私にはただ一人の後輩がいた。
彼女はずっと永遠を探していた。

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須臾

 

 容赦無く照りつける真夏の太陽が、頼りない帽子のツバを突き抜けて私の目を焼く。とめどなく溢れ出る汗は、とっくにびしょびしょになったTシャツに染み込み、吸汗速乾を謳ったそのシャツはとっくにその機能を失ってただ私を不快な気持ちにさせる。疲れた体に鞭を打ち、無理矢理足を前に動かして進む。頂上まであとどれくらいだろうか、先ほどすれ違った壮年の男性は「あとちょっと」と言っていたが、玄人登山家の「あとちょっと」ほど信用にならないものはない。息を切らしながら、余裕そうに私の前を歩く先生に追随する。山に登っているときはいつもこんな感じだ。「ああ、なんで自分はこんなに辛い思いをしているんだろう」とか、「こんな部活入らなければよかった」なんていう無意味な思考が頭の中を掻き乱す。そのくせ、頂上に着けば「登ってよかった」と手のひらを返すのだから、私は単純な生き物だと思う。

 夏休みに入って一発目の我が高校山岳部の活動は、県内随一の高さを誇る名峰の夏山登山道タイムアタックという、想像を絶する苦行だった。今ようやく五合目を通り過ぎ、距離的には折り返しというところだ。きつい段差を一歩一歩踏み締める。かつて先生から教わったことを思い出し重心の移動を最小限に抑えることで体力の消費を抑えようとするが、そんな小手先のテクニックなど意味をなさないほど私の体には疲労が溜まっていたので、回らない頭を無理矢理回して脈絡のないことを思い浮かべ、気を紛らわせようとする。

「先輩、遅いんですけど」

 後ろから我が部唯一の後輩が生意気にも煽ってくるのが聞こえる。彼女は中学校では水泳部に所属していたらしいので、万年運動不足の私よりもはるかに体力があるのだろう、その声色には余裕そうな響きが含まれていた。下手にペースを変えるとさらに負担がかかってしまうので、聞かなかったことにして進み続ける。あと、どれくらいだろう。今日に入って何百回目のその問いを投げかけたそのとき、前を進む先生が、六合目に着いたぞ、と声をかけてきた。ようやくひと段落だ。私は胸を撫で下ろし、あと僅かの段差を登り切った。

 この山は、五合目までは木々が生い茂り、鬱蒼とした森の中を歩いているような感覚になるが、六合目に入ると森林限界に到達し一気に視界が開ける。植物はキャラボクを代表とする低木や草花ばかりになり、岩肌の露出が増え、振りかえれば雲一つない青空に、澄んだ紺碧の日本海、そして弧を描いているように見える、美しく湾曲した半島が覗ける。六合目はそんな絶景スポットにあり、少し開けた平坦な岩床に仮設トイレも置かれ、休憩にはもってこいの場所なのであった。

 まるでコブのように岩が張り出し段を作っている所に座り、ザックを下ろす。山腹の涼しい風が私の髪を撫でる。登山とはやはりこうでなくてはいけないと思いながら、水筒に入った麦茶を飲む。氷が丁度良い具合に溶け出し冷たくなった麦茶が喉を通り抜けていく。必死に汗を流した後の一杯の、この感覚は何事にも代え難い。人類がどれだけテクノロジーを発達させようと登山なんていう前時代的な遊びがいつまでも流行っているのは、そういう生命に働きかける根源的な魅力があるからなのだろうと思った。

 しばらく休憩するとかなり体力が回復してきたので、他の部員との会話にでも興じようかと後輩の姿を探すと、彼女は顧問の先生と一緒に六合目の端の、断崖の側に立って、その崖の向こう側に厳然と聳える真っ白な岩壁を眺めていた。

「何を見ているの?」

 私がそう尋ねると、彼女は壁を指差して答えた。

「あそこで発掘みたいなのやっているじゃないですか」

 そう言われたのでじっと目を凝らすと、絶壁にしがみつくようにして、登山着を纏いヘルメットを被った複数の男の人達が、太いロープによって固定された金属板の上に立ち、何やら作業をしているのが見えた。手にはハンマーやピッケルのようなものを握っており、露頭を叩いては、確かに何かを発掘しようとしているようだった。

「あれ、何を掘り出しているんでしょう?」

 彼女は顧問の先生に尋ねた。先生はザックから双眼鏡を取り出すと、彼らの手元を覗いた。

「あれは、貝かな。巻貝みたいな形をしているから、ビカリアとか、その辺りのような気がする。こんなところにも生息していたんだね」

 それを聞いて、私は地学の授業で習ったことを思い出した。海洋プレートが移動した関係で、かつては海底の奥底に住んでいた生物の化石が山の上で見つかることがある、という話だった。一見すると摩訶不思議なこの現象の背景には、何百万年、何千万年という時間の蓄積があるのだと、カルデラというあだ名のついた禿頭の地学教師が熱心に語っていた。

 顧問の先生が若干興奮したように続けた。

「他にもありそうだ。あれは、魚の化石じゃないか? 魚類のような形をしているように見える」

 私も先生に双眼鏡を貸してもらい、先生の指差すところを見てみる。確かに、なんとなくだが魚のような形をしているのが分かった。私の頭に、真っ暗な深海でシーラカンスやラブカが悠々と泳いでいる姿が浮かんだ。

 私は後輩にも貸してあげようかと思い、双眼鏡を外し、声をかけようと彼女の方に振り返った。

 彼女は、私が今までに見たことのないほど真剣な眼差しで、化石を見つめていた。彼女の長い睫毛が日に照らされていつもよりもくっきりと見えた。微動だにせずじっと化石を見つめているその様子に、私は思わず声をかけようとしたことを忘れ、再び彼女の視線の先にある断崖の方を向いた。

 しばらく眺めていると、作業員たちの手によって、岩に埋もれ不明瞭な化石が少しずつ明確な像を成していくのが分かった。地学の先生の言っていたことが頭の中で反響した。照りつける太陽の下で、彼らはこの何千万回目かの夏に何を感じているのだろうか。じんわりとタオルに汗を滲ませる私は、もう二度と有機的な排出を行うこともないであろう彼らから、目が離せなかった。

 

 登山行動はつつがなく終わった。何度も登ったことのある山で頂上の景色も見慣れているため、さしたる感動を覚えることもなく作業的に下山する。一応の目標時間として掲げていた登頂時間九十分を私のせいで超過してしまったので後輩からは文句を言われたが、安全が一番だと大声で主張して先輩の威厳を保った。

 

 

 

 

 我が山岳部は部員二人に顧問一人という、この高校でも随一の零細っぷりを遺憾なく発揮しているが、生憎もう一人の部員が活動に積極的なので、夏休みにも関わらず平日は毎日活動している。男子山岳部は何年か前に部員がいなくなり消滅してしまったらしく、その部室は私たち女子の物置と化している。残った女子の方も部員数が二人しかいないので部の存続自体が危ういようにも思えるが、山岳部が抱える大量の登山用具やキャンプ道具を処理するのは学校側も面倒なのだろうか、我々は特に何も通達されることはなく本日も二人だけの寂しい部活動に興じていた。

 私たちの部室は本校舎から少し離れた、学校の隅にある部室棟の一階左端の部屋だった。コンクリートの壁に格子の嵌った窓がつき、立て付けの悪い扉の設置された独房のような部室で、私たちはいつも部活動を始める前に世間話をして過ごしていた。

 

 今日の部活動は学校での体力練習だった。外にいるよりも暑いのではないかというくらいの最悪の空調性能を今日もしっかりと発動させているな、と思いながら、灰色の部室で私は彼女に尋ねた。

「せっかくの夏休みなんだから、部活以外にしたいこととかあるんじゃないの? 友達と遊びに行くとか」

 彼女は団扇を仰ぎながら答えた。彼女の濡れ羽色の長い髪が風に靡いた。

「私、人と遊びに行くの苦手なんです」

 私はそれを聞いて驚いた。そんな風には見えなかったからだ。彼女は見た目も華やかで人懐っこい性格をしているので、友達もたくさんいるのだろうと勝手に思っていた。

 そんな私の様子を見て、彼女は訂正するように続けた。

「正確に言うと、私は『変わってしまうこと』を意識するのが怖いんです」

 彼女と目が合った。山で化石を見つめていたときと同じような目だった。普段の彼女には考えられない、コーヒーカップに浮かぶ氷を上から眺めたときのような、黒くて冷たい瞳だった。

「友達も、街も、私自身も、全てがあっという間に変わっていってしまう。私はそんなこと望んでいないのに。街に出たり、人と関わったり、鏡に映る私を見るたびに、私は恐怖で足がすくみそうになるんです」

 先ほど部室の扉の前に置き、火をつけた蚊取り線香の煙の匂いが私の嗅覚を刺激する。遠くから蝉の声が一定のリズムで聞こえ、ホワイトノイズのように私の心を落ち着かせた。

「だから私は山や海が好きなんです。私のちっぽけな人生の間くらいじゃ森や岩は何も変わらない。変わらないから私は安心していられるんです」

 部活が終わったのだろうか、隣のバドミントン部の部室から、何人かが残って話している声がコンクリートの壁越しに聞こえる。内容は聞き取れないが、その高く柔らかい声色から何やら楽しそうな話をしているのは分かった。

「私はあの深海魚が羨ましい」

 意識が彼女に引き戻される。彼女はぼんやりとコンクリートの壁を見つめていた。彼女の目には何が写っているのだろうと私は思った。

「あの化石は時間に閉じ込められて、海を泳いでいたときのままでいられる。他の生き物に食べられたり、人間に無理やり地上に引き上げられて、減圧のせいで不細工になった顔を晒されたりした他の仲間とは違う」

 話はここで中断した。彼女はスマートフォンを取り出し、何かの操作をしていた。私も、柄にもなく英単語帳を鞄から取り出してぼんやりと眺めていた。静かになった部室に、先ほどよりも強く蝉の声が響く。一週間後にはもう二度と聞くことができなくなるだろうその声は、私にはない活力に満ちていた。

 

 

 

 

 楽しい夏休みはあっという間に過ぎてゆき、残り十日ほどになった。私もそろそろ宿題に手をつけなければいけないと思い、夏休み前に配られたプリントを見ながら宿題の内容を調べていると、古典の課題を教室に置き忘れていることに気づいた。今日の部活は午前のうちに終わったので、そのまま校舎に行って課題を回収しようとすると、暇だからと言う理由で後輩も付いてきた。

 時刻はちょうど十二時くらいだった。午前中の部活は終わり、午後の部活にはまだ早いと言う微妙な時間帯のために校舎には人気がなく、開け放たれた窓から暖かい風が吹き込んできた。額に汗を滲ませ三階までの階段を上る。

 二年生の教室は一年生の教室と別棟にあるため、彼女は物珍しそうに二年生の教室を見回していた。私たち以外に人がいない静かな廊下に、二人の足音が響く。何も掛かっていない傘かけが、もう何週間もその役目を果たすことなく並んでいた。

 彼女は、廊下から教室を覗き込んで言った。

「誰もいない教室に一人でいるとき、なんだかとても素敵な気持ちになりませんか?」

 私は、ただ寂しい気持ちになるだけだと思った。理由を尋ねると、彼女は少し俯き、冷ややかな目をして答えた。

「だって、止まっているから」

 

 私は教室に入ると、自分の席をまさぐった。いらなくなったプリントやテストの答案が机からはみ出しているのを見なかったことにして引き出しの奥底に押し込み、お目当ての課題を探し出すと鞄にしまった。

 手持ち無沙汰になって、なんとなく教室の様子を見た。黒板には一学期最後の授業の板書がそのままの形で残っていた。黒板に刻まれたドップラー効果の公式は、授業を真面目に受けていない私には馴染みが薄く、Vだのfだのといった記号が散りばめられたその式は、別の世界の呪文のように感じられた。先ほど彼女がいった言葉を思い出した。普段みんなで授業を受けている教室の、電気が消えて薄暗く、私一人だけがただぽつんと立っているその様子に、確かに不思議な高揚感を覚えた。なんとなく教壇に登り黒板の前に立ってみると、私はあることに気付いた。

 板書は、そのままの状態で放置されているとはいえ、ところどころ滲み、ぼやけていた。イコールの記号が掠れているのを見て、黒板は決して息を止めておらず、流れゆく時間の中に共に身を任せているのだ、という考えが頭の中を掠めた。振り返って、教室全体を見渡した。

 壁に掲げられたプリントの、右上に刺さる画鋲がいつの間にか抜け落ちており、プリントが左上の画鋲だけでだらしなくぶら下がっていた。奥のロッカーは、夏休みに入る前に空にするよう言われたはずだが、一部雑然とした状態に戻っており休みに入ってからも人の出入りがあったことが見てとれた。

 私は彼女の言ったことを頭の中で反芻した。本当に教室は止まっているのだろうか。意識しなければ気づけないほどの微かな脈動を続けているだけではないのか。

 ふと、彼女がどこにいるのか気になった。教室を出ると、少し離れた、廊下の突き当たりの生物実験室の前にいた。そこには動物の標本が置かれていて、彼女はそれを見つめていた。私も何度かそれを視界に収めたことはあるが、あまり興味はなく何の動物かも知らなかった。

 彼女はじっと、その標本を見つめていた。まただ、と私は思った。彼女はまた、何かに恋焦がれているのだろうと直感した。しかし、私はそれを止める術を持たなかった。止める理由も、よく分からなかった。

 彼女は私の存在に気付くと、標本を見つめるのを止め、こちらに近寄ってきた。いつも目にする可憐な表情で、まるで悩んでいるようには見えなかった。逆にそれが私を不安にさせた。

「課題ありましたか? じゃあ、出ましょうか」

 校舎から出ると、相変わらずの日差しに眩暈がしそうになった。最寄り駅まで二人で歩く間、これから部活に向かうのだろう、学校へ向かう男子集団とすれ違った。確か、同学年のサッカー部だった気がする。

 彼らの話を聞くと、どうやら合宿で海に行くらしく、ビーチバレーをしたいだとか、花火は欠かせないだとか、合宿先でやりたいことを和気藹々と話していた。

「私、花火嫌いなんですよね」

 男子たちの姿が見えなくなった頃、彼女は言った。

「終わることがわかっているのに火を灯すなんてこと、私にはできない」

 私は何も言えなかった。彼女はまだ、永遠に輝き続ける花火を探し続けて彷徨っているのだろうと思った。そんなものは存在しないということに、私はいつからか気が付いていた。私はいつ、花火が燃え続けていて欲しいと思わなくなったのだろうか。

 遠くの入道雲は、空の青色の一部を白で塗りつぶし、じっとそこに佇んでいて、今が夏であるということを改めて強く私に教えてくれた。私はいつも、入道雲と雷雨のイメージが一致しなかった。遠くから見るとこんなにも雄大で目を奪われるほど魅力的な入道雲がその下には夕立を降らせているということに、私は無関心だった。

 駅に着くと、塾の夏期講習のポスターが剥がされていることに気付き、もうそんな時期か、と思った。

 

 

 

 

 夏休み最終日、私たちは先生に連れられて遠出することになった。日帰りで他県の山に登ろうということだった。ここ一週間はずっと課題に追われていたので良い気分転換になるだろうと思い、喜んで参加することにした。

 今回の山は大きいが平坦で、長めのハイキングのような山行だった。足への負担が少ないので今日は道中も楽しめそうだと胸を躍らせた。木々は依然として深い緑色をして、太陽に照らされ輝いていたが、八月ももう終わり頃だからか、耳鳴りのするほど喧しかった蝉はすっかり息をひそめてしまったようだった。

 きっと、あのとき部室に声を届けてくれた蝉ももうすでに土に還っているのだろう。私も今日で夏休みが終わる。少し涼しくなった風に吹かれながら、私は転ばないように一歩一歩丁寧に土を踏み締めていった。

 数時間ほど歩き、頂上に到着した。夏休み最後の思い出を作ろうとしているのだろう、思いの外多くの登山客が来ていた。よく晴れているため、遠くの地平線まで見渡すことができた。南の方角には市街地が見えた。時々、行ったこともないそんな家々にも人が住んでいて、それぞれの人生があるのだと言う事実に愕然とする。私と彼らは今後一生関わることのないまま死ぬのだろう。そう思うと、どこか寂しい気持ちになった。

 彼女の方を見る。彼女は、山で化石を見て以来、何かに悩んでいるかのように物憂げな表情で俯くことが増えた。彼女はいろいろなことを考えているのだろうと私は思った。変わりゆく自分や、変わりゆく世界。そして、勝手に私たちの元を離れ、取り返すことのできない過去の幻影。

 それらはある意味ではとても子供じみた悩みで、私が遥か昔に諦めてしまったことでもあった。ただ、私は彼女のために何かをしてあげたいと思った。

 手招きをして、彼女を呼ぶ。

「ちょっと着いてきてくれない?」

 彼女は不思議そうに首を傾げ、私の跡を追った。

 頂上の、木々が立ち並びあまり人が寄り付かないあたりの、大きな岩の前に来た。大体二メートルはあるだろうかと思われる、頑強な安山岩だった。灰色の岩石が日光を遮り、薄暗くなったその場所にはひんやりとした空気が漂っていた。

「ここにメッセージを刻まない? 私たちがここにいたって言う証を残そう。そうすれば、たとえ私たちが死んだとしても、メッセージは変わらずに残り続ける」

 そう言うと、彼女は少し頬を緩ませ、口を開いた。

「何を言うかと思ったら、そういうことですか」

 彼女は岩にそっと手を添えた。

「そんなことをしても、どうせ何年か後には風化するでしょう。仮に残ったとしても、私たちが変わってしまえばその落差に絶望してしまうだけです。私たちが何かを残そうとしても、結局は無意味なんです」

 彼女は少し悲しそうに笑った。

「あの化石だって、いつかは古くなって処分されるでしょう。標本だって同じ。早いか遅いかの問題でしかなくて、永遠なんてものは存在しない」

 私は口をつぐんだ。何か声をかけてやりたかったが、何も思い浮かばなかった。

「私も、そろそろ諦めがついてきました」

 彼女はいつもの気丈な様子で笑っていた。私は、彼女のそんな顔を見たくはなかった。

「たとえ変わっていくと分かっていても、向かって行かなきゃ駄目ですよね。これからますます醜くなって、美しいままでいることはできなくても、生きていかなきゃいけないんですよね」

 彼女はそう言うと、踵を返し、元の場所に帰っていった。

 私は彼女のことを見誤っていた。彼女は私が思っていたよりもずっと深く物事を考えていて、大人だった。

 私はただ岩の前で立ち尽くした。淡色の岩は寡黙にただ私をじっと見つめていた。

 

 

 

 

 夏休みが終わった。気温はまだまだ厳しいが、そんなことはお構いなしに学校生活は再開した。無理矢理終わらせた夏休みの課題を提出すると、すぐに休み明けのテストを受けさせられた。一ヶ月ぶりに見る三角関数に悪戦苦闘していたら、いつの間にか試験は終了していた。私は、五月のあたりだったか、サインが九十度を超え出したあたりから既に脱落していたということを思い出した。

 テストが終わると、いよいよ退屈な毎日へと戻った。今までと変わらない退屈な日々。しかし、一つだけ決定的に変わったことがあった。

 後輩が、部活動の回数を減らしてほしいと頼んだのだ。それによって、日曜日以外毎日あった部活動が半分の週三回になった。私自身、普段行うような体力を養うための基礎練習にはあまりやる気がなかったのですぐに了承したが、夏休み最終日の一件がふと頭をよぎった。

 部活に行く代わりに彼女が何をしているのかというと、今までやらなかった分、友達と街に出かけて遊んだり、バイトに勤しんだりしているそうだ。

 結構なことだ。私はそう思ったが、彼女が時折見せる物憂げな表情は、私に少しばかりの疑念を湧き上がらせた。

 本当に彼女はそれでいいのだろうか。今の彼女は、苦しい気持ちを押し殺して、自分が本当に向き合うべき問題から目を逸らしているのではないのか。そんな疑問を彼女にぶつけることもできず、私はただ日常に埋没していくだけだった。

 

 部活の無い日、私は事実上独占状態の部室で、何年も前の顔も知らない先輩が遺していったゲーム機で遊んでいた。九月も中旬になり、夏も終わりかけていることを肌で感じていた。一日の中で過ごしやすい期間が増えていき、部室の床に敷かれた銀マットの上に寝転がっても暑苦しくはなくなってきた。

 入り口では、夏の間に使いきれなかった蚊取り線香の入った箱がドアストッパーとして機能し、私に新鮮な風を届けてくれた。

 遠くの体育館から、一定のリズムでバスケットボールが跳ねている音が聞こえた。音楽室からは、吹奏楽部が練習しているのだろう、何度も繰り返して演奏されているフレーズが、私と彼らの距離のために、少しぼやけて耳に入ってきた。

 私は、いつもと変わらない放課後の音に満たされていた。しかし、聞こえなくなったセミの鳴き声が、そして彼女の不在が、変わりゆく現実というものを私に容赦なくぶつけてくるのだった。

 

 

 

 

 九月ももう終わりそうな、そんなある日のことだった。気温は少しずつ下がっていき、今日の朝はエアコンをつけなくても良いほど涼しかった。とっくに返却された実力テストの存在を頭と引き出しの片隅に追いやった私は、自分の席に座りいつものように窓の向こうの電波塔を見つめていた。

 朝のショートホームルームでは、先生が来月からの衣替えについて話をした。私は冬服の鬱陶しさが嫌いだったが、先生に楯突くような勇敢な心を持っていないので、仕方なく従うことに決めた。親にクリーニングをしてもらうよう頼まないといけないと思いながら、眠い目を擦った。

 

 今日の部活動の時も、衣替えのことが話題になった。

「この時期の冬服って結構暑くないですか?」

 彼女は相変わらずの快活な調子で言った。私が同意すると、彼女はその可憐な顔を緩ませて笑った。その後会話は別の話題に移行し、しばらくどうでもいいような話が続いた。

 そろそろ本日の部活動を始めようかといったところで、私は意を決して彼女に告げた。

「今夜、星を見に行かない?」

 彼女は驚いたように目を丸くした。

 

 時刻は九時を回った。下校時刻を優に過ぎ、毎日日が暮れるまで練習している野球部やサッカー部も、とっくに帰ってしまった。私たちは部室に篭って見回りの先生をやり過ごした。部室棟に備え付けられた電灯に虫が集っているのを横目に、私たちはこっそりと忍び歩きをして、校舎裏に向かった。

 校舎裏の壁には、緊急時の避難用に梯子が取り付けられており、屋上まで通じていた。簡単に登れないようにするためなのだろう、その梯子は二階の高さから始まっていたが、何年か前、ある不良生徒が屋上に登るために脚立を用意し、その後こっそり自転車小屋の裏の隙間に隠したことが生徒の間では知られていた。私たちはその置き土産を使って屋上に上がることができた。

 地面をランタンで照らすと、普段人の入らない屋上は所々茶色く薄汚れていることが分かった。水のタンクや排気ダクトが並んでおり、漫画に登場するような理想の屋上とは違うのだなと思った。私たちは少し歩いて屋上の端にたどり着き、ランタンの明かりを消して空を見上げた。

 そこには満天の星空が広がっていた。今日は雲ひとつない晴天だったため、遠くの星々まで見渡すことができた。無数の天体が煌めくその様を見て、この光景が遥か昔からずっと続いているのだと、かつて同じ星を見たであろう人々に思いを馳せた。あの深海魚が化石になる前からずっと、星々はここを照らしていたのだなと思った。

 もっと高い場所で見たい、と後輩が言い出したので、私たちは貯水タンクの梯子を上り、その上に座った。木々よりも高くにある屋上は虫の鳴き声も届かず静寂に包まれており、星の一つ一つが燃える音さえ聞こえてくるのではないかという気持ちになった。

 一際明るい星が天球の向こうに浮かんでいるのを見つけた。

「北極星だ」

 私は思わず口に出した。北極星に連なるようにして、柄杓のような形をした北斗七星を見つけた。真っ黒な夜空に点々と浮かぶ星屑のひとつひとつが像をなし、私に何かを語りかけてくるように感じた。

 ふと我に返り、横を向いて、彼女のいる方を見た。彼女は星々に目を奪われているようだった。私が見つめていることに気付いたのか、視線をこちらに向けた。

 目が合い、なんとなく気まずくなって目を逸らそうとしたとき、彼女は口を開いた。

「私、今死ねたらどんなに幸せだろう」

 私をじっと見つめて微笑む彼女に、私は何も言えなかった。夜空のスポットライトに照らされ、私は彼女が主人公の舞台を見ているような錯覚に陥った。しかし、今の彼女を美しいと思ってしまったら、もう取り返しがつかないような気がした。

 頭の中で、今までの出来事がフラッシュバックした。

 化石。花火。蚊取り線香。蝉の鳴き声。どれももう過去だった。

 先輩、と彼女が私を呼びかけてきた。

「今ここで私を殺してくれませんか」

 彼女の視線が私を貫いた。彼女の漆黒の目には夜空の星々が反射して、きらきらと輝いていた。僅かに目に涙が浮かび、瞳の中の小宇宙は揺らいでいた。

 

 今になって思い返すと、あの瞬間、彼女は永遠だった。


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