出会ったのは冬の日だった。春の気配を感じさせる陽気が降り注ぐ暖かな日だった。
父から城内に呼び出され弟ともに中庭で遊んでいた。
椿が咲いている。
風が吹くと早咲きの梅が華やいで香りを周囲に散らす。
季節を勘違いした春の鳥がチュンチュンと梅の枝に留まって私と弟を見下ろしていた。
その鳥の声にシクシクと泣き声が重なる。
足元でシクシクと泣きじゃくるのは弟だ。
袖から見える腕には新しいものに治りかけのものと区別なく痣が残る。
同じ胎から生まれたはずの弟は、私と比べて随分と体が弱く勘も身体能力も鈍かった。
「お前は弱いなあ」
「姉さんが強いんだ」
「だからって──」
自分で転んで泣きじゃくる奴があるかと言おうとした。
「何をしているのです!! 久助様!!」
その前にヒステリックな叫びが空気を震わせる。乳母の女だ。
父直々に弟と私の世話を命じられている女。
乳母は庭に駆け降りると、庭に転がり泣きじゃくっていた弟を支えて立ち上がらせた。
そしてキッと私を睨みつける。
「何故このような……! 実の弟でありましょうに、貴女には人の血が通っていないのですか!?」
いやそいつ、自分で転んだ。と言ったとして無駄だろう。
なので乳母を睨みつけるにとどまる。
乳母は体が弱く性質も大人しい弟を殊更に溺愛していた。いやお前と言いたくもなるけど、暴れん坊だと悪名高い私が何を言ったところで無駄なのだ。
何を言っても乳母にヒステリックに騒がれるだけだ。
弟のあまりの体の弱さから父が私に家督を継がせようかと考えるくらいであるので、家の中には多少の骨肉の争いの火種が見え隠れしていた。
乳母は弟を支持しているというわけである。
やったな、弟。お前の味方だぞ。と弟を窺えば弟は弟でなんだこいつと言いたげな顔で乳母を見ていて笑えてきた。
「何を笑っておられる! この、この、鬼子が!!」
乳母が腕を振り上げた。その手が振り下ろされるのを眺めながら、どうしてやろうかと考える。
避けて私が頰を叩いてやろうか。
それともわざと叩かれて乳母から生きがいを奪ってやろうか。
父を殺しかけるほど私を手放すことを厭うた母が乳母と私のどちらを信じるかな。
私を信じないなら、そうだな。みんなみんな殺してしまおうか。
そして弟と一緒に土佐を出るのもいいかもしれない。
そしたら格式ばって煩わしい、この家からも解放される。きっと自由だ。
「お待ちください、小松殿。罰を与えるにはいささか性急すぎる」
突然の冷ややかな声に乳母の手が途中で止まった。
少し離れた梅の木の下に、城内で初めて見る男が立っていた。
背が高く、精悍な顔をしている美丈夫だ。
「何故令息殿が泣いていたのか、まだ本人の口から聞いてもおらぬようですが」
「た、武市殿。聞かずともわかるのです。私はこの姉弟の面倒をずっと見ているのですから、口出しはおやめください、これは躾です、乳母としての必要な務めで……」
「ならば邑田殿と御母堂の目前でもう一度、初めから行いくだされ。その行いが正当であるというならば、さぞや容易いでしょうな」
「そ、れは……、尚久様。傷の手当てをしに参りましょうね。申し訳ございませんが、これにて失礼させていただきます」
狼狽した乳母は弟の手を引いて、去っていく。
去り際弟は、なんとも言えない目で男を見てから私へもの言いたげな視線を送ってきた。
「……申し訳ない。要らぬ助太刀だったか」
「……別に」
武市と呼ばれた男が眉を下げて、私へ声をかける。
眉を下げる表情は存外に幼く、見た目よりも年若そうに見えた。老け顔だなあ。
「よくぞ暴れるのを耐えられた。噂で聞くより貴女はずっと聡いようだ」
おもむろにその手が頭に伸ばされた。なんのつもりだと見守る。
男の手は花弁を一つ、私の髪から拾い上げるだけだった。
花弁を摘んだ指を見つめ、男は頰を緩めた。仕方のない子供を見るような目で見下ろされて、
「……」
特に話すこともないので、その場を離れた。男は何も言わずに引き止めない。
ふと振り返れば、男は相変わらず梅の木の下で早咲きの梅を見上げている。
もう一度風が吹き、梅の花が香った。
なんだか胸がざわざわとする。
くすぐったいような、落ち着かない気分だ。
落ち着かない気分のまま、自室に戻った。
そして父から改めて呼び出され「人らしく生きろ」と告げられ連れて行かれたのが件の道場である。
「邑田殿よりお二人の剣術指南を仰せつかりました。武市瑞山と申します」
「あ、この人さっきの……姉さん?」
「わー、この私に剣術指南か! さぞや腕が立つのだうろうな! よし! お前を負かして、その矜持をバキバキにへし折ってやろう!」
「……それは楽しみですな」
武市瑞山の目が細められた。煽っても怒らない。初めて見るタイプの大人だった。
怒らせたい!
何をしたら怒るかな。取り乱すかな。
さて何をしでかしてやろうかとワクワクしながら稽古に通った。
正直な話、ヒステリックな乳母に育てられた影響なのか私はとても人の嫌がる顔を見るのが好きだった。
今でも好き。
「おい、おまん天才ち言うちょるらしいのお?? わしの方が天才やけんどのお??」
「あ? なんだお前ゴラ」
武市の道場で年上のクソガキに絡まれるまでは、確かに私の目的は武市への嫌がらせだったのだ。
「わしの方が天才じゃ!! こんべこのかあ!!」
「はあ!? 私の方が天才なん、だけど!? 私に一度も勝ったことないくせに!」
「おまんもじゃ! わし負けちょらんし〜??」
「オラァ!! 負かしてやるよぉ!!」
「やってみぃ! このクソガキ!!」
「以蔵さんと久助さんは元気じゃのう……、わしはもう稽古は嫌ちや」
「私もだよ。坂本くん、あっちで他の遊びでもするかい」
「わあ、尚久さんは話が分かるのう! おかあはんにおやつを持たされとるぜよ、一緒に食べよう」
以蔵と張り合ううちに、龍馬とも知り合っていつの間にか武市の道場の三馬鹿とか言われ始めるのマジで納得いかないし。
誰だ言い始めたの殺すぞ。
あと三馬鹿いうなら弟も混ぜろ。たしかに馬鹿なこと出来ないくらい体も心も弱いけどな!
「ほら、以蔵。久助。おまんらもこっちで茶でも飲みぃ」
「先生、今の私の勝ちだったよなあ?」
「あぁん!? わしの勝ちじゃろ!? なあ、武市!」
「うむ、引き分けというところだな。早く食べないと龍馬が全て食べてしまうぞ」
「龍馬ぁ! なにしちょるが!」
「た、食べちょらん、食べちょらん。ちゃんと二人の分も残してあるがよ」
縁側でお茶を囲む三人の方へ以蔵が駆けて行く。鮮やかな黄緑の葉桜の作る木漏れ日が瞬いた。さわさわと、風に吹かれて葉が騒めく。
梅の季節も過ぎ去って、もうじきに夏が来る。
「姉さんの分もとってあるよ」
「ああ、今行く」
弟に声をかけられ、私もみんなの方へ向かう。
「しかし久助は本当に強いのう。誰かに教わったわけじゃないろう? 才能じゃの」
「わしの方が天才じゃ!」
「わかっちゃるわかっちょる。以蔵と久助は全く別の天才ちいう話じゃ。産まれた時代が時代なら武将として歴史に名を残しちゃっても不思議じゃないのう」
武市の穏やかな目が私を見つめる。
この目が少し苦手だった。この目で見られると、なんだかゾワゾワと落ち着かなくなる。
「わしは天才やきねえ」
誤魔化すように以蔵の真似をした。
それでも嫌いじゃない。なら多分好きってことなんだろうなあ。
「お?! 何真似しちょるが!? 馬鹿にしちょるんか?!」
「しちょらんしちょらん、ハハ」
「絶対しちょる! 泣かすぞ!」
「やってみぃ、アホの以蔵♡」
「ちぇりああ!!」
揶揄えば、分かりやすく騒いで反応をしてくれる以蔵のことも割りと気に入っていた。
「静かに食べんか……全くおまんらは」
呆れたように呟く先生の声のなんて優しいこと。
先生のことが好き。特別な出来事が何もなくても大好きになってしまった。
そして先生は私に剣を。
★
眠っていた。
よほどの疲労だ。自分で睡魔を操れないなんて。時間を確認してから、先生の元へ戻らなければと腹を括る。
今見るには、なんて残酷な夢だろう。行かなきゃ先生のところへと。
刃毀れした刀に、脇差もさっきの逃亡で手放してしまった。戦闘になるなら、どこかで新しく武器を調達した方がいいかもしれない。
「こんばんわぁ、お姉さん。こんな夜中に一人でどこ行くの?」
人気の多い大通りを避けて、細い路地へ進んでいると声をかけられた。
軽薄な声だ。
細い路地の奥に青いだんだら羽織を纏う男が……。
「は、はじめ……?」
「はいはぁい。旦那さんですよぉ」
?????
路地の先から青いだんだら羽織を纏う斎藤が両手を振ってやってくる。
その手は刀に触れておらず、敵意はないと示してはいる。
けれどこの場に、あの羽織を纏う斎藤が現れるはずない。
近づいてくる死の気配。血の臭い。死者の──。
──サーヴァントだ。
地面を蹴って、飛び退る。斎藤から距離をとって、刀を握る。
斎藤の目が細められた。
「……いやいや、その刃毀れした刀で何ができるわけ?」
「試してみろ」
「試したら死んじゃうよ〜? ほら僕ってば無敵だから」
あくまで戦う意思はないと、刀に触れず斎藤はヘラヘラと笑う。
多少気が削がれるけど、斎藤はそういう奴なので油断は出来ない。
刃毀れしている。脇差もない。あるのは母から譲られた小刀くらいだ。
斎藤相手にそれは些かどころか、かなり心許ない。
刀から手を離した。
「で?」
「でって?」
「ハ、くだらない問答はやめろ。時間の無駄だ。何しに現れた。お前、カルデアのサーヴァントなんだろ」
「わあ、わかる? 実はそうなのよ」
戯けるように目を見開き、へらりと笑って斎藤が言う。
カルデアのサーヴァントである斎藤。カルデアの目的が特異点の解消らしいことは把握してるけど、それだけだとここに斎藤が現れた理由が説明できない。
だって私は特異点とか魔術とかに全く無縁だし……。
「アンタを止めにだよ!」
距離は一瞬で縮められ、腕を掴まれた。
すぐ目の前に斎藤の顔がある。眉を吊り上げ、歯を食いしばり、怒っているのは理解できた。
「サーヴァント同士の戦いにむざむざと死にに戻ろうとするアンタをな!」
「……カルデアっていうのは随分と自由な組織らしいな」
「あ?」
斎藤の勢いに面食らいながら、なんとか言い返す。
圧を発しながら斎藤が睨みつけてくる。
「カルデアの目的は特異点の解消だろ、私が生きるか死ぬかとか関係ないじゃん」
「関係あんだろ。俺はアンタの旦那だし」
「もう死んでる」
「……」
掴まれていた手を振り払い、斎藤の体を押しのける。
先生のところに行こう。
軋む体を動かして、坂本探偵事務所に向かう。気が抜けたことで、一気に疲労が襲ってきた。
斎藤もあとを追って来ているようで、近くから話しかけてくる。
「その先生も、もう死んでるんじゃないの」
「そうだな、死んでる。あの人もサーヴァントだ」
「なら、そこまでする必要……」
「ある」
きちんと終わらせる必要があるんだ、と言って斎藤に伝わるだろうか。
手の届かないところで、知らないうちに死んだ先生が戻ってきたんだから綺麗に終わらせる最後のチャンスだ。
この機会を逃したら本当に死ぬまで未練を抱えて生き続けることになるんだろうという予感がある。
そんなの斎藤にも失礼だし?
どうやって終わるのかとか、そんなのは何も分からないんだけど!
振り返る。
すぐ隣に青いだんだら羽織を纏ういつかの姿をした斎藤が立っている。
「手ェ貸せよ」
「え? 嫌ですけど」
「は? 奥さんが困ってるんですが?」
「アンタは言って素直に聞くタマじゃないもんね。もう止めはしないけどさ手も貸さない。俺が反対してるのは変わんねえからな」
「……」
呆れたように言われ面倒くさいと思いながら斎藤の胸に抱きつく。
流石に予測していなかったのかビクッと体を震わせた斎藤を抱きついたまま見上げる。
ぐ、と眉に力を込めて八の字にして、上目遣い。
「はじめ。私を先生のところに連れてって、お願い……」
「……いや、だから連れてかねえって」
言いながら斎藤は目を逸らした。
あれー? 私の知ってる斎藤ならこれで一発なんだけどー?
あのチョロさが斎藤の魅力の一つでもあったのに……。
「なんか変わったなあ……サーヴァントになると生きてるときとはやっぱり変わるものか」
「さあね、そもそも僕が死ぬのはずっと先だから。アンタの知ってる僕よりずっとお爺さんだよ」
「……あぁ、カルデアは2000年代設立の組織とか龍馬が言ってたな。いつ死ぬかは知らないけど長生きしたんだな? やるじゃないか、褒めてやる」
「そりゃどーも」
抱きついていた体を離して、笑いかける。
斎藤は約束を守るんだなあ、とそれだけで頰が緩んでしまうのだ。
「でもその塩対応はよくないな。愛しの奥さんだぞ、もっと労われ」
「へえ? なら旦那さんの言葉にも、ちょっとは聞く耳もってくれませんかね」
「やだね〜だ、……ふふ。本当に馬鹿だな、お前」
今ここで私に会いに来てしまうのが逆効果だとは分かるまい。
やっぱりきちんと先生との未練を断ち切って、終わらせて、そして斎藤と生きたいな。
斎藤の思いとは裏腹に私は決意を新たにしてしまったわけだ。
弱った心に気力が満ち溢れていく。
「さ、行くか」
「はあ……いつもいつも誰も引き止められてはくれないんだもんな……」
「何言ってんだ。お前も来るの。ついて来い、斎藤!」
暗い声で何事かを呟く斎藤の手を取って、歩き出す。手を繋いでしまえば、杖代わりくらいにはなるだろう。
それに斎藤はカルデアのサーヴァントだし。マスターである藤丸のところに戻るなら目的地は同じじゃないか。
「……あぁ、ほんと、……はいはい、いま行きますよって」
「あっ行く途中で新しい刀が欲しい」
「……奥さんさあ……」
握り返された手に、今ならいけるとおねだりをすればまた呆れた調子の声とため息が返された。