ツインターボの怪我は想定以上に早く回復した。
ただの一カ月でここまで回復したのは驚異的だと毎日の健診で訪れた医者が言った。足から包帯を取った時、ターボは担当医の前で得意げに胸を張った。
「ふふん。どうだ! これがターボの本気だ! じゃあさっそくネイチャと走って……」
「だめです。走るのは許可できません」
「えっ! 治ったのに走っちゃダメなのか!?」
「はい。機能回復のためのトレーニングが必要です」
ツインターボには大ショックだったが、考えてみれば当然のこと。一ヶ月我慢したとはいえ治りきったわけではない。包帯が取れれば走れると思っていたツインターボはおあずけを食らって、涙目で唸った。そんなターボに医者が優しく言い聞かせた。
「専用のメニューはトレセン学園側が用意してくださるそうです。ご友人も手伝って下さると言っていますし、いまは焦らずにリハビリに取り組んでください」
「ううぅ~~……うん、わかった」
納得したわけではないが、わがままは言わなかった。無理をして新しく怪我を負ったら目も当てられないことになるとナイスネイチャが根気強く言い聞かせたからだ。レース人生が掛かっているとあってはやむをえない。無茶するのが好きでも、忠告を無視して走ろうとするほどターボは無謀ではなかった。
入院生活を終えてトレセン学園に戻った。そしてターボは学園内で真剣にリハビリに取り組んだ。
医者の言う通り思ったように足を動かすのは難しく、「レースに出たい出たいーーっ!!」とたびたび叫んでは、ネイチャやトレセン学園の養護教諭になだめられながら回復に努めた。
そしてその甲斐あって、無事に予定通りの期間で怪我を治すことができたのだった。
「ふっかつだあーーーーっ!!!」
ジャージにゼッケン姿のスタイルで復活したターボは開口一番に両腕を上げて、意気揚々に叫んだ。ターフに戻れたのは医者の予告通り二ヶ月以上過ぎてからとなった。
「ちょっと遅れたけど、今日から最強のウマ娘になるんだ。ターボが一番とってやる!!」
この日も学園公式選抜レースの当日だ。ツインターボは早く走りたくて仕方がなかった……のだが、どうも様子が変だ。テンションが高いのはツインターボだけで、周囲のウマ娘の視線はうつろだ。どこか諦めたような空気を出しているウマ娘が多く、一人で意気込むターボを横目にヒソヒソと裏で何かを話している。
「あの子、何も知らないのかな」
「今回もダメだったら、退学になっちゃうかもしれないんだよ」
「ここで失敗したら後がないのに。お気楽なのかな」
露骨にひそひそと話している。普段は鈍感なほうだが、あからさまだったので、さすがに気づく。不思議に思ったターボは空気を読むことなく近づいて、何を話しているのか直接聞いてみることにした。
「どうしたんだ? ターボの話してるのか?」
「いや、その……あなた何も知らないの?」
「何のこと? それより、そんな調子じゃだめだぞっ。とれーなーに見つけてもらうためには、ターボを見習って元気に走るといいぞ!」
やる気いっぱいのターボの言葉を受けて、しかし全員気まずそうに視線をそらす。諦めたような雰囲気を出していた参加ウマ娘は大きくため息をつきながら言う。
「そんなことしても無駄よ。今時はもう、まともなトレーナーは残っていないんだから」
「えっ?」
「あなた知らないの。有名なトレーナーは全員スカウト締め切っちゃって。残ってるのは新人トレーナーとか、実績のない中堅トレーナーだけ」
「客席にいるの、冴えない顔した大人ばかりでしょう」
ターボはきょとんと目を丸くして言われた通り見てみる。彼女達の言う通りだった。前回は客席いっぱいにトレーナーとウマ娘がいたのに今日はガラガラ。先輩ウマ娘にいたっては一人も見つからない。トレーナーと思わしき人物もくたびれたような雰囲気が漂っていて、初日のような緊張感はまったくなくなっていた。
トレーナーの良し悪しなんてターボにはさっぱりわからない。だが場全体に嫌な空気が満ちているのは分かる。すごく嫌な感じだ。
「あんた全然見かけなかったけど、今までサボってた? だったらご愁傷様。もうチャンスなんてないようなものよ」
そう言われて初めて、漠然とした予感がターボの胸の中に生まれた。今日はこの中で走らなければいけないのかと不安になる。
サボっていたわけではなく、リハビリに取り組んでいただけだ。しかしこの場に残っているのは、ほとんどが諦めたウマ娘たちだけ。スカウトを受けたいと望んではいるものの、中央トレセン学園の厳しい環境に身を置きたくはない。学歴に箔をつけたいとか、就職に有利になるからとか、そういう理由で来ている者ばかりだ。その中にポツンと一人残されていた。
もちろんターボは現状を正しく把握できていなかったが、今の状況の悪さだけははっきりと察していた。
「もしかしてターボ、ヤバいのか……?」
「そうよ。あの中でマシな奴に選んでもらうしかないの」
「ま、アタシたちは未勝戦に勝てればいいだけだからどうでもいいけど。せいぜい頑張んなさい」
この空気の中で走らなければならないのか。憧れのトレセン学園で凄い人に見てもらえると思っていたターボにとって、これはかなりショックな出来事だった。走れば何とかなると楽観的に考えていたターボの表情から、無邪気に浮かべていた笑顔が消えた。大きな不安を抱えた状態で選抜レースに挑まなければならなくなった。
「だりゃああぁぁっ!!」
それでもツインターボは、本気で走った。他のウマ娘を差し置いて全力で前に飛び出した。得意の大逃げだ。怪我のこともあって加減せざるを得なくなったものの、開幕時に先頭を奪うことには成功した。
「いちばんをっ、とるんだぁぁぁーーーっ!!
一番を取る。そうすればきっと見てもらえるはずなのだ。そう思って必死で走り抜く。その勢いは、またしてもレースを見ていたウマ娘と観戦に来ていたトレーナーの目を惹きつけた。
だが前回と違うところがある。今日のツインターボに笑顔はなかった。背後に迫るウマ娘はいないはずなのに、追われるような焦燥感があった。レースに出走する楽しさよりも恐怖が上回る。そして案の定結果は、惨憺たるものだった。
最後のカーブを曲がりきる頃にはほとんど体力が尽きてしまったのだ。前回より体力の減りが明らかに早まった。それは脚に怪我を負ったせいなのか、焦ってしまったせいなのか。へろへろにゴールに駆け込んだとき、着順はびりっけつだった。
「ふへえっ、はっはっ。う、ゼェッ」
急速に速度を失ったターボは地面にぶっ倒れた。滝のように汗を流しながら、仰向けでギザギザの歯を強く噛み締める。両腕を投げ出して見上げた空は一面灰色だ。敗北した悔しさが心を曇らせていく。
「うぅー、まけちゃったぞ……」
負けた。
ぶっちぎることができなかった。
負けた原因についての理屈は色々とつけられるだろう。しかしターボにとって悔やむべきは、ただ全力を出しきれなかったことだけだ。疲れと共にやりきれない悔しさが身体に残る。
一着を取って喜んでいるウマ娘に新人トレーナーと思わしき若い数人の男女が話しかけにいっていた。一方で二位以下の参加ウマ娘がスカウトされる気配はない。歯牙にもかけられておらず、みんな諦め気味にコースを去っていった。負けたウマ娘はトレーナーに見てもらえないという事実が心に突き刺さる。
トレーナーはレースウマ娘にとって絶対必要な存在だから慎重に選ぶべきだと言った親友、ナイスネイチャの言葉を思い出す。
でも、見つからなかったら一体どうすればいいのだろう。
ただでさえ出遅れてしまったのに今日負けてしまった。これからもっと大変なことになるのだろうか。急に今ある現実が怖くなって目尻に涙が浮かんでくる。そんな風に芝にぶっ倒れたターボに一人だけ近付く人物がいて、上から声をかけた。
「あんな大逃げで、レースに勝てると思っているのですか」
「へっ」
落ち込んでいるターボが顔をあげると、そこにいたのはタブレットを片手に持った女性だった。初めて出会う相手だ。なぜ声をかけられたのか分からず、ターボは目を丸くしながら尋ねた。
「……おまえだれだ?」
「人と話す時は姿勢を正しなさい。失礼だと思わないの?」
厳しい口調で睨まれて、ターボは震えて飛び上がった。
大の苦手であるスパルタタイプの大人だ。それが分かった途端に慌てて正座して汗だらだらに見上げる。険しい表情でイメージ通りキッチリと黒色スーツを着こなした女性がターボを見下ろしている。今すぐに逃げ出したかったけれど、体力ボロボロであるために動けない。
女性は持っているタブレットをカツカツと爪で叩きながら、引き攣った表情で正座するターボを棘のある言い方で問い詰める。
「あなたの走りを見ていましたが、全くダメですね。勝つ気はあるのですか」
「た、ターボちゃんと勝つつもりだったもん!」
「勝てていないでしょう。周囲があなたにペースを乱されていたものの、結果は最下位でしたね」
「うぐっ……」
痛いところを突かれて返す言葉を失った。女性の言う通りターボは一着を取ることができなかったからだ。苦手なタイプの人物にとがめられ続けて、逃げ出すこともできずに口をつぐむしかない。
「憧れたのかなんなのか知りませんが、その無謀な走り方を改善すればマシになるのではないですか」
「でも、ターボ全力がいいもん」
「破滅的な走り方を止めるつもりはない、と?」
ターボは唇をかたく結びながら頷いた。見ず知らずの相手に走り方を否定されるのが嫌で、その意志をハッキリと示すのがせめてもの抵抗だった。黒スーツの女性は息をつき、興味を無くしたという風にタブレットをしまう。
「それなら好きにしなさい。指示を聞かないウマ娘は必要ない。せいぜい他のトレーナーが担当を引き受けてくれるのを待っていなさい」
「……他のトレーナー。え、とれーなー……とれーなーのヒトなのっ!?」
「そうです。では、ごきげんよう」
遅れて気付いたターボはウマ耳を逆立てて驚いた。今、自分がスカウトされようとしていたのだと気付いたのだ。しかし女性は背中を向けて去っていく。
『ご愁傷様。もうチャンスなんてないようなものよ』
ふいにターボの耳元にレース直前に囁かれたウマ娘の言葉がよぎった。チャンスはすでに大幅に失っているのだから、選抜レースに負けたらもうあとがない。勝ったウマ娘以外は暗い眼差しで夢を諦めていた。
心の中にあった不安の種が芽吹き、侵食する。
今目の前にあるのは最後のチャンスなんじゃないか?
もしこのまま目の前のトレーナーが去ってしまったら次はもっと厳しくなる。トレーナーはもう一握りで、次のレースでは勝ってもスカウトされなくなってしまうかもしれない。身体の調子だって戻り切っていない。この機会を逃せば大変なことになってしまう。
(とれーなーにスカウトしてもらえなかったら……退学だ!!)
一人でガーンとショックを受けたような表情を浮かべた。
トレーナーがつかなければレースに出られないことは、授業で何度も言い聞かされている。そして未勝利のままでいるといつか退学になる。自分の首が締まっていることを実感したツインターボは悩んだ。
このままでいいものか。目の前にいるヒトは一番苦手なタイプだ。しかしこれが最後のチャンスかもしれないのだ。結局ターボはいてもたってもいられなくなった。どうしようもない不安に駆られて、思わず声があふれる。
「あ、あの、とれーなー……」
去ろうとする女性トレーナーをおそるおそる呼び止める。彼女は立ち止まり、顔だけで振り返った。
「何ですかツインターボさん」
「とれーなーの言う通りにすれば一着になれるの……?」
「それは今後、私の指示を全て受け入れるということですか」
「う、それは。その」
強気な物言いに尻込みする。
ふと親友のネイチャが口にしていた言葉を思い出した。トレーナーはウマ娘を導いてくれる何よりも大切な存在だ、と。目の前のトレーナーははっきり言ってすごく苦手だ。でも突っ走っていたターボにも、この時期にスカウトを受けることがどれほど厳しいのか現実が見えてしまっている。
「ターボのこと勝たせてくれるなら……」
ターボは不安を耐えながら声をしぼった。それが譲れない唯一の願いだ。その願いに対して、トレーナーを名乗ったスーツの女性は当たり前のようにかえした。
「当然です。トレーナーの仕事はウマ娘を勝利に導くことですから」
「……分かった。とれーなー、いかないで」
ターボが一番譲れない条件を受け入れた。だから覚悟を決めた。正直に言ってこの人物は苦手なタイプでもやもやしたが一番大切な『勝つ』という願いを叶えてくれるのなら仕方がない。
勝たせてくれると約束した。
頑張ってみようと、ぎゅっと拳を握りしめた。
「ターボ頑張るから、ぜったい勝たせてね、とれーなー」
「いいでしょう。特別にあなたを見てあげます」
ツインターボは女性トレーナーと契約を結んだ。結局この日の選抜レースでトレーナー契約が成立した件数はほんの僅かで、スカウトを受けられないという最悪の事態を避けられたことに安堵した。
しかし、その安心は長くは続かなかった。この選択がさらに自分を追い詰めることになるが、このときはまだ全く気づいていなかった。
正式に担当トレーナーが決まってから、しばらく経ったある日の昼時。
授業を終えて食堂にやってきたナイスネイチャは、ターボと一緒に食事をとっていた。しかし様子が変だ。普段なら楽しそうに食事をしているのに、最近はもそもそと無表情で箸を動かすことが多くなった気がする。疲れたような表情を見かねて問い詰めた。
「ねえターボ。ずっとトレーナーなしで一人でトレーニングしてるって噂、聞いたんだけど」
「うん、忙しいんだって。ちょっとだけ寂しいけど仕方ないぞ」
「いや、いくら何でもそれはおかしいって」
噂が本当だったことを確認したネイチャは思わず苦言を呈した。最近のツインターボは学園施設を利用したトレーニングを行っているというが、いつも一人だと噂になっていた。
一人でトレーニングを行うのはよくあることだ。しかし常に一人で、トレーナーの指導を受けられている様子がないという。つきっきりとまでいかなくても、様子を見て練習の指導をするのがトレーナーの仕事のはずだ。これがツインターボが望んだ状況でないことくらいは分かる。
ナイスネイチャにはすでに担当トレーナーがついていた。指導にはほぼ必ず付き添ってくれていたし、回数は多くはないが合同トレーニングだって組んでくれている。他の友達や知り合いウマ娘も似たようなもので、ターボのように常にひとりぼっちでトレーニングしている者は一人もいない。だからいつまでも一人という状況が異常だと分かる。
「トレーニングの指導はどうなってるのよ。普通はちゃんと成長とか、怪我してないかとか見てもらうもんでしょうが」
「うーん……別なお仕事で忙しいって言ってたぞ」
「仕事? 担当ウマ娘を育てる以上に大切な仕事って何なのさ」
「難しいことは教えてくれないんだ」
寂しげな感情を見せて首を横に振る。青緑色のウマ耳も僅かにへにょりと垂れていた。トレーナーもおらず、ひとりぼっちでトレーニングを続けている状況は悲しい。
「でもとれーなーは勝てるって言ったんだ。ターボは信じるぞっ!」
それでもターボはギザギザ歯を見せて笑った。明るく振る舞う友人の姿に不安を感じずにはいられなかった。もしトレーナーが見つからなければ自分のトレーナーに頼んでみようかと思っていたが、契約が成立した以上深く関わるのは難しい。
それでも友達のためにせめて何かできることはないかと、ネイチャは考える。手の届く範囲でできることをしてあげたい。そう考えた末にある提案をした。
「ならターボさ。放課後どこかで時間とれる?」
「うん。どうしたんだ?」
「アタシと一緒にゲート練習しようよ。ほら、アンタスタートが苦手だったでしょ」
「本当か!? やったあ、ネイチャときょうそうだーっ!!」
「競争じゃないぞー」
ネイチャの提案にターボは大喜びした。さっきの無理をしたような笑みではなく、純粋に嬉しがっている時の顔だ。やっぱりツインターボにはこの笑顔が似合う。いつもの表情を見せてくれたことにネイチャは少しだけ安堵した。
どうか自分の不安が外れますように、と。ナイスネイチャは密かに三女神様に願った。
ツインターボは自信家であったが、トレセン学園に入学してから努力家になった。
昔はわがままを言って両親や先生を困らせるような性格だったが、今のトレーナーに変わってから、すっかりなりをひそめた。反抗することが怖かったという面が大きい。そのかわりに、ひたすら負けないためのトレーニングに打ち込むようになった。
トレーナーに言われた練習メニューは欠かさずに取り組んだし、苦手な勉強にも取り組んだ。努力している姿を見てくれるトレーナーはそばにいなかったが、友人や寮長に頼りながらなんとか食らいつこうとした。そうしなければ負けてしまうと、ターボは天性の感覚で悟っていた。
夢である『最強のウマ娘』になるためなら、なんだって頑張れた。曖昧なトレーナーの指示だって頑張ってこなした。しかし、一つだけ受け入れがたいことがあった。
それはトレーナーと出会って最初の頃の話だ。
担当トレーナーになったスーツの女性はターボの走りを見たいからとコースに呼び出し、その場で何パターンか指示を変えて走らせた。タブレットにいくらかメモをとっていたが、途中でハッキリ首を横に振った。
「やはりあなたに逃げは無理ね」
「えーっ!? どうして!!」
「先頭を走らせたら無謀な走りをするからです。それに他のウマ娘の後ろについてスタミナを温存するほうがいい。中盤まで脚を温存する差しの戦法で走りなさい」
「やだっ、ターボずっと一番で走りたい! 後ろから抜くなんて、やだやだ!!」
いやいやと大声で叫びながら首を横に振る。反抗することが怖いと思っているツインターボだが、こればかりは譲れなかった。指示を出したトレーナーは苛ついた様子で理由を問いただす。
「意味のない議論はしたくないのだけれど。なぜ嫌なのか理由を言いなさい」
「え。そ、それはっ。前を走った方が勝てるから……」
「はぁ……それで一体何度失敗したと思っているの。中等部なら分かるでしょう。駄々をこねて損をするのは貴女なのよ」
「う、ううう」
またもターボは反論の言葉を失った。そればかりはトレーナーの言う通りで、自分のやってきた『大逃げ』はうまく成果を出せていなかった。そのうえ契約する時に指示を聞くと言ってしまったせいで逆らえない。
それでも作戦を変えることに頷かなかったのは、それほどにその指示が受け入れがたいものだったからだ。いくらスタミナが持たないからといって、後半に放出する『差し』の戦略に切り替えるなんて無理だ。『逃げ』こそターボの大好きな走り方だ。そのことを、弱々しく訴える。
「でも、周りにウマ娘いたら怖いし……ぶつかったら嫌だし……」
「勝てない戦法は捨てなさい。成功しているウマ娘のやり方に合わせるのが最善です」
「でもでも! ターボうまく走れる自信ないよっ!?」
「一着が欲しいのなら言うことを聞きなさい。それとも今からでも契約を解除しますか」
「……わかった。やってみるぞ」
ターボの心のモヤモヤは徐々に膨らんでいったが、それでも素直に言うことを聞いた。一着を取らせてくれると約束した故。トレーナーのほうが大人だから正しいと思ったからだ。
そして、一度も勝てなかった。
満を辞して挑んだメイクデビュー戦は9着。
未勝利戦は最高でも5着という惨敗を繰り返す。
出走可能なトゥインクルシリーズ、登竜門のレースをターボはことごとく突破できなかった。一着を取るどころかなすすべもなく負け続ける。負けるたびにターボの顔から笑顔が消えていった。
「とれーなーっ、ターボ全然勝てないよ……」
あるレース後、ツインターボは耐えきれずにトレーナーに駆け寄って尋ねた。その日は大敗してしまった。しかしこんなレースじゃ納得できない。色違いの双眼に涙を滲ませながら彼女のスーツにすがった。
「もう負けたくないよ。ターボ勝ちたいよっ。このまま頑張るだけでホントにいいの!?」
「そんなことは自分で考えなさい」
担当ウマ娘に答えを求められたトレーナーは、服にすがったターボを振り払った。苛立ちを隠さずにターボを冷たく見下ろすばかり。
「自分で考える力がない。だからあなたは勝てないんです」
そう言ってこれ以上話す気はないと言わんばかりに去っていく。ターボは自分のトレーナーが怖くて追いすがることができなかった。自分が嫌われているのをハッキリと感じて胸が締め付けられる。
「ちゃんとできないのが悪いんだ。ターボが、もっとがんばらないとだめなんだ……」
辛かったが、なんとか我慢して心を奮い立たせた。
負けるのが悪いんだ。言われたトレーニングだって毎日ちゃんとやっているのだから、勝てばちゃんと見てくれるようになる。契約した時の約束を信じて、空元気を出してなんとか自分を奮起させる。ターボは負けるたびに余裕を失い、それまで以上に必死にトレーニングに励んだ。
そんな風に過ごしているうちに、中等部の二年生になった。
年が過ぎても努力の甲斐なく勝てないままだった。負けたのは何度目になるか。必死に勝とうと挑んだレースで何度でも敗北を喫した。負け過ぎたせいで心の痛みは少なくなっていった。それでもゼッケンをつけたターボの表情は暗い。
走り疲れた状態で地下バ場に戻ってくると、珍しくトレーナーが通路でツインターボを待っていた。その日は普段と雰囲気が違った。苛立っている様子はなかったのだ。それは良いことであるはずなのに嫌な予感がする。ターボが恐る恐る尋ねようとすると、それよりも先にトレーナーはターボを冷たく見下ろして宣告した。
「これ以上は無駄ですね。今日で終わりにしましょう」
「えっ……?」
ターボは何を言われたのか分からなかった。あまりにそっけなさすぎて、何を言われたのか理解できなかったのだ。
「それ、どういうこと?」
「これ以上あなたを育成するのは時間の無駄だと言いました。契約はこれで終わりです」
「え、えっ。待ってトレーナーっ!?」
自分は見放されかけている。そのことに気づいて頭が真っ白になる。立ち去ろうとするトレーナーのスーツを必死に掴んでゆさぶった。
「どうして!? どうしてどうしてっ! そんなこと言わないでよっ!」
「次のウマ娘の育成に移りますので。あなたのような勝てないウマ娘に割いている時間がなくなったのです」
「やだ、やだやだやだよっ。捨てないでっ、ターボもっと頑張るから……!!」
どうして、どうして。
ターボは泣きながら半狂乱に叫んだ。難しいことは何も考えられない。困惑と焦燥だけがターボの心を覆い尽くす。何かの間違いだと信じたかったのに──
乾いた音が響く。
ターボの腕をトレーナーが冷たく払った。唖然と手を抑えて立ち尽くすツインターボを見下ろす、トレーナーの視線は冷たい。赤の他人を見るような視線に変わっていた。もはや自分の担当ウマ娘を見るような目ではない。
「あなたには素質がない。私の見込み違いでした」
「とれーなー……」
「退学になるまでの残り少ない学園生活をせいぜい楽しみなさい」
トレーナーは人のいなくなったレース場から去っていく。地下バ場に取り残されたツインターボは座り込んだ。信じていたトレーナーに裏切られて捨てられたのだと、ようやく実感した。
無になった表情からボロボロと涙が落ちて、歯を食いしばる。
「とれーなーの、うそつき」
一着を取らせてくれると言ったのに、嘘だった。
ひとりぼっちのレース場で蹲ったまま、ツインターボは動けなかった。
* * *
その日の晩に所属している美浦寮をこっそり抜け出した。同室のウマ娘がいないターボが部屋を抜け出すのは難しいことではなかった。夜中の出歩きは校則違反であり、寮長のヒシアマゾンに気付かれればきっと大目玉だろう。
しかし感情が抜け落ちたような今のターボにはそれを考える余裕はない。あてもなくトレセン学園の敷地を彷徨った。夜道をトボトボと歩きながら死んだ目でつぶやく。
「ターボ、もう走れないのかな」
トレーナーがいなければ走れないというのが大原則だ。現実を感じるたびに辛い気持ちが心臓を締め付けてどうしようもなく苦しくなっていく。心の痛みから逃れるために、レースで疲れた体に鞭打って夜の芝生を彷徨う。
未勝利戦に勝てなければ退学になるのは分かっていた。しかしそれよりも、信じていた人に裏切られた事実がターボを追い詰めていた。約束を守ってくれなかったトレーナーを思い出すと、胸が嫌なものでいっぱいになった。
ふと気づくとターボは学園の広場に立っていた。
そこは『大樹のウロ』と呼ばれている場所だ。レースに負けたりトレーナーと喧嘩したりしたウマ娘が、中央の切り株にぽっかり空いた大穴に誰にも話せない想いを叫びにくる特別なスポットだ。ツインターボはぐっと唇を噛むと衝動的に切り株に近づいた。
穴の両端を掴んで顔を突っ込んで闇の中を覗き込む。その中には当然誰もいない。この中にどんな想いでも吐き出してもいい。そう思ったとたん、活火山から超高温のマグマが天高く噴き出す時のように、この一年間溜め込んでいた辛い感情が破裂した。
「トレーナーのバカ! アホ! あんぽんたん!」
押し殺していた気持ちを、思いっきり。とことん叫び倒した。
今まで我慢して言えなかった気持ちを吐き出すたびに、枯れ果てたと思った涙がまたぼろぼろと落ちはじめる。裏切られたツインターボの中には抱えきれない感情が溢れている。思いつく限りの罵倒が、空洞に反響しては消えていく。
「ターボが一着取るまで諦めないでよっ……! 勝たせてくれるって言ったじゃん……!!」
可愛らしい言葉ばかりなのは、それ以上の言葉を知らないだけ。そこには精一杯の怒りと絶望が宿っていた。ターボの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
やがてひととおり叫んで、喉が枯れた。
ターボは芝生に膝をついて倒れ込んだ。仰向けに空を見上げると綺麗な星空が見える。気持ちを解き放っても虚しさだけが残った。疲れ果てて濁ったオッドアイに涙が溜まる。
「ターボ、退学になっちゃうのかな……」
感情の波が過ぎ去ったあとは、漠然とした諦めの感情をツインターボにもたらした。もう明るい未来が何一つ浮かばない。自分は強いと言い張ってきたけれど、自信は粉々に砕け散った。笑顔を浮かべることはできなくなった。
「このまま終わるなんて、やだ」
それでも。
歯を食いしばって、諦めてしまいそうになる気持ちだけは堪えた。
トレーナーに裏切られて、胸が引き裂かれそうなほど苦しい。でも夢だけは諦めたくない。誰にも褒められなくたっていいから勝ちたい。勝ちたいのだ。一番強いウマ娘になりたい。
最初に抱いたたった一つの想いが、今にも折れそうなツインターボの心をギリギリで支えていた。
「学園のウマ娘?」
闇の中から、一つの声が差す。動かなかった体が嘘のように跳ねた。
「っ!?」
誰もいなかったはずの場所に、自分以外の人の気配が増えていることに気付いた。芝生に寝転がっていたツインターボは飛び起きて声の方を見ると、紙束を抱えた若い男が立っていた。
仕事を終えた学園の人間だろう。つまり、校則違反中のターボにとってはヤバい状況だ。
「君、どうしてこんなところにいるんだ……?」
「あ、あわわっ……」
声をかけられたターボは、それはもう分かりやすく怯えた。夜に出歩いているのが見つかったら、ヒシアマゾンや先生にこっぴどく怒られる。普段でもお説教はイヤだけど、こんな気持ちのときに誰かに怒られるのは死ぬほどいやだった。だからコンマ一秒の速さで脱兎の如く駆け出した。
「ごめんなさいーーーーっ!!」
「あっ、君。ちょっと待って!」
呼び止める声は責めるようなものではなかったのだが、ターボに反応する余裕はない。頭の中は真っ白だ。全力で逃げるウマ娘にヒトが追いつけるはずもなくあっという間に明かりのついた寮の前まで戻ってきた。
夜道を振り返るが誰も追いかけてこない。どうやら逃げ切ったらしい。ターボは汗の滲んだ額をぬぐって一息ついた。
「よかった、逃げ切れた……バレなくてよかった」
「ほう。何がバレなかったって?」
玄関のほうから冷たい声がかかる。尻尾と耳がピンと逆立つ。おそるおそる振り向くと、褐色肌のウマ娘がかたく腕を組んで待っていた。般若を宿らせた寮長のヒシアマゾンだ。
校則違反を犯したターボを待ち受けていた。ということはつまり……夜中に抜け出したことは、とっくにバレていた。
「ずいぶん遅いお帰りじゃないか。わざわざ校則を犯してまで外に出るたぁいったいどういう了見だい?」
「ふ、ふぇ、ご、ごめんなさいぃぃ」
慌てて謝ったターボの頭に、心配をかけた罰だと言って軽いげんこつが一発落ちる。
しかしヒシアマゾンは涙目で頭を抑えるターボを見下ろして息をつく。お説教がはじまるかと思いきやそこまで。理由を追求することはしないまま、ため息をついて許した。
「……はぁ。もう二度とするんじゃないよ」
「え……いいの?」
「今日だけはこの一発で許してやる。特別だよ。ほら、他の寮生に見られないうちに部屋に戻んな」
「う、うん。ごめんねヒシアマ」
それだけ言って重い足取りでトボトボと部屋に戻っていく。階段を登るツインターボを見送ったヒシアマゾンは険しい表情を解く。そしてツインターボを憐れんだ。
「助けてやれなくて、すまない」
しんとした夜の廊下で、誰にも聞かれないように謝る。
ヒシアマゾンは寮長を任されているウマ娘だ。寮生が困っているなら助ける義務があり、そして校則違反を犯せば正しく罰しなければならない。しかし今はどちらの役目も果たすことができなかった。ツインターボの置かれている現状を知っていたからだ。
世話のかかるターボの面倒をよく見ていたため、他の寮生よりも事情には詳しかった。元々トレーナーとうまくいっていないことは聞いていたが、この様子だと今日の未勝利戦でトレーナーとの関係に決定的な亀裂が走ったのだろう。元々良好な関係でないということは聞いていたので、夜間の無断外出も厳しく叱ることはしなかった。
(手は差し伸べられない。これも勝負の世界の厳しさだ)
全てはウマ娘自身の選択の結果でしかない。
理解はするし、同情もする。部外者ながらターボの現状は他のどのウマ娘よりも酷いものだと薄々感じている。しかしこれはあくまでツインターボの問題。寮長が一人を特別扱いすることは許されない。なぜならツインターボと同じ状況の崖っぷちな子は他にいくらでもいるのだから。
「……さあて、締め作業をしちまうかね」
憂鬱な気持ちを払うように、大きく腕伸びした後、一日の終わりにしなければならない作業を再開した。せめて何の罰則もなく部屋に返したのが、直接助けてやれないヒシアマゾンなりの甘さだった。
さらに数日後の朝。
担当トレーナーに見捨てられたツインターボは、学園の練習用コースの芝に座って一人で途方に暮れていた。体育座りで膝を抱えながらじっと誰もいないレース場を見つめている。
このままだとレースに出られない。まだレースに出られるのに最後のチャンスがなくなってしまう。何かいい考えがないかと悩んでいたが、一人で考えても漫然と時間が過ぎていくだけだった。
「はぁっ。どこに行けば、とれーなーに見てもらえるんだろ」
毎日ずっとそのことを考え続けていたが、良いアイデアは浮かばない。今までのトレーナーのことはもう考えなかった。絶対に助けてくれないと分かっていたし、ターボ自身も会いたくなかった。
そうなると新しいトレーナーを探さなければならないわけだが、そううまくいかない。ウマ娘とトレーナーの出会いの場は、ほとんどが学園主催の選抜レースだ。すでに二年生になったツインターボは参加できない。親友なら助けてくれるかもと思ったが、遠征中で会うことができていなかった。
追い詰められたツインターボがすがったのは、ある噂だった。
ウマ娘の練習風景を見て、凄い走りを見せればトレーナー側から声をかけることがある。そう誰かが話していたのを覚えていた。だから諦めずに毎日外で自主練に取り組んでいたのだけれど成果はあがらない。
それでも、諦めたくない。
諦めないで信じれば何とかなるはずだと、ツインターボは強く念じてその場にとどまった。これしか残されていないのだ。チャンスを掴むために、藁にもすがるような思いで未勝利戦に出走する方法を考え続けた。
最初に抱いた『最強』の夢は風前の灯だ。
しかし諦めたくない気持ちが、ひとりぼっちのツインターボをかろうじて繋ぎ止めていた。
「君は、この前のウマ娘」
「えっ……?」
追い込まれたツインターボは、出会う。
振り返ると、数日前の校則違反を目撃された大人がそこに立っていた。彼の胸元には中央トレセン学園トレーナーの証である金色の蹄鉄のバッジが輝いていた。
諦めなかった一人のウマ娘が、心折れたトレーナーと出会った。
そして一ヶ月後、最後の未勝利戦が幕を開ける。