寺への脇道に紫陽花が咲いていた。
薄い桃色の花弁が雨がやんだばかりの湿った風に揺れている。
湿った地面の匂いが鼻孔を擽ぐる。
「綺麗なもんだねえ」
「本当に」
黒い着物に鼠色の袴を身につける斎藤が少し前を歩く。いつからか青いだんだら羽織を着ているところを見なくなった。
空はどんよりと分厚い雲に覆われて、また今にも雨が降り出しそうだ。
緩く波打つのは今の空と同じ色の髪。
その毛先が、歩調に合わせてユラユラと揺れ動くたびにスラっとした鼻筋の通った横顔が覗く。
新撰組では夜番が多いのか。三白眼気味の目の下には出会った頃から変わらず濃い隈が未だに残る。
もしくはそれだけ粛清すべきが身内に多くあるのか。
斎藤からは相変わらず血の臭いがしている。
斎藤の眉に僅かな皺がより眉尻が下がる。
そして瞳だけが私を向いた。口元には微かな笑いが浮かび、斎藤の困惑を表していた。
「……なに?」
「いや、私の旦那は男前だと思ってな」
「……あらあ、今頃気づいたの? ……いやホントに急だな?」
何か企んでいるのかと、疑惑のこもった視線が刺さる。
「褒めただけだろう? 何をそんなに怪しむことがある」
「……照れてんの、言わせんなって」
大仰な反応にクスクスと口を手のひらで覆い肩を揺らせば、斎藤の頰に朱が走った。
なんだ照れ隠しかと、また笑いが込み上げる。
「存外に可愛いところもあるじゃないか」
「聞き捨てならねえわあ……」
その頰に手を伸ばせば、指先が触れる寸前びくりと斎藤の方が震えた。
ぎゅ、とまた眉間に皺が寄り、真一文字に閉じられた唇に力がこもったのが見て取れる。
触れた頰は鮮やかな色に反して冷たい。
「……ここ、公共だからさ。やめてね」
「おやおや、私の旦那さんは随分と堅物ですこと」
「だからさあ……、ここじゃアンタに触れねえじゃないの。……分かってて煽ってるよなあ!?」
眉が吊り上がり、ぐっと今度は目に力が込められる。威圧するように睨みつけられ、また頰が緩んでいってしまう。
触り返したくとも公共だからと理性が先に立つ感じ、私にはよく分からなくて面白い。
やりたいことをやればいいじゃん?
遊び人らしく振る舞っても根が真面目なんだろう。
「なら帰ろうか」
「…………うん」
「またしばらくは帰らないんだろう」
「そうねえ…、この先、立て込むだろうからね……。当面の資金はちゃんと足りてる?」
「十分だとも」
生活費だと渡されるのは月に金十両前後で、他に何をするでもないため生きるためなら十分すぎる額であった。
そして此度は急な遠出だと百両ほど。よくもかき集めてきたものだと少し感心したのを覚えている。
そもそも十両ほどを生活資金だと初めに渡されたとき……流石に人の稼ぎを渡す気はないけど、以蔵がいたらヤバかったなあと思った。
「……私は人の顔に見るのが好きでな」
「あ、うん」
「そうして見ているとついつい触りたくなってしまう。……嫌なら控えよう」
「いや、ではないけど……嫌ではないんだけどねえ!」
ゴニョゴニョと呟きながら、再び歩き始めた斎藤の三歩後からついていく。
何とも馬鹿らしいと思うものの幼い頃から教え込まれて、身についたものは早々になくならない。
私の記憶の中の妻という最も身近だった存在が、そうしていたからである。
武家の女たるもの、だとかあーくだらねえ。とは思うもののそれが一番慣れ親しんだ女の姿なのだ。
少し歩いて斎藤が足を止めて振り向いた。
「ねえ、隣を歩いてくれない? せめて一歩分の距離くらいでさあ。そこだと離れすぎじゃない?」
「そうか?」
「うん、遠くてイザってときに手が届かないと困るでしょ」
「へえ、わかった」
手招きをされて隣へ並ぶ。まあ確かに三歩後ろは遠いかもしれないな。
何かあっても自分でどうにか出来るけど、言葉を呑み込み隣へ立った。
「物騒な世の中だからなあ」
「……、そうねえ」
並び歩いて、すぐ真横を見上げればヘニョヘニョと口の端を笑うのを堪えるような表情をした斎藤の顔が目に入った。
釣られて口元が緩んでいくのが分かり、手のひらで覆い気づかれないように顔を伏せた。
まあきっと気づかれてはいるんだろうけど。
なんて穏やかな日。
血の臭いと死の気配を纏う男と、折れた私の過ごしたある日の記憶。
胸の内にぽっかりと空白を抱えながらも、それでもきっと満たされ始めていた。
「……久助、息災か」
「せ、んせい……?」
そんな頃に死んだはずの先生が訪ねてきたのだ。
仮眠から意識が浮上した。
立ったまま、高杉重工へカルデア一行が協力している間に時間潰しの休息である。
目を閉じただけでも存外に休めるものだ。
「それで、お久さんは私たちについて来て高杉さんに協力しちゃってていいんですか」
「……見ているだけなら別に構わんさ。お前らの監視をしてると思えばな。それに私が必要なら接触がある」
「ぜってえ殺した方がいいと思うぜ、ソイツ」
「まあまあ森くん。お久さんには初めから敵意もないみたいだし」
明るい髪色の少女が殺した方がいいという赤毛の武者の忠言を宥めすかす。
「君、随分と馴染んでるな。このまま武市を裏切って僕の方についてもいいんだぜ?」
事務所にやって来た高杉がニヤニヤと笑う。高杉の指示で各ブロックに向かうという話になっての言葉である。
無視をする。
けれども何の反応もないため高杉も私が答えないと分かっていての問いであるのは明らかだった。
私が先生を裏切るわけないし?
「お久さん、ちなみに勤王党の本部ってどこですか」
無視。
爪紅が取れてきちゃったなあ〜、と爪を眺める。
少しくすんだ橙の色。
何故だか斎藤の顔が浮かんだ。つい直前に夢で見ていたからだろうか。
そろそろマジで限界のかな。だって五年も顔を見てない。
「頑張って探せよ」
「手伝ってはくれないんだー! えーん、頑張ろ!」
私の助力がなくともキンノブの数が多い方を目指して、赤毛の武者と眼帯少女に藤丸は本部を探し当てるのである。
「ここがコイツらの根城か! 邪魔するぜ! 死ね!」
罪のないキンノブが続々と倒されていく。おお、南無。
「この阿国舞台の結界の中では、如何なる外法もその力を十全と発揮することは出来ません!」
現れた踊り子が新兵衛の持つ首の力を封じ込めた。
へえそんなことも出来るのか。魔術とやらは全くの門外漢であるために少し目を剥く。
あ!
コイツのこれで坂本のことどうにか出来るんじゃね!?
とはいえ敵同士。高杉に助力するサーヴァントだ。
と、と、と床を軽く蹴る。
「ア!? テメエ動くんじゃねえ!!」
「ッ!?」
踊り子の息を飲む音。つい直前まで私のいた場所へ寸分違わず赤毛の武者の槍が突き刺さった。
踊り子の背後に立ち、刀を抜いた。
細いうなじへ目掛けて刃を振り下ろす。
鉄の打ち合う耳障りな音が響く。目の前に踊り子を庇うように鉄の塊が立ち塞がっている。
これも宝具ってやつ?
「ナイスですよ! 斬ザブロー! そして貴女様はSAITAMAのあちこちで家屋諸々を破壊しているテロリストの鬼久助ですね!」
「なにやってんだ! 人斬り!」
「うるさい、お前死ね」
「お断りですよ! 此度の公演に貴女様は招待しておりませんので! ウェイクアップ! 斬ザブロー!!」
「ふぃぃい」
また殺せなかった。
身構える鉄の塊と踊り子へ、私も剣を構えかけた。
「久助! 貴様は戦闘を禁じられているはずだぞ! 先生の命令に従え!」
「あぁん? たった今負けようとしてやがった分際で何言ってんだ?」
「黙れ! ここでやられるわけにはいかん!」
「チッ。犬が」
新兵衛の怒号に舌打ちと悪態を吐く。続け様に飛んでくる穂先を避けて、鎧武者の腕を足場に新兵衛の元へと跳ね飛んだ。
新兵衛の肩へ着地して、藤丸たちを振り返る。
「お、お久、さん……」
「殺しておけばよかったんだ。その甘さで足を掬われる」
「魔術師よ。次は貴様のその命、必ずこの田中新兵衛が頂く……」
捨て台詞を吐いて、新兵衛が私を抱えたままその場を離れた。
「なぜ殺さなかった」
「女子供を殺すのは目覚めが悪いぜ」
「……やはり先生の言葉は正しかったようだな。女として生きて、貴様は随分と鈍った! 以前の貴様ならばあのような娘風情、一呼吸のうちに殺していよう!」
「おーおー、そうだな。お前がそう思うならそれでいいさ」
走りながら、小言を言い始める新兵衛に心底嫌気がさした。
……まあ、事実ではある。側から見ても、自分からしても私は鈍ってしまって、あの藤丸の甘さをよりにもよって先生に重ねてしまった。
いつだって甘いから足元を掬われるのだ。
不要であると思ったならば、人斬りの道具くらい斬り捨てて仕舞えばよかったものを。
..
坂本の側にお竜がいた。
お竜が寄り添っていた龍馬は牢に繋がれて、その処刑を餌にカルデア一行を引き摺り出す罠に利用する。
「……」
「お竜」
「……」
お竜は目を開けたまま人形のように──坂本云はく眠り続けている、らしい。
魔力の消費が激しいから眠らせて、温存しているそうだ。
「龍馬が死んでしまうぞ、お竜」
「……」
返事はなく、言葉に対して反応すらない。
これもまた宝具の能力であるらしく、この状態のお竜を見せられるのは酷く不快である。
お竜の冷え切った手のひらを握りしめる。
先生は私に斬れと言わない。ならば何故会いに来た。
あの日あの時、死んだはずの先生が現れなければ私はこんな未練に突き動かされて、剣にも徹しきれないまま宙ぶらりんになることもなかったろうに。
斎藤の元に帰りたいと願う。
同時に先生のために、剣を振るうことを願う。
どちらも選べず、どっちつかずであることの何と無様なことだろう。
どうして、どうしたら。
私は誰を斬ったらいい。何を斬ったらいい。
そんなものはとうに明らかであるのに、それにすら剣が届かない。
あの坂本を斬るべきだ。けれど先生はそれを良しとしない。
先生の敵を斬るべきだ。けれどどうしても殺意が湧かない。
早く終わりたい。
こんな無様な自分を早く、早く終わらせて。
「ようやく隙を見せてくれたね。久助さん」
つい直前まで何もなかった空間に忽然と坂本が姿を現した。
「りょ──」
「サーヴァントでもないただの人間風情が随分と持ったものだよ」
黒いモヤがすぐ目の前に。
「お久さん!!!!」
藤丸の声が名前を呼んだ。霧が晴れるような心地がして、気がつけば、
「……久助……」
「……先生、ぁ、お逃げ下さ、い」
傷だらけの先生と先生よりもさらに血だらけ傷だらけの新兵衛が目の前でしゃがみ込んでいた。新兵衛は先生を庇うように、私と先生の間にいて、私の手に血に濡れた刀が握られている。
先生から借りた刀に、先生の血が。
「どうやら久助さんは武市さんを恨んでいたようだね。捨てられた女の情念っていうのは怖いものだ」
にこやかに坂本が言う。刀を握る手が震えた。
何が起きたのか分からない。けれど明らかであるのは、
「わ、わたしが、先生を……?」
私が先生に刃を向けたことだった。
「そうだよ、久助さん。お前が武市さんを殺そうとしたんだ、無理もない。あれだけ先生先生と慕っていたのに、武市さんはお前に殺せるだけの人間を斬らせてから要らなくなったら捨てたんだからね。心の奥底では恨んでいても不思議じゃないよ」
饒舌に語り始めた坂本。
そんなことないと、思うのに目の前の血だらけの先生が否定すら許してくれない。
「やめろ……! 坂本くん!! 久助がそんなことを思うはずが……!」
「ついたった今、殺されかけたくせに何を言っているんだ? ほら久助さん、トドメを刺したら? 今ならば殺せるよ?」
「ちが、ちがう、わしがそがなこと……」
「面倒だなあ。もう一度心に素直になっておくかい?」
再び黒いモヤが近づいてくるものの、腕に力が入らない。
私が先生に剣を向けた。その事実が揺るぎようもなく、精神を揺らす。
先生の敵を斬る。
──敵は私だ。
もう終わりたい。
──終わりにしよう。
笑いが浮かび、刀を自らの喉元へ添える。ようやっと先生の敵を斬ることが出来るのだ。
終われる。
『俺は死なない。絶対に何があっても、生き残る』
はて最後に浮かんだ顔は誰のものであったか。