その日、出会ったのはまだ鬼子と呼ばれていた幼子だった。
「邑田の事情は知っておろう。其方に我が子らの剣の師となって欲しいのじゃ」
小春日和の冬の日に、呼び出された上士邑田氏の邸内にて、そのような頼みを受けた。
相対しているのは邑田殿ではなく、奥方という地位に収まった異郷の女である。
白磁の肌に烏の濡れ羽色をした黒髪。一目見て息を飲むような、美しい女性であった。
切長の瞳が細まり、鮮やかな紅の塗られた唇の口角が持ち上げられる。
おそらくその微笑みでこれまで幾人もの男を転がしてきたのだろうと確信を持って断言できる容貌だった。
「ひぐぅ」
「何をしている、[[rb:尚久 > なおひさ]]。貧弱なやつ」
「まって、まってよぅ、姉さん、私も、一緒に」
庭からよく似た幼い声が二つ。
毒婦といった様子だった女の纏う空気が和らぐ。
異郷の、流れ者の芸妓であった彼女の琴の音にとある方が惚れ込んで邑田家の妻として土佐に居付かせた。
女はやがて子を孕み、双子を産んだ。
流れ者の卑しい女。双子を産んだ畜生腹。
彼女の悪名は聞こえてくるだけでいくつかあった。
そしてその娘である──男の名を持つ少女に関する暴れ者の鬼子だと噂を聞いていた。
道場の運営も軌道に乗り始めたばかりの時分である。
果たしてここで、彼女の望みを叶えてよいものかと、答えが出ずに保留することにした。
一先ず、その子らの様子を見て決めさせていただく、と女にはそう告げて猶予をもらった。
「邑田はあの子に剣を習わせ、力の使い方を学ばせようと考えておる。妾としてはそんなもの要らぬのだがな。いやはや人の男は考え方が柔くてていかんのう。──武市よ、良い返事を楽しみにしておるぞ」
断れば、どうしてやろうかとその目が何より雄弁に告げていた。
引き受ければ、巷で悪名高い鬼子の面倒を見ねばならず、断ればそれこそ道場を潰されるやも。
流れの芸者にしてはやたらと威圧感を放つ女に許可を貰い庭先に出た。
どちらにせよ厄介であることに変わりはなく、自然とため息が溢れた。
よく手入れの行き届いた庭では、早咲きの梅と白椿が競うように咲いていた。
風になって梅の芳しい香りが届く。
誘われるように、その木の下へと足が進んだ。
視界には映らぬが、まだ例の子供たちが遊んでいるようできゃらきゃらと子供の笑い声が聞こえる。
その声にまだまだ幼い友人たちを思い出す。
その笑い声が突然、泣き声へと変わった。
見れば白椿の近くに全く同じ顔をした二人の子供がいた。
二人とも揃いの羽織と袴を身につけている。
片割れが転んでしまったのか、エンエンと泣きじゃくりその片割れをもう一人が眺めているところだった。
産まれた家が上士であるだけあり、どちらも子供ながらに仕立ての良い華やかなものだ。
「お前は弱いなあ」
「姉さんが強いんだ」
「だからって──」
果たしてその後に続く言葉はなんであったのか。
鬼のような形相で現れた乳母に双子は何も言い返さずに粛々と叱りつけられている。
子供が転んだだけで、何をそんなに強く怒鳴りつけることがあるのかと、流石に理不尽な様子に眉が寄った。
そもそも乳母は何が起きたのかすら本人達に聞いていない。
問いかけはした。けれどそれは答えを聞くためのものでなく、一方的に責め立てるためのものであるように思えた。
怒鳴りつけられる子供の表情は抜け落ちて、無が貼り付けられている。
そんな表情から一体どんな内心が読み取れるというだろう。
けれど降りかかる理不尽に、何も言い返さない子の姿というのは何とも痛々しく思えた。
なので、ついつい関わる気のなかったはずの相手へと声をかけてしまったわけである。
あのまま家に居続け、あの乳母と関わるよりは少しの間でも息のつける場所があればよかろうかと剣術指南の話を受けることにした。
「わー、この私に剣術指南か! さぞや腕が立つのだろうな! よし! お前を負かして、その矜持をバキバキにへし折ってやろう!」
「……それは楽しみですな」
ニコニコと笑う幼子に、やはり子供は言い返すくらいでちょうど良かろうと笑みが溢れた。
「先生」
久助は何を思ったのか、道場に通い始めてすぐに私をそんな呼び方で呼ぶようになった。
以蔵と並ぶほどの才能が久助にはあると、そのときにはすでに周知であって少し擽ったくもありながら嬉しかった。
「先生はなんで怒らないんだ?」
不思議そうに問いかける久助の頭を撫でた。
久助が私をわざと怒らせようとしていることにも気がついていた。
してはならぬ、と告げたことをすぐさま実行して私の様子を窺っている。
それは一緒にいる大人が、何をしたら怒り始めるのか確かめているように見えた。
私は理不尽に誰かを、とりわけ自分より幼い子供を怒鳴りつけたりはしないのだと行動を待って答えた。
ただ知って欲しかった。この世にあるのは理不尽な大人ばかりではないのだと。
乳母に怒鳴られ、言い返すこともしなかった幼子は年の比較的近い龍馬や以蔵と関わるうちにそんなことも減っていき稽古を飛び出して外で遊ぶようにすら変化していく。
親でも兄妹でもないけれど、その変化が喜ばしい。
「姉さんは強いんだ」
「そうか」
「姉さんは強いから、弱い奴の気持ちがわからない」
「そんなこともあるだろうな」
外で駆け回るようになった久助の姿を眩しいものを見る目で追う、その双子の弟。
彼をして体が弱く、心も弱いと評したのは久助であった。
「わからないままでいる方が幸せなこともあったのに……余計なことをするな、武市」
「余計なこと、とは何だ」
キッと睨みつけられ瞠目した。
何事もされるがままであったのは尚久も同じで、この子にこんな目が出来たのかと驚いたのだ。
喜ばしい変化を迎えた久助、では尚久は?
「姉さんにはお前なんか要らなかった」
尚久はそう言い残して、以降稽古にやって来ることはなかった。
久助には聞いても、「尚久に剣は要らなかったんだろ。アイツは弱いから」と返されるだけ。
弱さとはなんだ、強さとはなんだ。
やがて尚久が藩主山内家の養子となったことを知らされた。
すべてが遠く過ぎ去って、尚久の言う余計なことの意味に気付かされる。
「先生、どうだ。私は強くなっただろう。今日は三人斬ったぞ。明日は何人斬ってやろうか。なあ先生」
花の綻ぶようだった久助の笑顔を血に濡れ獣じみた笑みに変えてしまったのは私だ。
剣の腕がたつから、剣の才能があったから、私を先生と慕ってくれるから、と利用した。
もしも久助に剣の道を示さなければ、──あの子には違う未来があったのではないかと思わずにいられない。
今からでも間に合うか。
理不尽な大人に対して何も言い返さないあの子に知って欲しかったのは、血に濡れた剣ではなくて──。
「何故……お前は私に従うのだ」
ある京での会話だ。
血に濡れた久助が不思議そうに首を傾げる。隣に立つ田中くんは静かな瞳で私を振り返り久助へと視線を移す。
「先生のことが好きだからだよ。他に理由なんている?」
「……そうか」
真っ直ぐな言葉に、頭を抱えかけたのを何とか留まる。
かつて鬼子と呼ばれた幼子を本当の鬼にしてしまったのはきっと私だ。
久助よ、どうか。
どうか今からでも、人としての幸いを知ってくれ。
そんなことを身勝手にも願いながら久助に人斬りを頼むことを辞めて、剣を捨て女として生きろと遠い故郷から文を送った。
直接に告げることをしなかったのは、降りかかった理不尽に言い返さず無表情になる久助を見たくはなかったからだった。
なので、やはり私はどうしようもなく弱いのだろう。
結局のところ、それは逃げでしかなかった。
サーヴァントとして死んですぐ後の世に召喚されて、ふと思ったのは久助はどう過ごしているだろうかということだった。
「あぁ、彼女か? 彼女なら新撰組の三番隊隊長と夫婦になって土佐の奴らに裏切り者って言われていたぜ」
「なっなぜ、」
「そりゃそうだろ? 君が死んで逸る土佐者たちが冷静にものを考えられると思うか? まあ考えられる奴もいるだろうが、そういう奴はそもそも君に心酔はしないだろ!」
ケラケラと笑う高杉に血の気が引いた。
確かに同志となったのは、同郷の中ではとくに血気盛んな若者が多く……いやそれにしても何故よりにもよって新撰組なのだ。
郷里を捨てて、同志であった者達から裏切り者と罵られ、さらに敵だった男と夫婦に!?
それは無事なのか。
いいように利用されたりしていないか。
決して私が言えることではなかろうが。
「会いに行くか? なら住所を教えてやるよ」
「……何故君は知ってるんだ」
「いやあ、面白い奴の住んでる場所はいつか面白いことがあるかもだから覚えてるのさ」
高杉のあんまりな言葉に頭痛がしてきた。
そうして会いに……どう過ごしているのか一目だけ見に教えられた住所へと向かったのだ。
紫陽花の道を並んで歩く睦まじい夫婦の姿。
ほんの少し表情は暗くとも、夫から血の臭いがして来ようとも、久助は笑っていた。
穏やかに嫋やかに、ごく当たり前の幸いを手に入れた娘のように。
きっと何も心配はいらなかった。
久助は強いのだ。ああ、本当に強い子だった。
霊体化していた。
霊体化したサーヴァントの気配を只人が気付くことなど、万に一つもあり得なかった。
けれどその万に一つに気がつくのが久助という天才なのだと、失念していた。
驚いた顔をした久助が振り返る。
当然目が合うことはない。
視線は私を通り抜け、誰もいないことに久助の表情がサッと抜け落ちた。
それを見てしまい、もうどうしようもなくなってしまったのだ。
「……久助、息災か」
「せ、んせい……?」
声をかければ久助は泣き出す寸前のような表情を浮かべた。
けれど涙は落ちない。
そうだ、昔からお前は泣かない子供だった。
関わらない方が良いことは理解していた。久助ならば、それでも生きていくのだろうと。
間違いなく過ちであると分かっていながら声をかけた。
抱えた[[rb:感情> 苦痛]]を表に出せない子供を放っておくことが出来ないだけなのだ。
私はどうしようもなく弱い愚か者だ。