な脅威だ。しかし、あえて使わせることこそが狙い。挑発するために先んじて動いた。トウカイテイオー、そして何人かのウマ娘のトレーナーは、ツインターボが『ダブルジェット』の技術を完璧に身につけられていないことを見抜いていた。だから不完全に発動させるように誘った。
確かに技の精度や完成度は高い。何もしなければ本番で確実に成功させてくるだろう。しかし致命的な欠陥が二つある。有効距離を走り終えた後に反動で動けなくなること。そしてもう一つが『他のウマ娘を抜き返すためにしか使えない』という、厳しい発動条件が存在していることだ。
ツインターボにとって、先頭でいられないレースは耐え難い。
それは元々の性格もあり、過去の未勝利戦経験が強く影響していた。我慢して走ることができない故に大逃げ。そしてそれが叶わなくなった時に潜在能力を引き出す。それがダブルジェットという必殺技の正体だ。
他のトレーナー達は、ツインターボのレース中の表情や性格から、ターボが意図的に発動させているわけでないことを割り出していた。そしてそうならば、その戦略を崩すまで。刻一刻と差が開いて後ろに退がっていく状況は、耐え難いものだろう。その状況から抜け出せるのは『ダブルジェット』を置いて他にない。
その仕掛けは狙い通り、ツインターボの心に大きな動揺をもたらしていた。
「ハァッ……ハァ……!!」
まるで世界が崩れ落ちるような感覚が、全力疾走して倒れそうになっている身体に重なる。現実を拒絶したくなる感情がターボの心を蝕む。これはどうあっても逃れられないウマ娘としての性。生まれ持った恐怖と焦燥が針になって心を刺し貫く。
他のウマ娘に囲まれるのが本当に怖い。
全力を出せないまま負けたくない。
もう追い抜かれたくない。
彼らの目論み通り、ターボの心が悲鳴をあげていた。
『ダブルジェット』は勝利の象徴だ。しかし反面、恐怖から全力で逃れるための手段だった。熟練のトレーナーや研究を重ねたウマ娘には、誰かが暴発を誘うであろうところまでお見通し。となれば、大逃げのペースにある程度は乗っていなければ、終盤で追いつけなくなる。それ故に序盤からウマ娘を前に出して先行策をとらせていた。これがレース全体がハイペースに持ち込まれた理由。
これを読みきれなかった後方集団のウマ娘は、もう間に合わない。ツインターボはゴールできずに沈む。オグリキャップも潰した。ここからはベテラン担当同士の末脚勝負になる──そう、考えていた。
「ッ、動かない……!?」
読みきったと思っていたベテランのトレーナー達は動揺した。ツインターボは追い抜かれた後も、ジリジリとスピードを落としたまま動かなかったからだ。ダブルジェットが発動しない。追い抜かれた今、発動していなければおかしいのに。
一拍遅れてウマ娘の檻から解放されたオグリキャップとマチカネタンホイザが、下がっていくターボを追い越した。二人はその姿を一瞬横目で捉えた。
(うええっ、トレーナーから言われてたあれ、ひょっとして不発ぅっ!?)
(いや。ターボは終わってなどいない。必ず来る。だが今はただ前へ……!!)
滝のような汗を流していたターボだが、その目は死んでいなかった。極限の集中状態に入っている。まるで、今にも自分を解放しようとしているかのような鋭い目つき。死んでいないと知っているのはオグリだけ。だが、そのままターボを追い抜いていく。
『ここで来た! 絶好のタイミングでオグリキャップ猛追!! その恐ろしい切れ味で、続くマチカネタンホイザとともに直線に突入しました!! 新旧三冠が今、中山の最終直線で激突だッ!!』
オグリキャップはすれ違ってからチームメイトに一瞥もくれなかった。客席で見てくれているトレーナーのために全力で駆け抜ける。見るべきはツインターボではなく先頭。最強の末脚で最後の勝負を仕掛けた。
二人に抜かれて、とうとう先行集団の全ウマ娘に追い抜かれたツインターボ。
(怖いっ……他のウマ娘に囲まれるの、怖い。追いつけなくなるのは、やだ……っ)
意識を濁り白ませながら歯を食いしばる。負けたくない、負けたくない。もうあんな目にあうのは嫌だ。ターボは険しい極限の中で強い怯えと恐怖に震えた。他のウマ娘たちに追い抜かれるたびに、胸に強い痛みと焦りを感じていた。
このレースでツインターボが打ち勝たなければならなかったのは、やはり自分自身だった。オールカマーの時の感情を思い出しながら走ったが、それでも心は乱された。周りのウマ娘たちが次々に自分を追い越していく瞬間は、悲鳴を上げて助けを求めたくなるほど息苦しい。
(怖いけど、でも……我慢するって、とれーなーと約束したっ!!)
ターボは感情を全力で抑え込んだ。耐えることができた。レースで大逃げしても自分の心からは逃げない。なぜなら、ダブルジェットを使うタイミングはここではないから。我慢だ、もう少しだけ。
『夢を叶える最後のレース。勝敗の鍵を、俺に任せてほしいんだ』
ツインターボは駆け引きなんて分からない。賢くないから。だけど、何があっても信じ続けることはできる。トレーナーは誰よりも自分のことを知ってくれている。
他のウマ娘の足音が前後左右から響いても。先頭の気配が少しずつ離れていくのを感じても。ツインターボは必死に耐えた。恐怖と暗闇の中でトレーナーの言葉を思い出し続けて。
ターボエンジンを回す燃料はとうに燃え尽くした。代わりに極限の感情をガソリンとして注いでエンジンを燃やし、ゴールまでの残り250メートルの距離を
(負けたくない!! でも、まだ……! まだっ……!)
いつしかツインターボの視界が変わっていた。目の前の道筋と、前を走るウマ娘の残像。そしてコースを囲う柵。これだけが白黒の線で構成される世界が見えるようになった。時間が引き伸ばされたかのような感覚の中、孤独な無音の世界にいた。
ツインターボは無心に足を前に運ぶ。汗が滝のように流れ、呼吸は荒く、目の前の景色が揺れて見える。その足音は重い。
(まだだ……まだッッッ……!)
盲信でも思考停止でもない。出遅れても耐えられるのは、勝てると信じているから。
雨風吹き晒す大嵐の中で精神が悲鳴を上げていようとも、これまでの歩みが大樹のようにツインターボの意志を固めて揺らがせることはない。そして死力を尽くして守り抜いた永遠にも思える数秒が過ぎたところで、嵐は唐突に終わった。視界の端に棒状の物体が見えたからだ。
ダブルジェットの練習を繰り返してきた。200メートル距離を必ず最速で駆け抜けられるように。そして目尻に
『さあ。全力で楽しんでこい、ターボ』
我慢していた身体が、トレーナーに押されたかのような感覚が走り抜けた。
何一つ意識せずとも身体は前傾姿勢に切り替わっていた。一緒に何度も練習したから失敗はない。勝負服のパーカーが大きくはためき、ジェットブーツが地面を踏みしめる。押し込んだ脚部がメリメリと鳴った。これは火事場の馬鹿力。
耐える時は、もう終わっている。
芝を土中に押し込むほどに蹄鉄が沈み込む。靴の噴射口に溜めた光が、限界点に達して虹色に輝く。限界点ギリギリで鈍く閉じかけていたオッドアイが覚醒して、大きく見開かれた。
「こ、こ、だああああああああっっッ!!!!!」
ダブルジェットの限界距離
ツインターボは中山に吹く風になった。真空に過ぎる青い彗星のように一直線。瞳に映り込んでいるウマ娘達には隙間があって、ターボの頂点までの道は開いている。
『っ……!! きた、きたぁッ!! やはりツインターボは終わっていなかった!! 最後の勝負をかけたダブルジェット発動だ!! 先頭とは開いていますが、追いつけない距離ではないぞっ!!』
前方のレジェンド達によるデッドヒートを解説していた実況解説も、『逃げ』の常識を破壊したツインターボに引きずり込まれる。全身の筋肉が燃えるように熱く、目の前に広がる景色が急速に流れ去っていく。脚が地面を踏むたびに、爆発的な力が身体を前へと押し出す。もう他のウマ娘のことは見えていない。頭の中は真っ白で、ただ前へ。最速で進むことしか頭にない。
「なっ……!!」
「くっ!!」
順にマチカネタンホイザ、オグリキャップ。ライスシャワーにイクノディクタス、メジロマックイーン。そしてナイスネイチャ。強敵達がターボの視界に入って後方へと抜けていく。しかし追い抜くことは到底不可能だった。
『最後の力を振り絞ったジェット噴射でライバルを追い抜いていきます!! 一度スタミナを使い切ったとは思えない、信じられない速度です!! 先行ウマ娘はスタミナ切れか、ツインターボに差し返されていきますッッッ!!』
誰もが当然追いかけようと力を込める。だが、ターボの賭した猛火はエンジンそのものさえも燃やし尽くす勢いだ。極限の逃げウマのみが到達できる、明鏡止水の境地に達したウマ娘に、真っ向から討てるウマ娘は皆無。観戦者の誰もが視線を奪われた。
残り100メートル地点で、勝利を掴むための最後にして最強の壁が姿を表す。ターボの視界は、とうとうトウカイテイオーの背中を捉えた。テイオー自身もその気配が迫ってくることには気づいていた。もっとも、戦略が破れたことに動揺はない。
(キミなら超えてくると思ってた! でもボクは負けない!! 必ず勝つ!! 勝って、最強のウマ娘だって証明する──!!!)
テイオーはジェット暴発を仕掛けた張本人だが、打ち破ってツインターボが来ることは想定内だった。なぜなら相手は自分と同格。もし同じことをされたとして、あの程度で帝王が揺らぐはずがない。やれることは全てやろうと思い仕掛けたのみだ。
そのうえで押し潰す。無敗の三冠ウマ娘として、ただ相手よりも速度を上回るのみだ。
(勝つよ、トレーナー。ボクを諦めさせなかった、本気のツインターボに勝ってやる……!!)
残り僅か100メートル。ターボは全ウマ娘をも超える驚異的なスピードだが、トウカイテイオーもまた絶望を乗り越えて、諦めることを辞めたウマ娘。その強い想いがさらにギアを一段上げさせた。速度が引き上がる。トウカイテイオーには勝ちたい理由がある。むろん、この場に立っているウマ娘全員がそうだろうが。執念の強さでは絶対に負けない。
トウカイテイオーと半バ身差でツインターボが競る。そして人智を超えた世界で争っている二人の背後に届きうるウマ娘も、まだ残っていた。必ずこうなると読んで、二人を追い続けていたナイスネイチャとオグリキャップだ。揃って鬼気迫るこわばった表情。背中に届く位置にまで進んで、勝利に手を伸ばしていた。
(負けない負けない負けない!!)
(必ず勝つ、っ……!?)
ナイスネイチャはがむしゃらだった。テイオーに勝つために、そしてツインターボを真っ向から迎え撃つために。最強相手に一着を得るために。ただ一つの想いが背を押して、限界を超えて脚を突き動かす。
この勝負を見越し、最後の末脚を残していたオグリキャップ。全ての力を集約させて最後の末脚を発動させようとした。しかし脚を踏み込んだところで──異変を感じ取る。思い描いていたイメージと身体ががずれた。
(なんだ。思ったように、力が出ない……!!)
二人に届くはずだった加速が失われて動揺した。この感覚は脚を使いすぎた時のもので、オグリは限界を超えられなかった。この終盤に出し抜かれないよう、余計な力を使うように他のウマ娘に立ち回られていたことに、オグリはこの時まで気付いていなかった。削られ続けた怪物の末脚が、ここにきて鈍った。
『ナイスネイチャ、先頭争いの二人に迫る!! オグリキャップは伸びない!! 残り50メートル、世代の栄光を掴むのはトウカイテイオーか! それともツインターボの前人未到!! 無敗三冠、あるいは未勝利三冠が目前だ!!!』
誰よりも速くゴールする。肺が燃え上がる。筋肉が悲鳴を上げても速度を落とさない。ゴールまで最速で駆け抜けられるという絶対的な自信がある。それが極限状態のツインターボをフルスロットルで
(勝つ!! 勝って、最高で最強のウマ娘に──ッ!!)
(ボクは、誰にも負けない!! 無敗の帝王として、走り続けるために!!)
ツインターボは、ついにトウカイテイオーの背中を越えつつあった。残りわずか40メートル──徐々に、着実にテイオーとの距離が縮まっていく。末脚よりもダブルジェットの方が僅かに速い。しかしトウカイテイオーは乱されない。激しい闘志を燃やして前方を見据えている。
残り30メートル。二人の意志が交錯する中、ツインターボはもうすぐテイオーに追いつこうとしている。だが、テイオーもまた必死に前へ進む。汗が粒子になって散る。スタンドの歓声が轟き、実況も興奮した声でその激しい競り合いを伝える。
『トウカイテイオー、ツインターボ!! どちらが勝つのか!? 両者、一歩も譲らない!! ゴール直前、ほとんど並んでいるッッ!!』
残り、20メートル、そして僅か10メートル。
差は見えない。二人の距離は一瞬の間に縮まり、ゴール地点に向かって並ぶように突き進んでいく。最後の瞬間はほぼ並んでいた。実況解説やファン、全員がその激闘に釘付けとなり、呼吸するのも忘れて見守った。そして、ついに。
『ゴールイン!! そしてほぼ差もなく次々にウマ娘が飛び込んできます!! どちらが先だ!? ほぼ同時に見えましたが、勝ったのは一体──!!?』
二人ゴールラインを超えた瞬間、先行争いしていたウマ娘も飛び込んだ。二人の次にナイスネイチャ。メジロマックイーン、マチカネタンホイザ。オグリキャップとライスシャワーが同時、僅かな差でイクノディクタスが到達。先行していた全ウマ娘は、一バ身の差もない。
三着以下は明白だが、肝心のツインターボとトウカイテイオーがほとんど同着に見えた。子供の頃からウマ娘レースを見続けている目の肥えたファンも、熟練のトレーナーや観戦していたウマ娘も。どちらが勝ったのかを確信している者はいなかった。まさか同着か。そんなことが、ありえるのか。
『着順が確定しました……いえ、まだ一着と二着が点灯していません! 五着、マチカネタンホイザ! 四着はメジロマックイーン! 三着、ナイスネイチャ!!』
実況解説が伝える声に、会場全体がざわつき始めた。掲示板には次々とゴールしたウマ娘たちの番号が表示されていく。だが最も注目される一着と二着の表示が点灯しない。
会場中が固唾を飲み、その瞬間を待ちわびた。ファンはざわめき、トレーナーも固く拳を握りしめている。僅差でも、差はあったはず。しかし確信はない。あまりの緊張で心臓が張り裂けそうだ。
「ハァッ、ハッ!! ゼェ、ゼェ……ッ」
そしてターフを駆け抜けたツインターボは、勝敗を気にするどころではない。全力で発動したダブルジェットの代償を支払う時だ。ゴールラインを越えた瞬間、爆発的だったスピードが急激に落ちる。速度が落ちきっていないうちから、糸が切れたように全身から力が抜け落ちる。
しかし、意識を離さないように耐えた。ふらつく脚を持ち上げながら数歩前へと進む。頭の中が白いモヤに覆われて、心地よい感覚に身を任せたくなるが、レースはまだ終わっていない。
トレーナーに教わった通りに、ターボは低く保っていた前傾姿勢をゆっくりと起こした。そうして少しずつスピードを落としていく。残りの力を振り絞って数歩を踏み出すと、ついに脚が持たなくなり、バッタリと仰向けに倒れる。本番で怪我をしないための軟着陸。さすがに多少の衝撃はあったものの、無傷でレースを完遂することができた。誰も文句のつけようのない形で最高の舞台から降りられた。
「ハァッ、ハァッ……!!」
倒れ込んだまま、ターボは大の字になってターフに横たわる。胸が激しく上下し、勝負服に付いたウサギのぬいぐるみが揺れた。全身から滝のように汗が流れていた。荒い息をついて、油断すると途切れそうになる呼吸を繋ぎ直す。限界を超えすぎたせいで死んでしまいそうだ。
しかし、限界を超えた感覚には慣れているから、辛さよりも達成感を感じた。薄目を開けると、視界の向こう側に霞んだ青空が見えた。倒れたツインターボは、経験したことのない感覚を味わっていた。
『ッ──着順出ました!! どうやら判定に時間がかかった模様です!』
限界を更に超えて、出せるものはなにもかも絞りつくした。この先はもう何もない。きっと今後一生、今のような走りはできない。本来至れなかった頂点に、全力でジャンプして指先を届かせたような心地。
『これが歴史に残る有マ記念!! 全力を尽くしたウマ娘たちの中で、頂点に立ったウマ娘の名前は──』
実況解説の声が緊張感を帯びながらも、興奮を隠しきれずに会場に響いた。
ファンも、ウマ娘たちも。
誰もが固唾を飲んで掲示板を見つめていた。
『ツインターボです!! 勝ったのはツインターボ、秋シニア三冠が! 今!! 成就したッッ!!!』
そして────決着する。
その言葉が空気を切り裂くように響いた瞬間。
まるで時間が止まったかのように、観客全員が一瞬息を呑んだ。そして――次の刹那、会場全体が一斉に爆発したかのような轟音が湧き上がった。スタンドのファンたちはまるで熱狂の波に飲まれるように立ち上がり、その歓声は地鳴りのようにターフ全体に広がっていく。
勝利を祝う大歓声がこだました。それは大の字に倒れたターボにも当然届いた。歓声、実況、すべてがこの勝利を、そして伝説を永遠に刻みつける。
『大逃げからの驚異的な追い上げ、そしてダブルジェットが凄かった!! 未勝利から三冠達成、歴史上二度とないと断言できる快挙です!! そして二着はトウカイテイオー! ハナ差と、僅差での決着となりました!!』
ツインターボは、呆然としたまま起き上がることができなかった。勝った嬉しさがぼんやりと体の内側から染み出してくるような気がしたけれど、空にふわふわと浮かんでいるような感覚に支配されて、どうにも反応ができそうにない。まるで夢の中にいるようだ。しかし、ぼんやりと青空を見上げていると、不意に影がかかる。
「おうい。起きなよ、ツインターボ」
ターボの視界にヌッと現れたのは、手を伸ばしているトウカイテイオーだった。自分と同じように汗が滴っている。しかし呆れたように、早く起き上がれと言わんばかりのジト目を向けてきた。何もかも使い果たしたターボは、「はえ……」と情けない声を返すことしかできなかった。やっぱりダブルジェットの反動で動けない。
「何だよー。一人で起き上がれないの?」
「ハァ……うぅ、ターボもう、燃料ゼロだから……」
「あーもう! ボクだって余裕あるわけじゃないのに……仕方ないなもう。ほら! このボクが肩貸してあげるんだから、さっさと起きる!!」
ターボは伸ばされた腕を掴むと、同じく疲労困憊な様子のテイオーに少し無理やりに引っぺがされた。今がわからないまま、されるがままに肩を貸されて起き上がる。テイオーに肩を貸してもらいながら観客席を見た。その夢のような光景を、自分の目で。
『タ・ア・ボ! タ・ア・ボ!! タ・ア・ボ!!!』
讃える声が、鳴り止まない。ファンたちが自分の名前を叫び、勝利を讃えている。声は大きく、途切れることなく、スタンド全体が腕を振っている。「ターボ! ターボ!」という歓声に包まれていた。
(みんな……ターボを見てくれてる……)
ターボの目がじんわりと潤み始めた。未勝利戦の景色がフラッシュバックしたから。かつて、同じレース場で、誰にも注目されることなく、ただ走り続けた時があった。だからこの光景に目が潤み、涙が溢れそうになる。しかしターボはぐっと唇を噛んで涙をこらえた。
──ターボの夢はね。誰にも負けない、ずっと勝つ、強くて格好いいウマ娘になること!!
トレセン学園の入学試験で語った
ライバルに支えられながら、勝利のポーズを取るために力を振り絞る。大きく腕を広げて、笑みを浮かべた。ギザギザの歯を見せた向日葵のような笑顔。再び観客の歓声が一層大きくなり、空へと響き渡る。日本中で、ターボコールが鳴り止まない。
「あ、ぁ……」
不意に。全身の疲労が一瞬消え去るように感じて、支えられたターボは小さく声をこぼして体を揺らした。ダブルジェットの反動とはまた違う。身体から、空に向かって何かが抜けていくのを感じたのだ。ターボを支える、大切な何かが消える。
いわば夢を叶えるための執念。ツインターボというウマ娘を支え続けてきたものが、体から剥がれて空に消えていく。それはレース場に吹く風に溶けていく。急に空を見上げたターボを見て、テイオーは怪訝な顔をした。
「……へへ。ありがとなっ」
ターボは感謝を伝えた。
叶えたかった夢は、叶ったのだ。だからターボは引き止めない。自分から離れていくそれにニッと歯を見せて笑って送り出す。空に消えていった気配が、最後に微笑み返してくれた──ターボにはそんな気がした。
そして。
有マ記念表彰式が終わり、ウィニングライブまでの準備時間で地下バ場まで戻ってくる。しかしここにきても、自力でターボは歩くことができずにいた。
結局、テイオーに肩を貸されたままレース場を後にすることとなった。人目がなくなってから、テイオーはファン向けの愛想のいい顔をやめて。やっとプンプンと怒った。
「もーー!!! なんでボクが最後まで付き添ってるのさ!!」
「エヘヘ。テイオーも、ありがと……」
ツインターボは一向に回復する気配がなく、ファンに姿を晒している間もテイオーに頼りきっていた。普段よりも動けないのは、今までにない長距離レースで、限界を超え過ぎてしまった故か。
普通のウマ娘なら心配されるところだが、ファン達にとって、レース後のツインターボにおける体力切ればたんきゅー状態は恒例行事だ。それもまたウマ娘として愛される要素であり、大逃げウマ娘としての特権だった。全力で勝負したトウカイテイオーが肩を貸していたのも好意的に受け止められていた。
しかし、テイオーとしてはたまったものではない。自分だって使い果たして疲れているし、なんで負けた方が勝った方を支えているんだと、ちょっぴり不満顔。手を差し伸べて起こしたのが自分だから文句も言いづらい。
「キミ、そろそろ歩けるでしょ。控え室には自分で戻りなよ?」
「うん、もう、だいじょぶ……だぞ」
「うわっ、フラフラじゃん。全然大丈夫じゃなさそうだけど?」
試しに肩を離してみると、ターボはギリギリ自立するものの、動きがおぼつかない。立っているだけなのに勝負服のウサギが情けなくふらふら揺れているありさまだ。
放っておいて戻ろうかなと。ため息をついたとき、向こう側から誰かが近づいてくる気配をとらえる。レース場とは逆側。もしターボのトレーナーだったらとっとと渡して引っ込もう。視線を向けているうちに、驚きで視線が固定された。テイオーの口が開いていく。
「カイチョー……」
「はへ……?」
そのウマ娘の姿は、まさに威厳と誇りを体現していた。栗色の髪が風になびき、長い尻尾が軽やかに揺れている。特徴的な前髪には一本の白いラインが走り、彼女の洗練された美しさにどこか鋭い印象を与えていた。ピンクがかった瞳は力強く、まるで一瞬たりとも周囲を見逃すことのない鋭い観察者のよう。
二人の前に現れたウマ娘は、シンボリルドルフ。ターボはどこかで見たことあるウマ娘だと分かったが、すぐには思い出せずに首をかしげた。その一方で、テイオーは驚きで言葉を失った。幼い頃、自分に夢を与えてくれた憧れの人。走る理由そのものだったから。
「久しぶりだな、テイオー。会長だったのはもう随分前だろう」
「あ、あっと……あはは。みんなそう呼んでたし、もう慣れちゃったから」
仕方ないなという風に微笑むルドルフに対して、テイオーはぎこちない笑みを作った。入学前から、とにかく色々な理由を作ってトレセン学園に突撃していた。だからテイオーとルドルフは旧知の仲だ。トレーニングを見てもらったり、一緒に走ってもらったり。構ってもらったことは数知れない。
しかし、今まで遠慮のなかったテイオーが、今は明らかに無理をして取り繕っていた。
「もー、見にきてくれてるなら教えてよー。ボクの走るレースを見にきてくれてたなんて知らなかったじゃん」
「ああ、すまなかったな」
「ほんとはさ、今日のレースのあとにボクのほうから行こうと思ってたんだよ? カイチョーをびっくりさせてやろうって思ってさ。秘密にしてたのに、カイチョーのほうからきてくれるなんて。びっくりさせられちゃったなー、もう!!」
「……うん」
「それでね。えっと、それから…………」
明るい言葉を作っていたテイオーは、徐々に言葉をしぼませていく。その変化は鈍いターボもすぐに気づいた。隣を見るとテイオーは俯いて悔し涙を貯めていた。えづくのを我慢している。感情が溢れそうになるのを、必死に耐えていた。
「……ボク、負けちゃった」
絞り出した。報告すると堰を切ったように、気丈に振る舞っていたテイオーの青い瞳からボロボロと涙が落ちる。一度溢れたら、もう止まらない。
「勝ちたかった。ボク、無敗じゃなくなっちゃった。カイチョーと、約束したのに」
ツインターボは理解する。ターボがトレーナーと最強で最高のウマ娘になると約束したように。シンボリルドルフは、トウカイテイオーが勝ちたかった大きな理由だった。
テイオーは敗北を喫しても帝王として笑顔を作り続けた。ルドルフの前ではその仮面が剥がれる。本当の感情を見せる。そしてそんなテイオーを、ルドルフの両手が包み込んだ。頭一つ分の身長差があるテイオーは、されるがまま。ルドルフは涙を流すテイオーに言った。
「今日、確かにキミは敗けた。だが今日のレースを私は忘れない。テイオー、君は私の誇りだ」
「ッ……」
テイオーは一瞬息を詰まらせたように体を跳ねさせて、それから自分を隠すように胸に顔を埋める。
テイオーの目指す夢の果てには、シンボリルドルフがいた。人々からレジェンドの名を冠される生ける伝説。テイオーにとっては、唯一無二の憧れた人。だから同じ場所を目指していた。
ルドルフはその夢を知っていた。トウカイテイオーを幼い頃から見続けてきた。在籍時にたびたびトレセン学園に突撃してきて甘えてきて、カイチョーのようになるという宣言をして、その言葉通りに実力をつけてきた。三冠を獲ったあとに走れなくなって、悔しんで、人知れずに泣いて、一度は諦めた時もずっと見ていた。
テイオーは成長した。自分よりも遥かに強く、誇り高く。有マの勝負は生涯で見てきたどのレースよりも熱かった。諦めずに戻ってきたテイオーは気高く、まさしく最高のウマ娘と呼ぶにふさわしいものだったと胸を張れる。だから、
「トウカイテイオー、それにツインターボ。君たちに伝えることがあってここに来た」
シンボリルドルフはテイオーから体を離して、二人と順番に視線を合わせる。ターボは困惑した眼差しで。テイオーは慌てて目元を拭った。ただならぬことが告げられようとしていることを、察したのだ。シンボリルドルフの表情が引き締まり、真剣な眼差しで二人を見つめた。
「君たちのこれまでの努力、出してきた結果がURAで認められた」
シンボリルドルフの声には期待が込められていた。テイオーは「それって……」と、その言葉の意味をすぐに理解したようだった。ターボはまだ状況が飲み込めておらず、口をポカンと開けたままルドルフを見つめている。
「君たちが望むならば、これからも走り続けることができる。そしてその先には……」
ルドルフは言葉を区切り、少しだけ視線を遠くに向けた。
「最強の称号を得た君たちには、伝説を成し遂げたウマ娘だけが許される特別なレース。その参加が認められる」
「それって、ドリームシリーズ……?」
「ああ、その通り」
ドリームシリーズ。
それは、伝説を成し遂げたウマ娘たちだけが許される究極の舞台。その言葉に、テイオーの心は大きく揺さぶられる。シンボリルドルフやマルゼンスキーのようなウマ娘のみが至る地。無敗の帝王としての道は閉じられたが、最強の道は終わっていない。さらに高みへ、伝説の領域へと足を踏み入れることが許される。
「ボクが……あの場所に立てる……?」
「そうだ。キミたちには、その資格がある」
テイオーはルドルフの言葉を受け止めきれずに震えた。隣で聞いていたツインターボは、その重大さや意味を完全には理解していなかったが、途中でトレーナーの言葉を思い出した。
シンボリルドルフ、マルゼンスキー。サイレンススズカ、スペシャルウィーク。
レース界には、誰もが憧れて、
最強のウマ娘を目指してきた。その道のりは決して平坦ではなかった。
努力が、報われる時だ。
次回、最終話です。