未勝利戦が終わった後の中山レース場では、淡々と次のレースの準備が進められていた。
冷たい風が吹いている地下バ場でターボの帰りを待っていると、レースに参加したウマ娘が一人ずつ戻ってくる。全員が意気消沈していて、中には嗚咽をもらしてボロボロと泣いている子もいた。退学が懸かっていた今回ばかりはウィニングライブもない。それだけが今の彼女たちにとって唯一の救いだった。
「とれーなー」
目の前を通り過ぎていく彼女たちを険しい表情で見送っていると、彼女達とともにツインターボが戻ってきた。悔し涙を流しながら、それ以上涙が落ちないようにこらえている。ターボは途中で立ち止まって、俺のほうに近づいてこなかった。
「とれーなー、ターボ、勝てなかった」
ターボは絞り出すような声であえて口にした。ギュウと胸が締め付けられる。俺はあまりに申し訳なくて、約束を守れなかったことに頭を下げた。
「すまない。勝たせると言ったのに、負けさせてしまった」
「ちがうよ……とれーなーのせいじゃないっ! ターボが駄目だったせいだもん! もうちょっとで勝てたのに、ちゃんと走れなかったせいだ……」
ターボは断じて俺に謝らせるものかと首を横にブンブンと振って否定した。しかし一ヶ月も与えられたのに勝たせられなかったのは、トレーナーである俺の責任だ。
「とれーなーは、ターボを走らせてくれたもん。たくさん考えて、いっぱいトレーニングもしてくれた。頑張らせてくれたのにっ」
「…………」
「負けちゃった。ターボ、負けちゃったよぉ……っ」
我慢していただろうに。鮮やかな色の瞳から、ボロボロと雨のように涙が溢れ出る。
ツインターボは勝利の女神の後ろ髪に指先まで触れて、逃してしまった。最後のチャンスを掴めなかった。そのほんの僅かな差を埋められなかったのは俺だ。トレーナーとして未熟でなければ、あと少しの差で勝てたのに。そう思うとやりきれなかった。
俺はその場で嗚咽をこぼしながらひぐっと泣くターボに近づいて、胸に抱き止める。スーツの後ろを握って胸に顔を押し付けてくる。
「もっといっぱい、とれーなーと一緒に、走りたかったよぉ……っ」
かすれた涙声で俺に言った。ツインターボは何度もえづきながら、結果を受け入れていた。俺を恨むようなことは言わなかった。涙を落とすツインターボの言葉を聞いて天井を見上げる。
……まだ、俺と走りたいと言ってくれるのか。
天井には何の変哲もない灰色のコンクリートと蛍光灯があるのみだ。ターボが泣いているのを感じながら、大きく息を吸って……固く決意した。俺のすべきことは一つしかない。
「分かった」
「えっ……?」
まだ涙も止まっていないターボは、あっけにとられたように鼻をすすりながら俺を見上げてくる。ターボの両肩に手を置いて体を離すように促した。
「今日はネイチャが来ている。上で待っているはずだから、一緒に寮に戻って休んでいてくれ」
「どこにいくの……? やだよ、とれーなーいかないで」
ターボは不安そうに手を伸ばしてスーツの右袖を掴んだ。このまま見捨てられるのではないかと、そんな不安がのぞいていた。ターボは一人ぼっちになるのを恐れていた。
俺だってできるなら一緒にいてやりたい。しかし今は一刻も早く動くべきときだ。ターボの前でかがんで視線を合わせて言い聞かせる。
「大丈夫、俺はターボのトレーナーだから最後まで一緒にいる。ただ今は、どうしても行かなくちゃいけないところができただけだ」
「…………」
「俺を信じてくれるか」
ターボの顔には『行ってほしくない』とはっきり書いてある。しかし引き止めてはこなかった。小さな手が離れて握っていたスーツの袖が解放される。俺を信じて聞き分けてくれた。俺は震えているターボの手をしっかりと握りしめて伝えた。
「必ず戻ってくる」
「……うん」
ターボはギザギザの口を開きかけたが、途中でグッと我慢して一言にとどめた。こうなった以上お別れになると悟っていながらワガママ一つ言わない。申し訳なく思いながら頭を優しく撫でた。
ツインターボを一人残して、俺は地下バ場から立ち去った。誰にも見つからない場所でスーツの内側を探って封筒を取り出して見下ろす。
太陽を覆い隠した曇天の空を見上げて、決意を胸にした。
未勝利戦から二日後、俺はツインターボをトレーナー室に呼び出した。約束の時刻よりも早くやってきた制服姿のターボは元気がなく耳をしおれさせていた。いつものようにトレーニングをせがむことは、もうなかった。
応接用のソファに座るように促すと、膝の上で拳をにぎりこんで我慢するようにうつむいた。今日この場に呼ばれた理由に察しがついているのだろう。俺はコップに特製のにんじんジュースを注いでから、ターボの前に置いた。
「よく来てくれた。丸一日放ってしまって悪かったな」
「……うん」
ジュースは大好物のはずなのに手をつけなかった。いつもの調子に戻ることはなさそうだ。まあ、こんなもので気を晴らしてやれるはずがない。対面に座った俺はあらかじめ机に束ねていたクリアファイルを手に取った。
「未勝利戦が終わったから、これからの話をしなくちゃならない」
「うん。ターボ、もうトレセンにいられないんだよね」
「そうだ。中央トレセン学園の校則に従ってレースには出走できない。学園を退学になる」
トレーナーとして必要事項を伝えるとターボはいっそう堪えたように歯噛みした。心を鬼にしなければいけなかった。ツインターボの名前が記された退学通知書を表に入れたクリアファイルをターボの前に差し出す。
「親元に戻って普通の学校に通うか、それとも地方トレセンに編入するか。今日から12月までの間に進路を決めなくちゃならない」
ちらりと顔を見ると、涙ぐんではいるものの取り乱してはいなかった。
中央トレセン学園を退学した後のウマ娘の進路は二つ。普通の学生として生きる道か、ローカルシリーズでレースウマ娘の夢を追う道。渡した書類の束には紹介資料が含まれている。しかしターボはそれに目を通すことはなく、恐らく前もって決めてきたであろう答えを口にした。
「ターボ、走るのはぜったいやめない」
「ローカルシリーズで夢を追い続けるのか」
俺の問いに頷く。ターボは敗北を受け入れたうえで、全てを決めてこの部屋に来たのだと分かってしまった。それでもあえて言葉にして真意を確かめる。
「憧れだったトゥインクルシリーズが走れなくてもいいのか」
「やだ。でも、もう出られないってわかってるもん……」
まだ中等部のツインターボが抱えるには重すぎる覚悟だ。わがままを言っても、どんなに努力しても退学は取り消せない。失ったことに駄々をこねるわけでも泣きじゃくるわけでもない。顔をあげたツインターボを見て驚いた。涙ぐみながらも、爛々とした目の輝きが消えていなかったからだ。
「いちばんの夢は叶わないけどっ。でもっ、まだいっぱい走りたい。とれーなーに教えてもらったことを無駄にしたくないんだ……!」
「……俺は何もしてやれなかったぞ」
「そんなことない! ターボちゃんと走れたもん! 負けちゃったけど、ちゃんと勝ちたかったけど……でもっ。走るのは楽しいからやめたくない!!」
ターボは尖った歯を音が鳴るほどに噛み締めて、涙を流しながらも前に進もうとしていた。
ああ、
「そこまでの覚悟があるのか」
「うん」
「それなら、夢を叶える方法について話そう」
「えっ……?」
俺が言ったことの意味が理解できなかったのだろう。諦めないと吠えたターボの渦巻き型のオッドアイが疑問に染まる。
夢というのは、毒だ。
ヒトもウマ娘も希望にすがってしまう生き物だ。蜘蛛の糸をたぐるような僅かな可能性であっても、すがってしまう。だから普通は考えもしないし、思い付いたとしても口にすることは決してない。諦めた方が楽になるし、諦めた方がその先で新しい道が拓ける。
中途半端に諦めずにこの世界に居残ったとしても辛い現実しか残らない。薄く、緩やかに首を締められるように死んでいく苦痛はきっと耐えがたいものになるだろう。
しかしツインターボは、諦めないと言った。
幼いながら人生を賭けた挑戦を行って、粉々に砕かれて挫折したのだ。心を守るために二度と同じ世界を覗きたがらなくなるのが普通だ。だが退学という現実を目の当たりにした最も辛いこの瞬間においても吠えてみせた。その黄金のような意志が、まだ潰えていないのなら……
「夢を叶える方法は、まだ完全に断たれたわけじゃない」
「えっ、でもっ。ターボ負けちゃったぞ」
「ああ。今から話すのは、まともなら考えもしないような作戦だ。それでも聞きたいか」
まだトゥインクルシリーズを走れる可能性があるなどと考えもしていなかったターボは、糸を垂らされた途端に一も二もなく「教えてッ!!」と食いついた。俺はその才能に人生を捧げる覚悟を決めた。
「何でもするよっ。ターボ、どんなことでも頑張るからっ……!!」
「分かっている。だが勝算があまりにも低いし、他のトレーナーなら無理と即答するレベルの話だ。やるかどうかは俺の話を聞いて判断してくれ」
契約したウマ娘に伝えるからにはそれなりの覚悟を伴うが、俺はすでに毒を飲む覚悟を決めてきている。奇跡を成すための道筋を順序立てて話して聞かせた。
「ターボはこれから地方トレセンに移籍することになる。ローカルシリーズは見たことがあるな」
「えっとね、地元の学校のイベントで見に行ったことがあるぞっ」
「強いウマ娘はいたか?」
「うん! みんなすごくて、かっこよかった!」
「そうだ。中央ほどではないにしろ、各地の才能あるウマ娘が集うからレベルはかなり高い。ローカルに行ったからといって勝てるわけじゃないんだ」
この学園に限らず地方にも『トレセン学園』は存在していて、そこではローカルシリーズに出走するウマ娘が育成されている。レースウマ娘専門の養成機関である故に、各地で上位の才能を持ったウマ娘がつどう。
中央でだめだったから地方に行けば勝てる、などとと考えるウマ娘も見かけることがあるが、それは甘い考えだ。ローカルシリーズもそれなりにレベルが高いため、ほとんどが芽も出ず潰れていくのが現実である。だから未勝利戦に勝てなかったウマ娘をローカルに行かせることは推奨されていない。トレーナー側も、
「ターボはこれからローカルシリーズで走ることになる。当然勝つつもりで走るな?」
「うん。ターボ、もう絶対に負けたくないもん!!」
「仮にそこで一度も負けなかったら……その後はどうなると思う」
「……とれーなーが喜んでくれる?」
「そりゃ俺は嬉しいけどな」
ターボはこてんと可愛らしく首を傾けながら言った。軽く笑ったがここからが本題だ。俺は真剣な表情で核心を突く。
「いいか。地方で勝ち続けたウマ娘は、必ず
いまいち分からずに聞いていたターボの表情が変わった。俺が何を言いたいのか理解したのだろう。
俺はトレーナー室の壁に視線をうつし、ターボもそれを見た。トゥインクル・シリーズのクラス分けを示すピラミッド階層図のポスターが貼られている。最上位がGⅠ、最下層が未勝利戦。その下は存在しない。弱い者は負けて弾き出されて戻ってくることはない……普通ならば。
その図には描かれていない道がある。それは地方レースから中央への移籍。元々中央トレセン学園に所属していないウマ娘が、後から才能を発揮した場合のために用意された道だ。
もっとも高グレードのレースに勝てる才能をもったウマ娘のための道筋で、ピラミッドから零れ落ちたウマ娘がたぐれる可能性ではない。しかしツインターボには成せる可能性がある。全力を取り戻しさえすれば、もう一度這い上がることができるかもしれない。
「これから進むローカルシリーズで勝ち続ければ、中央に戻ることができるかもしれない」
「あ……」
俺はツインターボに夢を見せた。
部屋に入ってきた時の重苦しい面持ちが消えていくのを感じたが、それほど簡単な道筋ではない。一度負けたウマ娘が這い上がった例など過去にない。這い上がるためにはスカウトに見つけてもらわなければいけないし、ライバルも編入を勝ち取るような猛者たちだ。
口で語るのは簡単だが、これは茨の道だ。中途半端に夢を持たせたとしても絶対に続かない。運に恵まれなくても嘆かず、真綿で首を絞められるろうな状況でも諦めずに努力を続けなくてはならない。だからほかのウマ娘であれば口にすることはなかった。
「諦めないと言ったな。君には、夢を追い続ける資格があると思う」
俺が断じると、ターボは涙ぐんでいた瞼をゴシゴシと拭った。
「わかった、ぜったい勝つ。ターボ諦めないから!!」
「そうか」
「だからとれーなーっ、ターボが戻るまでここで待っててくれる……!?」
「いや、待つつもりはない」
「え……っ」
思いもよらず拒否されたターボは固まって、やっぱり見捨てられてしまうのかと涙を滲ませる。そんなわけがない。勘違いを解くべく穏やかに笑いかけた。
「こんな話で焚き付けておいてハイさよならってことがあるか。当然トレーナーは続けさせてもらう」
「え、でもえっ。とれーなーはこの学校のとれーなーじゃないの……?」
「俺の胸ポケットをよーく見てみろ」
俺はターボに見つけてもらえるように胸元を指差した。Tシャツの胸元に中央トレセン学園の所属を示す金色の蹄鉄バッジが輝いているが、その横に同じ意匠の銀色のバッジをつけている。
トレーナーであることを示すものであることはターボも知っているが、銀色がどういう意味なのかは知らなかったらしい。意味が伝わっておらず首をかしげた。
頭の上にいくつも疑問符を浮かべるターボに教えるべく、胸元を指差した。普段着ているTシャツに、中央トレセンのライセンスを示す金色のバッジだけではなく、隣に銀色の蹄鉄バッジが輝いていた。しかしターボには何の意味があるのか分からなかったみたいだ。
「とれーなーのバッジが二つある???」
「学生時代に取った地方トレーナーのライセンスだ。だからターボのトレーナーは継続できる」
「うえっ!?」
ターボは心底びっくりして変な声を出した。そして何を勘違いしたのか、あわあわと焦ったように両手を振った。
「ででで、でもっ。一緒に来るって。それじゃあとれーなーもターボのせいで退学になっちゃうってことか!?」
「いや俺は入学してないんだから退学も何もないだろう」
「そうなの……?」
「そうなの」
変な誤解をしているターボに苦笑いでかえした。
俺が地方ライセンスを持っている理由を端的に言えば滑り止めだ。中央トレーナーライセンスは日本屈指の高倍率の試験。夢破れることも想定して地方トレーナーライセンスも取得していたのだ。同じように勉強すればよいだけだったので大きな手間もなく一発で合格していた。
バッジは記念として大切に取っておいていたけれど、こんな形で使うことになるとは思ってもみなかった。だがおかげで地方トレセンでも問題なくトレーナーとして活動することができる。
「まあ確かに地方に行ったら今と生活は変わる。でも約束したからな」
「約束……?」
「誰にも負けない最強で、みんなを笑顔にする最高のウマ娘。俺と一緒になってくれるんだろう」
ソファから立ち上がって手を差し伸べるとターボは息を詰まらせた。俺を信頼してくれたターボの物語を、どうしてここで終わらせることができるというのか。夢だった中央トレーナーの立場を捨ててもいい。この子を勝たせるためならば、迷う気持ちも惜しむ気持ちもない。
全てを賭けてもいいと思うウマ娘と、出会うことができていたのだ。これ以上の喜びはない。
そして今度こそ我慢しきれなくなったのだろう。ターボは色違いの両目にいっぱいの涙を触れさせて、手を握らずに急にテーブルを超えて飛び跳ねて突っ込んできた。
「とれーなぁぁぁっ!!!」
「おわっ!?」
飛び込んできたターボを慌てて受け止めようとしたが、勢いが強すぎてそのままソファに押し倒される。トレーナー室の天井を見上げる形で、視界の大半がターボの顔で占められていた。
ずっと我慢して堪えていただろうに、わんわんと遠慮もなく泣いていた。俺の顔に涙がぼろぼろと落ちてくる。俺はそれを受け入れて優しく頭を撫でた。
「とれーなーっ、もう、ぜったい負けないからっ。ターボが勝つもんっ。誰にも負けない最高のウマ娘になる……!」
「ああ、一緒に勝とう。最強のウマ娘はツインターボだって思い知らせるんだ」
この選択が合っているのか俺には分からない。しかしこれしか夢を叶える方法が残っていないのなら、無謀でもなんでも突っ走るしかない。 諦めなければ絶対に奇跡は起こる。笑われようと馬鹿にされようとも、これが俺のやり方だ。
二人で奇跡を起こそうと、約束した。